【掌編】『魔法の解かれた先で』(第九十八話)
【前回までのあらすじ】
母との茶会から二日後、テオはアデールに誘われ城下町へ。市場で果物を味わいながら旅の思い出を語り合ううち、テオは自分が今も旅を望んでいることに気づく。夜光虫を描いた絵から、父の詩や島の手がかりも脳裏をよぎる。そんな迷いごと受け止め、旅を応援すると告げるアデールに、テオの心は静かに近づいていった。
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※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
第九十八話
「でしたら、私はテオ様の旅を応援しますわ」
アデールの言ってくれたその言葉が、素直に嬉しかった。
「ありがとう」
笑って返すと、アデールも静かに微笑んだ。
露店の並ぶ通りを抜けると、やがて城下の大通りへ出た。昼を過ぎたばかりだというのに、朝よりもずっと人が多くなっていた。買い物籠を抱えた者、荷を背負った商人、子どもの手を引く親。道の脇には露店が増え、その隙間を縫うように人の波が続いている。
アデールは少し歩みを緩め、左右を見渡した。
「すごい人ですわね。私の街では、こんな光景はなかなか見ません」
「そうなのか。君の住んでいる街のことも聞きたいな」
そう言うとアデールは少し躊躇うように顔を伏せた。
「ここよりはだいぶ田舎ですけれど……」
アデールが話しかけた時、通りを歩いてきた男の肩がアデールの背中に触れた。押されるように彼女の身体が傾き、私は咄嗟に腕を伸ばす。
「危ない!」
アデールの身体が、そのまま私の胸元へ飛び込んできた。
細い肩を抱えるような格好になり、思わず息を止める。顔を上げたアデールと目が合った。日の光を溜め込んだ灰緑色の瞳がいつもよりずっと近くにある。
――ちょっと近すぎやしないか……。
腕を緩めればすぐに離れられるのに、彼女の背中に回した手を動かすのが躊躇われた。
アデールも少し驚いたような表情のまま、じっと動かず私の胸に留まっていた。
もう少しだけ、こうしていてもいいかな……。
そんなことを思った矢先だった。
「ゴホッ、ゴホッ!」
すぐそばで大きな咳が響き、我に返る。
――大丈夫か?
――ああ。今朝からちょっと喉の調子が悪くてな。
二人の男はそんな言葉だけを交わし、そのまま人混みの中へ消えていく。
視線を戻すと、まだアデールの肩に手を添えたままだった。
――いつまでこうしてるんだ、私は。
さすがに長いこと彼女を抱えすぎたかと、慌てて腕を離す。アデールも顔を赤らめながら一歩下がり、乱れた髪を耳へかけた。なぜか急に周囲のざわめきばかりが耳に入ってくる。
「こうも人が多くては、静かにお話もできませんね」
自分でも妙に改まった言い方になってしまったと思ったところで、ふと胸元に忍ばせた小さなメモのことを思い出した。
今朝、城を出ようとした私に、ラズロがやけにニヤついた笑みを浮かべて近づいてきた。
『坊っちゃま。本日はご令嬢とデートなのでございましょう? 静かな場所をお探しなら、こちらなどお勧めですぞ』
そう言って差し出したのは、小さく折り畳まれたメモ用紙だった。変な想像でもしてやいないかと眉をひそめつつ、結局その紙は懐へしまったままだった。
胸元から取り出して開くと、お茶処の名前と簡単な地図が書かれていた。その下には『柑橘のタルトが絶品ですぞ』とメモ書きが残されている。
場所も幸いここからさほど遠くはない。
――ラズロ、案外いいやつだな。
「この近くに、茶を嗜める場があるらしい。行ってみないか?」
アデールが頷いたので、私たちは人の多い大通りを離れた。
紙に書かれた地図を頼りに細い路地を進むと、ほどなくして控えめな看板を掲げた店が見つかった。ずいぶんと古くからある店のようで、煉瓦積みの壁には蔦が張っている。人通りも少なく、そこだけまるで時間が止まったように静まり返っていた。
扉を開けると、わずかに聞こえていた喧騒すらも消え、途端に豊潤な紅茶の香りと穏やかな空気があたりを包み込んだ。
店内には艶のある木の卓がゆったりと置かれ、窓辺には小さな白い花が飾られていた。客の話し声も落ち着いていて、ときおり食器の触れ合う音が響く程度だ。
