【掌編】『魔法の解かれた先で』(第九十六話)
【前回までのあらすじ】
王妃に誘われ、エレノアとともに庭で茶を囲むテオ。和やかな時間の中、ラズロが使用人へ向ける横柄な態度を目の当たりにし、テオは改めて彼への違和感を覚える。やがて話題はベルナールへ。父の思い出を笑って語る母に、テオは戸惑いを隠せず――。
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※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
第九十六話
「そんなことを気にしていたの?」
母は少し目を丸くしたあと、口元に笑みを浮かべた。
「私はただ、あの人のことでこれ以上悩むのをやめただけ」
「――何が違うんだよ」
私にはよく分からなかった。父のことを話題に出せば、母はまた過去を思い出して苦しくなるんじゃないか。そう思っていたのに、母は笑いながら父の話をしている。
母は私の顔を覗き込みながら、諭すように言った。
「忘れるってね、何も過去を否定することだけじゃないのよ。ちゃんと折り合いをつけることも、立派に忘れるということだと思うわ」
その声は明るかった。
父を忘れるということは、その思い出にも蓋をすることなのだと思っていた。でも、母にとってはそうでなかった。
――折り合いをつける、か。
「その考え方、とてもよく分かります――」
隣で話を聞いていたエレノアが、卓の上へ視線を落とした。
「私も、少し前まで本当だと思っていたことが、突然嘘だったって分かったことがあって……」
耳に入ってきた瞬間から、それがあの地図のことだとすぐに分かった。母はおそらく知らないだろうが、それでもエレノアの言葉に真摯に耳を傾けていた。
「もちろん……簡単に許せることではないけれど、そのことばかり考えていたって、嘘が本当になることもないでしょう? だったら、いつまでもくよくよしていても仕方ないなって思ったんです」
「いい心がけね」
何度も頷きながら話を聞いていた母が、そう言ってエレノアに微笑みかけた。そして、何かをひらめいたように人差し指を立てる。
「そういうときは、新しいことを始めるのがいいと聞くわ。私も何か趣味を始めようと思っているの」
「それ、とってもいいと思います!」
エレノアが身を乗り出す。
私は思わず母の顔をまじまじと見つめた。
「趣味って、何をするんだ?」
「そうねえ、お菓子作りなんてどうかしら?」
「母上がお菓子を……?」
母が厨房に立っている姿を想像するが、思い浮かぶのは粉まみれの母と荒れた厨房だった。呆れながら小さく笑いが溢れると、母がじろりとこちらを見た。
「何よ、その顔。私にはできないと思ってる?」
「そ、そんなことは……」
言葉を濁していると、エレノアが母の方へ顔を寄せる。
「お菓子作りなら、以前、お母様から少しだけ教わったことがありますわ。もしよろしければ、ご一緒させてください」
「まあ、とても心強いわね」
二人は顔を見合わせて笑った。
その光景を眺めていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
――エレノアが城にやってきたら、きっと毎日こんなふうに賑やかなんだろうな。
食卓でエレノアが楽しそうに話し、母が笑っている。その隣に私がいて、くだらないことで言い合いになったり、また母に笑われたりするのかもしれない。
――母上も、ずっとこんなふうに笑っていられるかもしれない。
同時にアデールの顔も頭に浮かんだ。
舞踏会で向かい合った灰緑色の瞳と、落ち着いた笑顔。
話している間も気を遣うことなく、二人きりの時間もとても楽しかった。旅の話にも興味を持ってくれたし、また会いたいとも言ってくれた。彼女が私を好いてくれていることも、何となく分かる。
でも、私はまだアデールのことをほとんど知らない。
もっと話してみたい。どんなものが好きで、普段どんな暮らしをしているのかも聞いてみたい。
アデールのことをもっと知りたいと思う一方で、私は当たり前のようにエレノアがこの城にいる未来を思い描いていた。
――私はいったい、どちらを見ているんだろう。
「テオはどちらが好きなの?」
