相模国風土記を訪ねる、雛鶴姫逃避行の道、その一、古福志まで
※写真は旧牧野村川上集落南側入口の石塔群、右から三番目は、二十三夜+蚕影山の養蚕信仰の塔でした。ここまで山地だと水田は無理で、炭や養蚕で稼ぎ銭で年貢を納めていたのでしょう。
マイナー鎌倉街道シリーズの前回、境川右岸横山党の鎌倉道
でも触れました、大塔宮護良親王が、足利直義の命により、淵野辺義博によって処刑された事件、その後の物語が、雛鶴姫逃避行です。
雛鶴姫一行が逃避行した道筋は、以下の様に様々言われていますが、
都留雛鶴神社
富士登山者に変装し鎌倉街道に入り、相模の大山より津久井郡青根に入り休養し、甲斐国秋山神野峠を来たり、十日間休養する。それより山谷を越えて無生野に来る都留石船神社境内名所案内板
相模小田原より青根村を経て甲斐秋山村無生野より王旅峠を越えて昔の鎌倉街道をこの地に逃れて都留市立図書館(都留市史、秋山村志)
鎌倉を逃れ、相州の河合を経て甲州秋山に入って桜井の裏山にある王沢で一休みしたあと、古福志の四ッ堂に7日間逗留し、そののち神野沼田から王野入屋敷を経て無生野へ辿り着いた。秋山雛鶴神社
鎌倉を出立され、相州下柏尾の四つ杭の井戸で首級を清め、成正寺で供養し、次いで串川村の光明寺に立ち寄り、更に川合という地に休み、甲州秋山に入り、桜井の裏山王沢から古福志の四つ堂に七日間逗留し、死亡した従者の為に彌陀を建て、王の入り屋敷に休息の後、無生野の里に辿り着いた。秋山の民話
神野沼田で一休みした後、王の入り川を遡って王の入り屋敷から山を越え秋山峠が見える権田橋付近に辿り着いた。牧野村峰山
小船地区の大下という家に泊まり秋山村に向かった。青山千部塚
千部塚は、大塔宮護良親王の三十三回忌に法華経千部を修し、供養塔を建立した場所と伝えられています。また、護良親王妃の雛鶴姫が、親王の遺骨を奉持して京へ逃れる際、青山に辿りついたとする伝承が残されています。
概ね、鎌倉から鎌倉街道中道で柏尾、柏尾通り大山道の戸田の渡しで相模川を渡り、八王子道を北上、中依知で信玄道に乗り換え、和名抄の河会郷比定地である下川入を通過し、箕輪、角田、田代、半原、韮尾根と行って、青山の光明寺に暫く逗留し、鳥屋、トヅラ峠、青野原、伏馬田、菅井、小船、川上、大久和、大鐘、奥牧野から甲州に入り、秋山村の一古沢、桜井、古福志、神野、栗谷王の入り屋敷、無生野、雛鶴峠、都留村に入り朝日馬場、井倉という道筋と思われます。
この秋山川沿いに井倉に抜けていく道筋は、旧鎌倉裏街道と呼ばれています。
雛鶴姫一行が、鎌倉から来たからでしょう、逆向きに行けば鎌倉に至るわけですから。 "裏" と付くのは逃避行の道だからだと思われます。
ということで今回は、櫛川姫物語に続く津久井三姫シリーズであり、
マイナー鎌倉街道シリーズでもある、雛鶴姫逃避行の道をexploreします。
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橋本まで輪行、津久井道、鮎釣り街道、明王坂、旧小倉橋と行き、意外にキツイ小倉、根小屋、長竹、青山と進み、青山神社の東の道、この道は山越えで中野に抜ける古道ですが、ここを北上、東西の山際の道にぶつかったら西へ。少し行くと、千部塚があります。

津久井町郷土誌よれば、応安四年1371に建立された宝篋印塔で、里人はこれを千部塚と呼んでいます。大塔宮護良親王の御遺具を埋め、三十三回の御忌にあたり、法華経千部を修し、追福の供養塔として、見晴らしの良いこの地に建立したと伝えられています。

先を行きます、戻って関の二股付近、旧道を選んで光明寺を訪れます。

既述の様に、雛鶴姫一行は、ここ光明寺で暫く逗留しました。愛する人が殺された悲しみの中、身重で、且つ逃避行ですから、休息が必要でした。
ここで雛鶴姫一行を助けたのが光明寺です。柏尾からここまで、逗留したという伝承はありませんから、一日かせいぜい二日でここまで辿り着いたのでしょうか。三十五日供養まで、休息を兼ねて、ここに逗留するよう提案したのです。

