連載小説|婚活女子とおネエの、こじらせ深夜日記|第1夜|この世からレシピが消えた夜
裏路地のバー「南十字星」で、金欠の霧中(きりなか)ピン子は夜バイト中。
ママ・紅葉(もみじ)との何気ない夜が、彼女の中に、ひとつずつ小さな問いを残していきます。
「……ママ、たいへんなことが起きました」
閉店後の南十字星。赤いライトだけがカウンターの木目を、少し眠たそうに照らしている。グラスを片づけていた紅葉の背中に、霧中(きりなか)ピン子の切羽詰まった声が突き刺さった。
「なに、店潰れる系? それとも、あんたの婚活アカウント炎上系?」
「どっちもギリ生きてますけど違います!」
ピン子はスマホを握りしめ、今にも泣きそうな顔をしていた。
「ママ、聞いてください。さっきスマホのレシピアプリ、全部データ吹っ飛んだんです。お気に入りも、作った履歴も、全部真っ白。……この世からレシピが消えたみたいな画面になってるんです……!」
紅葉はグラスをくるりと回して、ふうっと小さく息を吐く。
「で?」
「『で?』じゃないですよ!? 私、レシピなかったら、今夜から餓死コースなんですけど!」
ようやく振り返った紅葉は、スマホをちらっと見ただけで言う。
「あんたの台所、Wi-Fi切れたら機能停止すんの? レシピは酸素じゃなくて、ただのメモよ?」
「酸素です! 今の私にとっては完全に酸素です!」
ピン子は椅子に崩れ落ちた。大げさに見えるけれど、本人はわりと本気だ。あなたの周りにも、こういう人、ひとりくらいいないだろうか。
「はいはい。餓死する前に、まかない作るわよ」
紅葉はカウンターの中へ入って、冷蔵庫を開けた。中を覗き込みながら、ひとりごとの温度で言う。
「卵。かまぼこ。しなびかけのほうれん草。……あと、今日のお通しの筍の煮物。鶏肉も入ってたやつね」
「え、筍の煮物まで使っちゃうんですか?」
「使うに決まってるでしょう。あれ、今日の私が作ったんだから」
紅葉がかまぼこを取り出して、ふと顔をしかめる。
「……今日が賞味期限か」
「うわ、ギリギリ」
「こういうのってね、買ったの忘れてるのよ。自分の冷蔵庫なのに、初見の顔して出てくる」
「私、めちゃくちゃ分かりますそれ……」
まな板が置かれる。包丁が出る。ピン子が息を止めた。
見とれるような包丁さばきで、かまぼこがほっそーい千切りになっていく。筍も千切り。煮物に入っていた鶏肉も細かく切られていく。ほうれん草はザクザク。
「……ママ、手つきが怖い。職人のやつ」
「怖いのはあんたの婚活だって」
紅葉は顔色ひとつ変えず、鍋に湯を沸かす。
「まず、ほうれん草茹でる」
「はい」
「で、三分の二は冷水。残りはそのままスープ」
ピン子が覗き込む。
「え、分けるんですか。スープと、あれ、なんかもう一品?」
「ほうれん草のナムル。あんた、こういうの好きそうな顔してるから」
「顔で決めるスタイルなんだ……」
冷水につけたほうれん草を、紅葉はぎゅっと絞る。塩コショウ、ごま油、すりおろしにんにく。手が迷わない。
残ったほうれん草のほうには、乾燥わかめ。そこへウェイパーを目分量で入れて、かまぼこもちょっとだけ放り込む。
「……あの」
「なに」
「茹でたお湯、そのまま使うんですか?」
「良いのよ。お湯沸かし直すのめんどうでしょ!」
紅葉は一拍置いて、指を立てた。
「タイムイズマニー☆」
「その☆どこから出てくるんですか」
「気分」
年季の入った中華鍋が出てきた。火にかけた瞬間、空気が少し変わる。ピン子はなぜか背筋が伸びた。
細かく切った具を炒め、溶いた卵を入れて、ふわっと半熟で仕上げる。それをご飯の上に、どん。
「え、もう天津飯の上できてる」
「天津飯って、“卵をご飯に乗せたら天津飯”だから」
ピン子が思わず笑ってしまう。
次に紅葉は、空いた中華鍋にさっきのスープを少しだけ入れた。冷蔵庫を開けて「んー」と唸りながら、ポン酢、みりん。そこへ片栗粉でとろみ。
「よく、あんかけなんて作れますね? レシピ覚えてるんですか?」
「適当よ。卵と合いそうな液体に、とろみ付けるだけ」
紅葉は鍋の中を見ながら、平然と言う。
「酸っぱくても甘くても正解!」
とろり、とろり。あんが出来上がって、天津飯へかけられる。
「うわ、ちゃんと天津飯だ……」
「“ちゃんと”って何よ。あんたが勝手に決めた“ちゃんと”で自分を縛るの、今日で終わりにしなさい」
ピン子は箸を持ったまま、固まった。
「……え、今、説教ですか?」
「違う。今日は餓死回避」
ピン子が一口食べる。次にスープを飲む。ナムルをつまむ。目が、じわっと大きくなる。
「……え。これ、冷蔵庫の残り物ですよね?」
「そうよ。かまぼこは今日が賞味期限、ほうれん草はしなびてた、筍はお通しの残り。全部“やばい側”の食材」
「なのに、普通に、おいしい……。っていうか、ちゃんと“ごはん”になってる……」
紅葉は氷を一つ、グラスに落とした。カラン、と静かに鳴る。
「ねえピン子。さっき“レシピが消えたら餓死する”って言ったでしょ」
「言いました。ガチでそう思いました」
「でも、餓死してない。今ここにあるもので、今日のあんたが満たされてる。それが料理よ」
ピン子は、スマホを見た。さっきまで酸素だったはずの画面が、急に“ただの箱”に見えた。
「……でも、ママ。これ、レシピにして残したほうが」
「記録はいいわよ。後から好きにしなさい」
紅葉は少しだけ声を落とす。
「でもね。最初に必要なのはレシピじゃない。“今日の冷蔵庫”と“今日の自分”を見るほう。こっちが先」
ピン子は、口の中の天津飯を飲み込みながら、小さくうなずいた。
翌日、会社の昼休み。スマホの画面に「人気レシピアプリ」のアイコンが並ぶ。
「……再インストール、しようかな」
ピン子はダウンロードボタンの上に指を置いて、しばらく止まった。昨夜のとろみの香りと、紅葉の声が、ふっと蘇る。
「最初に見るのは、冷蔵庫と、自分の顔色……」
ピン子はそっと画面を閉じた。
その横で、紅葉がぼそっとつぶやいた。
「あんた、多分レシピ捨てれたら、人生変わるわよ」
「……何でですか?」
「教えな〜い。秘密♡」
2話へ続く・・・
第2夜|問題はどこなの?レシピは解答用紙!?
https://note.com/29muroji_ken/n/nd09f89fef901
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また次の夜も、ふらっと覗きに来てください。
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◎ これまでの夜
第1夜|この世からレシピが消えた夜
https://note.com/29muroji_ken/n/n8c766f176ea2
第2夜|問題はどこなの?レシピは解答用紙!?
https://note.com/29muroji_ken/n/nd09f89fef901
第3夜|正解を探さなくなった夜
https://note.com/29muroji_ken/n/n8c5350425e75
第4夜|プロの料理と、あなたの晩ごはんは競技が違う
https://note.com/29muroji_ken/n/nac4c03042f44
全話一覧(マガジン)
https://note.com/29muroji_ken/m/mac9e2270cc31