ふいに飛んできたエレノアの声に心臓が大きく脈打った。顔を上げると、エレノアと母がこちらを見ている。
「どっち……って、そんなのこの場で決められるわけが……」
言葉にしながら、後ろめたさと恥ずかしさが同時に押し寄せる。
エレノアはそんな私の心の内を知ってか知らずか、呆れたように笑う。
「まあ、テオって意外と食いしん坊なのね」
「……え?」
私を置き去りにしたまま、エレノアは母へ向き直った。
「じゃあ、両方作りましょうか。プディングも焼き菓子も」
「ええ、そうしましょう」
母も嬉しそうに笑った。
そこでようやく、自分が何を聞かれていたのかを理解した。自分の耳が熱を帯びていくのが分かる。
向かいを見ると、母がカップの陰に口元を隠しながら、くすくすと笑っていた。
「笑うなよ……」
「ごめんなさいね。とても可笑しくて」
母はしばらく口元を押さえていた。
それから旅先の話や、エミュニアの街の話をしながら、母とエレノアの間で話が盛り上がっていった。私は今度こそ一言一句聞き逃さないよう、集中して二人の話を聞いていた。
次第に庭へ差し込んでいた陽が傾き、木々の影が石畳の上へ長く伸び始める。 「姫君、そろそろお戻りになる時間です」
庭の隅で待機していたエレノアの侍女が口を開いた。
「もうそんな時間なの?」
エレノアが赤くなっていく空を見上げて、名残惜しそうに席を立った。母もエレノアを見送るために椅子から立とうとしたが、彼女は母の脇へ寄ってそれを制した。
「今日はありがとうございました。絶対においしいお菓子、作りましょうね!」
「ええ、楽しみにしているわ」
その後、一礼して歩き出したエレノアが木立の向こうへ消えるまで、母はその背中を見送っていた。
「とってもいい子ね」
遠くへ視線を向けたまま、母がぽつりと呟く。
なんだか、自分のことまで褒められたようで嬉しいかった。一緒に旅をしてきた仲間を母が気に入ってくれた。それだけでも少し誇らしい。ただ、胸の奥に残ったこの嬉しさは、単にそれだけではないような気もした。
「そういえば――」
何か思い出したように、こちらへ顔を向けた。
「舞踏会にも来ていらしたんでしょう? 縁談のお相手」
不意を突かれ、胸がざわつく。
「……ああ。とてもいい人だったよ。話していても楽しかった」
思い浮かぶままに話すと、母は「それはよかったわ」と笑みを浮かべた。
母はしばらく私の顔をじっと見つめていた。
「な、なんだよ……」
耐えきれずに言い放つと、母は頬杖をつきながら僅かに眉を寄せた。
「何だかあなたを見ていると、アデールさんのことが少し心配だわ」
「心配って……」
何か不安がらせるようなことを言っただろうか。
「だってあなたって、別のことを考えているとすぐに分かるんだもの……。さっきだって――」
その先は聞きたくなかった。先ほどの勘違いをぶり返されるようで、また顔が熱くなる。
「さあ、もう日が暮れる。部屋に戻ろう」
私は逃げるように椅子から立ち上がった。背後からまた小さな笑い声が聞こえる。
「――あの人そっくり」
「また父上のはなしかよ……」
私はそれ以上何も言わず、母へ手を差し出した。
「ほら。もう行くよ」
「はいはい……」
母は私の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
母の隣を歩きながら視線を下ろすと、それに気づいた母がこちらを見上げて小さく笑った。
十年という時間の長さを改めて感じながらも、『くよくよしていても仕方がない』というエレノアの言葉が思い起こされる。
――過去は過去だよな。
こうして母と話して、笑って、これからまた新しい思い出が増えていけばいい。そう思いながら自然と笑えていることが、ほんの少し嬉しかった。
掌編『魔法の解かれた先で』
第九十七話に続く→
第九十六話のご拝読
ありがとうございます✨️
【あてにならない次回の見どころ👀】
エレノアとアデール。二人への気持ちの間で揺れるテオは、自分の心とどう向き合うのか――。
📔第九十七話の更新は
9/11(金)を予定しています。
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