笑いと僕:最終話 DREAMER
オーディションの舞台で靴を脱ぎ忘れ、客席からの生温い失笑を完膚なきまでに浴びたその数日後、僕は方針を変えようと思った。
高校の校庭を揺らしたあの漫才だって、隣にいた相方の発想力に寄りかかっていた部分が大きかった。第一、何の基礎もない人間が、実力主義の事務所オーディションに受かるはずもないと思ったのだ。
これは基本の「き」からやらなければ。 四月、僕は天下の吉本興業の養成所、New Star Creation――略して、NSCの門を叩いた。
大学を一年で中退してしまった僕には、もう後戻りのできる道は残っていなかった。入学金の四十万円を工面してくれた母と、なぜか熱烈に応援してくれた父の熱い視線を背中に受けながら、実家から神保町へ向かう電車の中で「自分にはこれしかない」と必死に言い聞かせて、戦地へと向かった。
初日のオリエンテーションでMCをしていたのは、前年の首席として頭角を現していたナイチンゲールダンスだった。 教室には、ハイスクールマンザイ出身の実力者や、サムライみたいに髷を結った男、そして派手な黒ギャルまで、とんでもない個性を持った同期たちが集まっていた。
ふと、最初に違和感を覚えたのは、授業を待つ階段でのことだった。 狭い階段に座り込んで待っていると、上から棒のように痩せ細った先輩芸人が降りてきた。その脇には、雑にガムテープで補強された、手作りの段ボールの小道具が抱えられている。日頃の栄養失調を顕すかのような生気のない虚ろな目で通り過ぎていくその姿を見た瞬間、僕の頭の中で小さな警報が鳴りひびいた。
(……なんか、ここあまりにも俗世から離れすぎてないか?)
あまりにも世間から切り離された、お笑いというガラパゴスの世界。 重々覚悟していたつもりではあったが、あの段ボールの小道具を抱えて街を歩く自分の姿を想像したとき、背筋に冷たいものが走った。それまで笑いこそがすべてだ、と思い込んでいた僕の視界から急速に魔法が解けていくような感覚があった。
実際の授業の内容も、どこか狂気じみていた。 養成所には様々なカリキュラムが存在する。一番代表的なのは作家の前でネタを披露する「ネタ見せ」だが、それ以外にも、タンクトップと短パン姿にさせられ、「ウンコ!」と大声で叫んでリズムに合わせて踊るような、自意識を破壊するための授業もあった。何度考えても、あの授業は出なくてもよかった。
ある日の授業では、 やや都心から外れた広いホールに集められたかと思えば、「人気芸人」という触れ込みのもと、ペ〇ルティの〇ッキーさんが特別講師として現れた。舞台上で額に汗を浮かべ、青筋を立てながら熱心に一発ギャグを伝授してくれる。テレビの向こう側にしかいるはずのない見慣れた顔を生で見てかなり胸焼けしていたのだが、授業の最後のほうになると〇ッキーさんは突然「よし、最後はみんなで歌おう!」と言い出した。 流れてきたのは、ブルーノ・マーズの『Marry You』だった。
なぜか生徒全員で手拍子をしながら、甘く爽やかな洋楽ポップスを合唱させられる。 広いホールで、お笑いを志す汗だくの男たちと黒ギャルが、肩を揺らしながら英語のラブソングを歌っている。僕としては、歌いながら「自分は一体、ここで何をしているんだろう」と途方に暮れるばかりだった。
お笑いというものへの考え方が急激に変わった瞬間もあった。
とある授業のとき、一人の女子生徒が、名前を呼ばれるなり舞台の中央へ猛ダッシュで飛び出していく。 そして、大勢の生徒と講師の視線が集中するそのど真ん中で、両手を大きく広げ、臆面もなく絶叫した。
「ビークビックビックビックちくび!」
教室の空気が、ざわめいた。 「あいつ、やったよ……」というドン引きした空気もあったが、彼女はそんな周囲の反応など微塵も意に介していなかった。間髪容れずに次のギャグを繰り出し、そこから澱みないテンポでマシンガントークを展開して、仕切りの先輩もそれに呼応し、彼女をいじった。彼女は、なんのひねりもないギャグで教室の空気を自分色に塗り替えてしまったのだ。
本当に生意気ながら、僕はギャグ芸人のことを見下していた節があった。しかし、スベるリスクは高かれど、やりさえすれば100%注目を自分に向けることができるギャグというものは、まさに絶対的な「飛び道具」であり、画期的な発明なのだということに気付かされた。
どれだけ頭の中で緻密なネタを練り上げようと、人前に出て「ビークビックビックビックちくび!」と叫べる人間には、逆立ちしたって敵うはずがない。お笑い芸人という生き物は、面白いかどうか以前に、「何が何でも目立ちたい」という底なしのエゴを人前に晒せるかどうかが、芸人を続ける上での絶対条件なのだということを痛感した。
僕はといえば、そんな覚悟の決まった目立つ人たちと友達になりたいと思いながらも、自信がなくてネタをすることはできないし、その世界に浸っていく覚悟もできていなかった。だからその様子を少し遠巻きに見ていることしかできなかった。たまの大喜利の授業で発言するのがやっと。