「まあ、素敵なお店ですわね。テオ様はこんなところをご存じだったんですね」
「いや、人づてに教えてもらったんだ」
窓際の席に向かい合って座る。ほどなくして紅茶と焼き菓子が運ばれてくる。
アデールが輪切りの柑橘が乗った焼き菓子を口に運び、幸せそうな笑みを浮かべた。
私もひと口食べると、甘みと酸味がほどよく交じり合い、口の中でほろりと崩れた。紅茶との相性もいい。
――ラズロ、でかしたぞ。
今朝のあの笑い方を思い出すと素直に礼を言う気にはなれないが、店選びに関しては文句のつけようがない。
――言い方さえ気をつければ、かなり気遣いのできる男なんだがな……。
そんなことを考えながらカップへ手を伸ばしていると、向かいのアデールがふと小さく笑った。
「どうした?」
「いえ。小さいころのことを思い出してしまって。私、勝手に農家さんの作業場へ忍び込んで怒られたことがあるんです」
「まさか、君が?」
思わず聞き返すと、アデールは少し肩をすくめた。
「私の街――街といっても、ここみたいな都会ではないんですけれど――果物を作っている農家さんがたくさんあるんです。私は、作業場いっぱいに広がる柑橘の香りが大好きで――」
アデールはカップの縁に指を添えながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「たまに一人になりたくなると、仕事が終わったあとの作業場へよく行っていたんです。木箱が積まれた隅に座っていると、不思議と落ち着いたんですよ」
私は口を挟まず、そのまま耳を傾ける。
「私にとっては一人で静かになれる場所でしたけれど、お父様には叱られました。『農家の方たちにとっては暮らしに直結する場なのだから、何かあってご迷惑をかけてはいけない』って」
そう言って、アデールは口元に小さな笑みを浮かべた。
「君にも一人になりたい時があるのだな」
「私だって落ち込むことはありますもの。テオ様にも、そういう時はおありでしょう?」
アデールがそう言って小さく首を傾ける。思い浮かぶのは自室の寝台で膝を抱える自分の姿だった。
「私は小さい頃から、一人でいることが多かったから……」
口にした途端、少し気持ちが沈む。
――あの頃は、一人でいることが当たり前だったな。
アデールがカップを置き、心配そうにこちらを見た。
「嫌なことを思い出させてしまいました?」
「いや、気にしなくていい。今ではもう過去のことだ」
私は首を横に振り、努めて笑顔を見せた。
「君とこうして笑って話ができるくらいには、今を楽しんでるよ」
アデールは一度瞬きをしてから、ゆっくり口元を緩めた。
少し間を置いて、アデールが思いついたように口を開く。
「そうだ。今度、私の街にもいらして」
「君の街に?」
アデールが誇らしげな笑みを浮かべて顔を寄せる。
「ええ。ここよりはだいぶ田舎ですけれど、とても自然が豊かで、落ち着いたところなんです。テオ様にもぜひ見ていただきたいですわ」
――アデールが育った場所か。
「それなら、ぜひ行ってみたいな」
私がそう言うと、アデールは目元を緩めて嬉しそうにカップを両手で包んだ。
「では、約束ですわね。きっと気に入っていただけると思います」
果樹園に、果物の匂いが満ちた作業場。話を聞いただけでは、まだはっきりとした景色までは浮かんでこない。
けれど、次にアデールと会う時には、その場所を一緒に歩いているのだろうと思うと胸が高鳴った。
窓の外へ目を向けると、午後の陽がゆっくりと傾き始めていた。時間が過ぎるのは、何とあっという間なのだろう。時計の秒針が否応なく進んでいくことを少しだけ恨みながら、私はアデールとしばらく見つめ合い、二人きりの時間を楽しんでいた。
掌編『魔法の解かれた先で』
第九十九話に続く→
第九十八話のご拝読
ありがとうございます✨️
【あてにならない次回の見どころ👀】
アデールとの約束通り、彼女の住む街へと足を運ぶテオ。二人の距離が一気に縮まる。
📔第九十九話の更新は
9/13(日)を予定しています。
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