舞い踊れ!第二話:べっぴんを 扇で隠す 藤の花
「ま、豆を食わされちゃあ仕方がない。用がないなら帰らせてもらうぜ」
大上段から投げつけられた大豆をまともに食らっても顔色ひとつ変えず、名乗りもせずに、その若い男は粋な皮肉を残して背を向けた。
大塚知盛が上がり框(かまち)を降り、パラパラと豆が散らばる店先を涼しい顔で歩き去り、その姿が大通りへと完全に消えた、ちょうどその直後のことである。
帳場の奥の暖簾(のれん)が揺れ、二人の女が店先へと姿を現した。 一人は、小柄な侍女の桜。 そしてもう一人は、少し大きめの豪奢な扇で顔の下半分をすっぽりと隠した、参蔵屋の跡取り娘――藤であった。
「いたた……私の胃薬はどこだ……」 「大番頭、しっかりしてください! ほら八兵衛、お前もさっさと箒もって綺麗にしやがれ!」
店先では、大番頭の光五郎が胃の腑を押さえてうずくまり、有能な手代の清吉と、どやされたばかりの八兵衛が這いつくばって懸命に大豆を掃除しているという、惨憺たる有様だった。 それを見た桜は「お、大番頭! すぐにお薬を取ってまいります!」と血相を変え、バタバタと再び奥へと駆けていった。
やがて豆の掃除が一段落し、桜が持ってきた薬を飲んだ光五郎がようやく一息ついたところで、藤は静かに口を開いた。
「……大番頭。随分と激しい怒鳴り声が聞こえましたが、一体何事です?」
涼やかな、それでいて凛とした声が響く。光五郎が慌てて平伏する中、藤は小首を傾げた。
「その散らばっていた豆は……まさか、先日の節分の残りですか?」 「お、お嬢様! 誠に申し訳ございません、お耳汚しを……!」
光五郎は再び痛み出した胃を押さえながら、今しがた起きた出来事を吐き出すように説明した。
「どこの馬の骨とも知れぬ若造が、お嬢様のお顔の事情も知らぬくせに、『本当に綺麗なのか見てやろう』などと無礼極まりないことをぬかしたのです! あまりの怒りに私が塩を撒けと命じましたところ、この間抜けな八兵衛が寝ぼけて大豆を……」 「ひぃぃっ! 大番頭、申し訳ねえッス! 俺はお嬢様のために鬼を追い払おうと……っ!」
土下座して震える八兵衛をよそに、藤はスッと扇で口元を隠したまま問うた。
「その無礼な男とは、どこのどなただったのですか?」 「それが……名乗りもしなかったので、どこの誰だかさっぱりわかりません」 「私も存じ上げません。初めて見る顔でした」
光五郎と清吉が首を横に振ると、光五郎はふと土下座している八兵衛をギロリと睨みつけた。
「おい八兵衛! お前、あのふてぶてしい男に見覚えはないか!?」
光五郎の鋭い声に、八兵衛はビクッと肩を揺らした。
(ひぃぃっ! あの男、今日来ちまったんだ……! で、でも、そんなこと大番頭に言ったら、俺、確実に殺されるッス!)
八兵衛は滝のような冷や汗を流しながら、必死に目を泳がせた。
「し、し、知りませんッス! あんな奴、俺はちっとも知らないッスよぉ!」
しどろもどろに言い訳をする八兵衛を横目に、侍女の桜が顔を真っ赤にして憤慨した。
「なんにせよ、お嬢様を冷やかしにくるような悪い鬼に違いありませんわ! 大番頭、あんな口の悪い男、叩き出して大正解でございます!」
身内がこぞって怒り心頭に発する中、当の藤お嬢様だけは、ふふっ、と扇の奥で密かに微笑んだ。
「……へえ。面白い人が、いたものねぇ」 「お嬢様?」 「私の資産だけを見てへらへらと笑う男たちより、よっぽど素直でいいじゃない」
*
参蔵屋の奥、藤の私室。 人払いを済ませた部屋で、藤はそっと手元の扇を畳み、文机の上に置いた。
露わになったその顔の下半分には、痛々しい凹凸の傷跡が広がっていた。
かつて、参蔵屋の藤といえば、誰もが振り返るほどの愛らしい、絶世の美女になるであろうと噂される娘であった。 しかし幼い頃、江戸の町を席巻した恐ろしい水疱瘡(みずぼうそう)が参蔵屋を襲った。 その病によって、藤は優しかった最愛の母を亡くした。藤自身も生死の境を彷徨い、江戸の名医たちにすら匙を投げられたものの、奇跡的に一命を取り留めた。しかし代償として、その美しい顔の下半分には「この跡はどうにもならん」と言われるほどの、ひどい傷跡が残ってしまったのである。
悲劇はそれだけではなかった。 藤には、まだ子供同士の時期ではあったが、親同士が取り決めていた大店の息子との許嫁(いいなずけ)の約束があった。 しかし、病から回復した藤の顔を覆う痛々しい傷跡を見た途端、見舞いに来ていたその少年は「ひぃっ、バケモノ!」と恐れおののき、後ろへと後ずさったのだ。
そして、少年の親もまた、顔をしかめてこう吐き捨てた。 「せっかくの器量良しだったのに、これではひどい傷物だ。参蔵屋の価値も随分と下がりましたな」
その言葉を聞いた瞬間、藤の父である大旦那の大五郎は、烈火のごとく激怒した。