それでも、一度だけ同期たちとやった公園での飲み会は、本当に楽しかった。神保町の近くの薄暗い公園に集まり、缶ビールやコンビニのチューハイを片手に飲んだ夜。とある女の子が僕たちに話した。
「なんかCクラスのネタ見せの時間、やばい人がいたんだって。その人、ネタの時間に自分の人生を年表形式で発表していったらしいんだよ、それでこのときに自殺未遂したとか、このとき自己破産したとか、そんな暗い話ばっかりだったんだって。先生も『止めろ!!』って言ったんだけど、その人止めなくて。」
とんでもない人がいるものだ、と言いたかったが、当時の僕はその人の気持ちが痛いほどわかってしまう気がした。面白いことがしたくても、彼はその術を持ち合わせておらず、自分のしみったれた人生をぶつけるしかないと考えたのだろう。
他にも、どの先生は怒らせると怖いだの、どんなヤバいコンビがいただのを話したあの数時間だけは、学生時代のようで、不思議と居心地がよかったのを覚えている。
しかし、授業にいけば洋楽ポップスを歌わされたり、タンクトップで卑猥な言葉を叫ばされる異質な空間だ。そんな中で思った。とりあえず、相方を探さなければ何も始まらない、と。
NSCには、まだ相方が決まっていない初期の生徒たちのために、いわば「街コン」のようなマッチング形式の授業が数回、用意されていた。
最初の自己紹介タイムで、教室の空気を一変させた男がいた。 身長は150cmほど。小柄な体躯に似合わない、一度耳にこびりついたら離れないような、しゃがれたアヒルのような声。彼が口を開いて一声発するたびに、教室中からどっと爆笑が起きていた。天性の声質とフォルム。持っている者と持たざる者が残酷なまでに分かれる世界で、彼は明らかに前者だった。
(こいつと組めば、なんとかなるかもしれない…)
打算と藁にもすがる思いで声をかけると、彼も僕を面白がってくれて、トントン拍子に「一度やってみよう」という話になった。
けれど、二人で並んで歩き、ネタの相談を始めた途端、僕の中でどす黒いエゴが鎌首をもたげた。
神保町の古びた喫茶店に入り、向かい合ってノートを広げているとき、どうしても周囲の客の視線が気になってしまうのだ。 誰がどう見ても、彼は圧倒的な「色物」だった。その隣に立つということは、僕自身もまた、そのおかしな世界の住人として世間に見られることを意味していた。
僕は心のどこかで「スマートで、センスがあって、格好いい側のお笑い」を気取ろうとしていたのだ。彼の持つ強烈な引力は理解していたものの、同時に、その隣に並ぶ自分の気恥ずかしさに耐えられなくなってしまった。
「……ごめん。なんか、違うかもしれない」
彼には何の落ち度もなかった。僕の勝手な見栄と、浅ましいプライドが原因だった。 数日と経たないうちに、僕は連絡を曖昧にし、逃げるように彼から距離を置いた。 傷つくのが怖くて、人を踏み台にしようとしただけ。自分の底の浅さを突きつけられて、猛烈に自分が嫌になった。
次に声をかけてくれたのは、バカリズムを思わせる落ち着いた雰囲気を持つ男性だった。 二人で水道橋のロイヤルホストに入り、ドリンクバーを挟んで話をした。
どんな芸人が好きか、どんな構成のネタをやっていきたいか、彼は真摯に僕の拙い意見にも耳を傾けてくれた。 だが、話が進めば進むほど、僕の心は鉛を呑み込んだように重たくなっていった。
彼はすでに大学を卒業し、いろいろな選択肢を知った上で覚悟を決めてこの門を叩いた「大人」だった。 自らの足でしっかりと地面を踏みしめている彼を前に、大学を中退して、ただふらふらと逃げ込んできただけの19歳の自分が、あまりにもみすぼらしく、薄っぺらく思えて仕方なくなってしまったのだ。 (今思えば大差ないのだが…)
なにより、僕自身の心が「芸人になる覚悟」をだんだんと拒絶しているのが分かった。耐えきれなくなってしまった僕は、帰りの電車で発作的にLINEを送った。
『俺、やっぱコンビ組むの辞めときます』
情けない、完全なメンヘラの発動だった。 理解のある彼氏よろしく「大丈夫だよ、もう少し一緒にがんばろっか」とでも言ってほしかったのだろうか。少しの間を置いて、画面に返信が届いた。
『わかった!』
怒るでも引き止めるでもない、あまりにあっけない一言だった。 その文字を見つめながら、僕は自分がどれだけちっぽけで意気地なしに成り下がっているかを思い知らされた。何も始められず、一歩も踏み出せないまま、ただ怖くなって逃げ出したのだ。
その夜、実家の自室で一人考えた。考え込むと、どんどんマイナス思考になってしまうのが人間の常である。考え込んだ僕は、残酷で現実的な思考に直面してしまった。
(……俺、お笑い芸人を目指してることで、もの凄く不幸になってないか?)
