美栄橋
瞼を閉じても、血液の赤い色がなんとなく見えるほど、額には強い光が差し込んでくる。くぐもった音で、携帯電話が鳴っている。瞼を開けるのがただしんどいので、手探りで探し、横になったままの体勢がバレないように声を張って電話に応じた。私が所属する読書会で、代表をしている上原さんの声がする。
「大丈夫、ですか」
朝起きた時点で財布がないことに気がつき、本日の読書会を欠席させてくださいと文章で連絡していた。そしてベランダを開けて、エアコンもかけずに二度寝をしていた。
布団巻きのジローで、私が誤って布団を分解した時も何気なく上原さんに話したら、大丈夫ですか、と言われた。それで状況は片付かないけれど、声を聞くたびに私が随分と、私自身に心細さを強いていたのだなと実感する。大丈夫じゃない人に限って大丈夫と言うよね、と、昔誰かに言われた声が反対の耳に響くから、大丈夫ですか、に同じだけ正直に答えたくなる。
「財布がないです、嘉手納の現場に停めた車に置いてきました。今日は、読書会、参加できません」
「え、車もない!?」
彼が状況を仕分けする声を聞きながら、意識は半分眠っていて、昨日金武インター近くの駐車場から見えた金武湾の夢を見ていた。砂利を積んだタンカーが横切り、こちらに来る波が一気に五〇センチメートルほど伸びる。辺野古を向いたタンカーが遠のいて、すぐに波の振幅は減衰し、海の泡が弾ける音より小さな声で上原さんが何か言っている。足元の濡れた砂利が乾いていくと、もう帰ろう、と囁く時のような声が急に近くに聞こえた。水分がなくなった目の奥が、ズキズキとこすれる。
「もしかしたら家のどこかに、一万円くらい眠っているかもしれませんから、探してみます」
金武湾の夢を乱暴にかき消し、状況を組み立て直して言葉を置いた。存在しない喉仏のあたりが、詰まったような音を出していた。
「わかりました、今日はお待ちしていますよ」
寝起きに聞こえるの電話の声は、誰であっても懐かしく寂しい。電話を切って、眩暈を振り払って立ち上がる。
廊下に続く扉を開けると、湿った熱気に額が押された。暗い廊下の向こうで、数時間前に止まった洗濯機が待っている。脱水で一つの輪のようになった手拭いと作業着をほどくと、見覚えのないタオルが落ちた。記憶を解きながら、ピンチハンガーに吊るしていく。作業着に対して洗濯バサミが弱すぎるのか、何度も取り落としながらそれを干した。並んだ作業着と手拭いの隙間から、蜃気楼に揺れる首里の丘が見えた。いよいよ暑い。目を細めていたら、今度は会社の携帯電話が鳴った。車取りに行くとき俺が必要なら言ってください、と言う吉田君からのショートメールを確認する。
そうだそうだ、昨夜残業中に熱中症が限界にきて、吉田君に送ってもらったのだ。と、空になった水筒を洗いながら記憶を確定させる。だからタオルは多分、彼に借りたのだ。
記憶が片付くと急に、参加費五〇〇円と場所代の現金を工面しなければならないことを思い出した。いつも読書会が開催されている会場までは歩けば良いか、と考えた矢先に、首里の丘を包む蜃気楼を思い出して背中が重くなる。
程なくして、裁縫箱にとっておいた一万円の存在を思い出した。去年の七月、日本銀行券が新札に切り替わるタイミングで、福沢諭吉のピン札を記念にととっておいたのだ。一年経った今でもシワのない旧札は珍しくないので、使ってしまうことにした。たった五百円と少しのために、一万円札を崩そうとサンエーに向かった。
午前中にサンエーに行くのは初めてだ。
サンエーはひんやりと涼しい、いつも寒いくらいだと思っていたが、今日はありがたい。セルフレジも、有人レジも当たり前に空いている時間帯。よく話しかけてくる年配の店員も、奇跡的にレジに揃った三人の宮里も、新人らしい店員もいない。時間帯が早すぎて、惣菜も売っていない。外の方が明るいから、店内はいつもより暗く見える。いつもなら買わない天使の羽と、カチューユー、お守りのヘパリーゼを持って、セルフレジに向かった。セルフレジは、操作に慣れていないオバァ(老婦人)と中年の女性、私とは違う作業着に空調服を着た若い男で埋まっている。サンエーの冷房を吸い込んで膨らんだ空調服、寒いはずだが作業着の男は少しも動じず、ペットボトルと塩分タブレットがたくさん入った袋を抱えて出ていく。
ほとんどオートマチックに作業着の男のレジに吸い込まれ、一万円札を入れた。当然、今日はサンエーカードもない。年配の店員だったら、大きくてすみません、いえいえー、え?サンエーカード忘れた?仕方ないなぁ、と少しだけ話しが弾んだだろう。一万円を吸い込んだセルフレジは、こちらにお構いなしに「袋台から離れてください」と少し違和感のある単語を発した。
アパートについてベランダを開け、扇風機を首振りにした。お湯を沸かしてカチューユーを準備し、天使の羽を浮かべた。カチューユーの表面に浮かんだ天使の羽は、扇風機がこちらを向いた時だけくるくると回る。
「お金を工面できたので大丈夫です」
上原さんにメールを打っていると、南部鉄器が今までにないほど長い音をたてた。
「お、よかった、了解です!」
なんとなく、夜にもう一度サンエーに行かなければならない気がしてきた。