『ふざけるな! 娘が死の淵から生還したというのに、顔の傷と我が家の蔵しか見ておらぬような浅ましい輩に、大事な藤は絶対にやらん!! とっとと帰れ!!!』
大旦那の怒号とともに、その婚約は木端微塵に叩き割られ、破談となった。 母を失った絶望の中で知った、男たちがいかに「うわべの美しさ」と「家の資産」しか見ていないかという残酷な現実。 そして、どんな姿になっても自分を深く愛し、守り抜いてくれた不器用で優しい父の背中。
以来、藤は人前に出る際、必ず大きめの扇で顔の下半分を隠すようになった。 皮肉なことに、大富豪の跡取り娘が常に扇で顔を隠しているという振る舞いは、人々の想像力を掻き立てた。「参蔵屋の娘は絶世の別嬪ゆえ、安易に顔を見せないのだ」という噂が江戸中に独り歩きし、現在の「扇を持ち続ける美女」という虚像が作り上げられていったのである。
幼い頃から姉妹のように育ってきた桜は、この傷と過去のせいで藤がどれほど人知れぬ血の涙を流してきたかを誰よりも知っていたからこそ、痛ましそうに顔を歪めた。
「お嬢様……あんな無礼な男の言葉、お気になさらないでくださいませ。明後日からのお見合いのことだって、きっと大番頭が良いお方を見つけてくださいますわ」
桜の言葉に、藤は悪戯っぽく瞳を細めた。
「ありがとう、桜。でもね、私はもうこの傷を疎んじてはいないのよ。この扇で顔を隠すようになってから、よく分かったわ。……男という生き物は、なんて浅ましいのかってね」
藤は、机の上の扇を指の腹でそっと撫でた。
「明後日から、連日のように見合いの席が設けられる。そこに現れる男たちは皆、参蔵屋の『蔵』ばかりを見て『お美しい』と耳障りの良いお世辞を並べ立てるでしょうね。でも、いざ私が扇を外し、この傷跡を晒した瞬間――彼らの顔には決まって、かつての許嫁と同じような隠しきれない動揺と『引きつった笑い』が浮かぶのではないかしら」
「お嬢様……」
「私はね、もう覚悟は決めているの。相手がどんなに立派な経歴を持っていようと、この顔を見た時の様子で、最後は私が判断してやるって心に決めているのよ」
「この扇はね、私を守ってくれる盾であり、男たちの『本性』を見抜く篩(ふるい)なのよ。……建前でへらへら笑うような輩に、お父様が守ってくれたこの参蔵屋の暖簾(のれん)は任せられないわ。でも、今日いらしたあの男は、違ったわ」
「違った、とは……?」
「彼は私の傷を笑いに来たわけじゃない。ただ『本当に綺麗なのか、自分の目で見て確かめたい』と言ったのよ。大番頭に怒鳴られても、大豆をぶつけられても、一切動じずにね。……桜」
「はいっ」
「八兵衛に、伝言を頼んでちょうだい。今日やってきたあの『鬼』がどこの誰だったのか、普段どんな振る舞いをしているのか、こっそり調べてきてくれないかしらって」
*
少しして、参蔵屋の裏廊下。 店先の掃除を終えた八兵衛を見つけた桜は、小走りで駆け寄った。
「八兵衛さん、お疲れ様。……あのね、お嬢様からの頼まれごとなんだけど、今日やってきたあの『鬼』がどこの誰だったか、こっそり調べてきてほしいって」 「へへっ、桜さん! 実はあの鬼の居場所は、もう突き止めてありましてね!」
八兵衛が胸を張って答えると、桜はパァッと顔を輝かせた。
「えーーっ! 八兵衛さん、すごーーい! さすがはお嬢様が見込んだ方ね!」 「へへへ、照れるッス! どうやら奴は『大塚屋』っていう、あんまりパッとしない馬借(ばしゃく)さんをねぐらにしているみたいッス! これからバッチリ見張ってきやす!」
実際の大塚屋は、着物から絹糸まで手広く商いを展開し、道中の馬子たちを情報網として使いこなす立派な大店であった。ただ、その店構えは小さく古めかしい。八兵衛の目にはただの「パッとしない馬借(荷運び屋)」にしか映っていなかったのである。 そんな八兵衛の見当外れな勘違いなど露知らず、桜は「頼もしいわ!」と拍手を送った。
やがて私室に戻ってきた桜から、その報告を受けた藤。
「……と、八兵衛さんが申しておりました。どうやら『大塚屋』という馬借をねぐらにしている男のようですわ」
それを聞いた藤は、スッと扇を開き、口元を隠して涼やかに微笑んだ。
「ふーん……面白い人も、いるものねぇ……」
扇の奥で美しき策士が初めて見つけた「盤上の駒」。 ここから、参蔵屋の大番頭と、江戸一番の切れ者と、そして不器用なバケモノたちを巻き込んだ、途方もない喜劇の幕が上がろうとしていた。
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父の研究サポートのバイト代として「チップは好きに受け取っていい」って言われて、なんとなく引き受けてしまいました。本当に面白かったらで構わないので気が向いたらお願いします。父の研究支援にも回したいと思ってます。