光明寺ですが、当時は裏山にあり、寺号も宝積寺でした。寺紋はご覧の通りの、"丸に二引き", そうです、足利家家紋です。
それもそのはず、嘉元元年1305に足利尊氏の師匠、夢窓国師が宝積寺に留錫、塔頭として光明院を創立しましたが、永禄十二年1569の三増合戦の際、兵火にかかり、堂塔坊舎を尽く焼失し、天正六年1578, 津久井領主内藤大和守綱秀が、光明院を合併し、今の桜野の地に移し、寺号を光明寺とした縁で、開山夢窓国師、開基足利尊氏となっているのです。それにしても、足利尊氏の弟、足利直義に処刑された大塔宮護良親王、その寵姫雛鶴姫を救ったのが丸に二引きだったとは。
その後、三十三回忌の時に、光明寺が中心となったのでしょう、千部塚の宝篋印塔を建立したのです。
先を行きます、鳥屋、トヅラ峠と行って青野原から道志みちを旧道を選んで西進、

亀見橋で道志川を渡りますが、その追分手前に、

追分を牧野村方面へ。亀見橋で道志川を渡る前、ここに、小山田行村の墓があります。

天正十年1582, 天目山の戦いで武田家滅亡しましたが、
織田信長は残党狩りを徹底し、小山田行村は岩殿城から逃亡しますが、この地で敢え無く討死します。
小山田行村の逃亡ルートですが、ここに来たということは、岩殿城から、甲州道中で大月、追分で富士道を井倉まで、そして旧鎌倉裏街道なのではないでしょうか。雛鶴姫一行と同じルートを、逆向きに使ったことになります。
亀見橋で道志川を渡り、

ややキツメ、でも楽しいヒルクライムで、


と来て、伏馬田城に到着です。

天文五年1536, 武田信虎配下の小林刑部左衛門房実が、伏馬田城に攻め込み、蓮真坊寺を焼き討ちし、逃げ遅れた女子供や老人たちを捕虜として、甲斐へ連行し奴隷として売り捌いたという記録が残っています。
小林刑部左衛門房実は富士吉田に居館があります。小山田行村同様、旧鎌倉裏街道で侵攻してきたと思われます。
その後、

を過ぎ、菅井トンネル手前の、ここを行くの?!というくらい急な坂を押し、

菅井に至りますが、旧道はこの後、小船に向かう為、峰山に続く尾根へと乗りますが、今回は入口だけ確認し、k76山北藤野線を行きます。



そして、小船集落です。

先程の旧道の出口を確認してみましょう。


その後、川上集落を通り過ぎ、




そして大久和集落です。やはり、雛鶴姫一行もここを通っていましたか。

その後、



と行って、境橋を渡ると、

この道は、相模国風土記を訪ねるシリーズの牧野村で実走済です。
相甲国境を越え、最初の集落は一古沢です。ここは甲斐国志に、
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甲斐国志、古蹟部、一、古塚、一古沢の東、犬橋という地にあり、土人相伝う、古乱世の時、甲相の兵、この地に決戦のことあり、戦死の者を集めて一同にこの地に埋め、塚を築き、その上に松樹を植えその表しとすと。(以下略)
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とあるように、国境であるが故、ここで合戦がありました。この合戦、目の前秋山川対岸に北条方の奥牧野城があり、一古沢側には城ヶ峯と言う砦跡があることから、先程の伏馬田城の合戦と同じ合戦と言われています。つまり、甲斐武田信虎が家臣小林刑部左衛門房実は、富士吉田から井倉、雛鶴峠、一古沢と来てここで一戦交え、その後、奥牧野、大鐘、大久和、川上、小船、菅井、伏馬田と、今日ここまで来たルートを逆向きに、牧野村に奥深く進軍し、伏馬田城でもう一戦して引き上げたということです。



そして旧道から現道に這い上がると、

先を行きます。この直ぐ先に、桜井集落です。

"桜井の裏山にある王沢で一休みしたあと" とありました。王沢の、"沢" が川のことを指しているのだとすると、地形図から、ここしかありません。
桜井集落から旧道を少し行き、現道に復帰してまた少し行くと、古福志集落です。

"古福志の四つ堂に七日間逗留し、死亡した従者の為に彌陀を建て" とありました。七日間は初七日ですね。青山では三十五日供養でした。
四つ堂とは、辻に建つ、壁が無いお堂の事のようです。勿論現存しておらず、また、古地図を見ても辻は無く丁字路のみですが、ここが集落の中心地のようですので、ここに四つ堂があったかもしれません。
如何でしたでしょうか。
あくまでも伝承ということもあって、逃避行ルートも幾つかありますが、今回、尤もらしいのを選びました。
それでも気になるのがまず青根です。青根は青山と混同している節があったので青野原のことを言っていると解釈し青根は通らず青野原を通るルートとしました。
もう一つは王の入りです。王の入り川を遡り、秋山峠が見える権田橋との記述がありました。確かに、王の入り川を遡ると秋山峠なのです。しかし、ここまで遠回りするのも考えにくいし、秋山峠で死産するとの記述もあって、これは、雛鶴峠の間違いだろうと解釈しました。
最後は神野峠です。神野峠という峠は見つかりませんでしたが、青根から出て神野に至るなら、天神峠、綱子峠、安寺沢、金波美峠のことを指していて、このルートは、青根を正とすればあり得るルートです。
さて次回は神野から、そして峠を越えて井倉に出ます。
