【問い】正しさは、ぶつけ合うものなのか、承認し合うものなのか
はじめに
今回は、苫野一徳さんのVoicy「『よく生きる』とは〜ソクラテス、ブッダ、ニーチェ、ヘーゲル」を聴いて、改めて引っかかった「相互承認」という言葉から、問いを残しておきます。
「よく生きる」を考えていて、正しさに戻ってきた
放送では、「よく生きる」ということについて、ただ自分が幸せになるだけではなく、他者と共にどうよりよく生きていくか、という視点から語られていました。
その中でも、私が改めて大事だなと感じたのが、
相互承認
という言葉です。
最近の私自身のnoteでも、「正しさとは何だろう?」というテーマで何度かモヤモヤを残しています。
仕事をしていても、家庭でも、人との関係でも、
「自分はこうした方がいいと思う」
「いや、私はこう思う」
という正しさの違いは、どうしても生まれます。
立場も違う。
経験も違う。
優先しているものも違う。
見えている景色も違う。
そう考えると、正しさがズレること自体は、ごく自然なことなのかもしれません。
相互承認は「相手に賛成すること」ではない
ここで、私自身も少し整理しておきたいことがあります。
相互承認とは、単純に「相手の言っていることを認めましょう」という意味ではないようです。
苫野さんがヘーゲルなどの哲学を踏まえて繰り返し提示しているのは「自由の相互承認」という考え方です。
苫野さんはこれを、
「互いが互いに対等に『自由』な存在であることを、まずは承認し合うこと」
と説明しています。
つまり、
「あなたが正しいから、私が折れる」
でも、
「私が正しいから、あなたを説得する」
でもない。
あなたには、あなたがそう考える理由がある。
私にも、私がそう考える理由がある。
まず、お互いが違う考えを持つ存在であることそのものを認める。
ここから始めるということなのだと思います。
正しさの表面ではなく、その奥を見る
最近、現場でも似たようなことを感じます。
誰かの発言を聞いたとき、
「それは非効率じゃない?」
「こうした方が早いのに」
「なぜ変えないんだろう」
と思うことがあります。
でも、少し踏み込んで考えてみる。
なぜ、その人はそう考えているんだろう。
何を一番大切にしているんだろう。
効率より守りたいものがあるのだろうか。
今までの経験から、何か不安を感じているのだろうか。
そこまで見てみると、表面的には「非効率」に見えていた行動にも、その人なりの合理性が見えてくることがあります。
つまり私は最近、
相手の正しさではなく、相手の「正しさが生まれている構造」を見ること
が大事なのではないかと思うようになりました。
でも、それはものすごく面倒くさい
とはいえ、これを組織でやろうとすると、とても時間がかかります。
一人ひとりの考えを聞く。
背景を理解する。
価値観の違いを整理する。
納得できるところを探していく。
業務だけを考えれば、
「こうした方が効率的だから変えましょう」
と決めてしまった方が圧倒的に早い。
だからこそ、組織では「技術的に正しいこと」が優先されやすいのだと思います。
ロナルド・A・ハイフェッツらの『最難関のリーダーシップ』では、問題を「技術的問題」と「適応課題」に分けて考えます。
既存の知識や経験で解決できるものが技術的問題。
一方で、人々の価値観や優先順位、習慣、関係性などの変化を必要とするのが適応課題です。
そして本書は、
「それは技術的問題ではない――『適応課題』だ。」
と、その違いを強く指摘しています。
正しい変化なのに、なぜ進まないのか
現場でも、変化を起こそうとしている人が苦しんでいる姿を見ることがあります。
本人は、
現場をもっと良くしたい。
もっと効率的にしたい。
もっとみんなが同じ方向を向いて働けるようにしたい。
そんな思いを持っている。
決して悪いことではありません。
むしろ、とても前向きです。
でも、不思議なことに、なかなか歯車が噛み合わない。
一方で、今までのやり方を大きく変えず、ある程度現状維持で進めている方が、安定して仕事が回っているように見えることもあります。
なぜなんだろう。
もしかすると、その「非効率」に見える現状の中にも、
誰かにとっての安心。
働きやすさ。
慣れ。
人間関係。
過去の経験。
失いたくないもの。
そんな、外側からは見えにくい合理性が存在しているのかもしれません。
変える前に、何を見なければならないのか
『最難関のリーダーシップ』では、適応課題に取り組むとき、
「技術的問題に飛びつかない。現実を観察・診断・分析せよ。」
とされています。
これは、今の私にはすごく響きます。
変えることより先に、見る。
正しさを伝えるより先に、聞く。
効率化するより先に、なぜ今の状態が維持されているのかを考える。
そこには、一見すると無駄に見えるものの中に、その組織をこれまで支えてきた何かがあるのかもしれません。
そう考えると、今回残しておきたい問いは、
正しさは、ぶつけ合うものなのか、承認し合うものなのか。
そして、
非効率に見えるものの中に、誰かにとってのどんな合理性があるのか。
さらに、
私たちは変えようとする前に、その場にある「正しさの構造」をどれだけ見れているだろうか。
相互承認は、少し面倒くさい。
時間もかかる。
それでも、違う人たちと一緒に「よく生きる」「よく働く」ことを考えるなら、その遠回りに意味があるのかもしれません。
答えは、まだありません。
私自身も、現場で起きる摩擦を見ながら考え続けたい問いです。
あなたの現場ではどうでしょうか。
正しいことを伝える前に、相手の正しさがどこから生まれているのかを、見れているでしょうか。
▼この問いについて、
構造から整理した記事も書きました
摩擦を、構造に。
問いを、資産に。
Yuta