高校時代、僕が身体を張って笑わせていた同級生たちは有名大学に通い、真っ当な未来へ突き進んでいる。それに引き換え、大学を中退し、「売れない芸人の卵」にすらなれていない僕の肩書は、ただの無職と何も相違ない。
一年前は校庭の中心で千人を沸かせていたのに、今の自分は何なんだろう。 あのとき感じた万能感はどこへ消えたのか。なぜこんなウジウジしているのか。悔しいが、社会の秤の上に置かれた僕の価値は、完全にゼロだった。 情けなくて、惨めで、涙すら出なかった。19歳の僕はあまりに繊細すぎて、自分が「レールから脱落した人間」になっていく現実に、一秒たりとも耐えられなかった。
思えば、あの日、夕暮れの校庭で大地を揺らした「TOKYO」で、僕の持っていた人を笑わせることへの熱量はとっくに燃え尽きていたのだ。 燃え殻ばかりになった灰を必死にかき集め、まだ火が点いていると思い込もうとしていただけだった。
たった二か月で、僕はNSCを辞めることにした。
ある日の夕方、玄関の引き戸がガラガラと開き、仕事から母が帰ってきた。 買い物袋を提げて台所へ向かい、疲れた背中で荷物を置く母の後ろ姿を見て、僕は喉の奥を震わせながら切り出した。
「母さん……俺、NSC辞めようと思う」
短いため息のあと、母の鋭い声がリビングに響いた。
「はあ?! やめるなら、次何やるか考えてからやめなさい!!」
普段感情をあまり出さない母にこっぴどく叱られた。まったくもって当然のことだ。 けれど、今考えると「根性なし」とも「払った四十万を返せ」とも言われなかった。 母から返ってきたのは、ただ、「次を考えろ」という言葉だった。 身勝手に大学を辞め、大金をドブに捨てたバカ息子に対し、母は怒りの中でも、わが子に命綱を投げるかのように、愛ある叱咤をくれていたのだと、今になって痛いほど分かる。
そこから、僕は自室に引きこもった。 大学も捨て、お笑いからも逃げ出した、何者でもなくなった19歳。もうじきハタチになる人間の抜け殻がそこにはあった。
部屋の天井を見つめながら、僕は過去の自分の行動を激しく顧みていた。 笑いを取りたい一心で他のことを見失っていた自分。真面目になにかに取り組む人たちを、「面白くない」と斜に構えて小馬鹿にしていた自分。分かった気になってテレビの中の芸人を上から目線で批評していた自分。 自らの人間としての浅ましさと愚かさが、津波のような自己嫌悪となって押し寄せてきたのだ。
そして、なぜ僕はあそこまで狂気的に笑いに固執していたのかについても、改めて考えた。
その答えは単純だった。やっぱり僕は、本質的に人と会話をすることが苦手だったんだと思う。 普通に世間話をして、自然に心を通わせるというやり方が、どうしても分からなかった。だからこそ、笑いをとっている間だけは自分がここにいていいと許されている気がして、異常なまでにしがみついていたんだ。
赤ペンで花丸がもらえなくなったあの日から、笑いという丸をもらうためだけに、必死で声を張り上げ、身体を張り続けていただけ。 笑いとは僕にとって、自分のプライドを守るための「傘」でしかなかったのだ。
今まで取ってきた愚かな行動のすべてを消して、白紙になりたい。 みんなと同じように、真っ当な道を歩みたい。 猛烈に、「普通」というものに憧れた。
六月に入る頃、僕は部屋を出て、近所の本屋へ向かった。 そして、大学受験の参考書を片っ端から買い集めた。
朝、目が覚めると、まず顔を洗って外へ出る。 駅前のすき家へ行き、カウンターの端に座って牛丼の大盛を頼む。運ばれてきたどんぶりに紅生姜を乗せ、黙々と胃袋へ流し込む。 実家へ戻ると、すぐに机に向かい、参考書を開いてペンを走らせる。 夕方になり、集中力が切れて頭が重くなると、あの日脱ぎ忘れたスニーカーを履いて外へ出た。夕暮れの沈んでいくアスファルトの上を、息が苦しくなるまで無心で走り続ける。そうして汗だくになって帰宅し、シャワーを浴びてまた机に戻る。人として奇妙なほどに理にかなった生活を始めた。
高校時代は「こんなもの生きていく上で何の役にも立たねーよ!」と吐き捨て、道端に捨てた数学の定理を、一つひとつノートに起こし理解していく。あのときは理解できなかった公式が、驚くほどに確かな意味を持って頭に入ってくる。 青い表紙のターゲットを開き、赤シートを当てて英単語を頭に詰め込む。ベッドの脇には、米粒のような細かい文字がびっしりと敷き詰められた世界史の用語集を積み上げ、寝る直前まで年号と事件を頭に叩き込んだ。
ただ暗記に没頭している間だけは、過去への後悔も、あっけなく諦めた夢への未練も考えずに済んだ。 正解のないお笑いの世界で、「面白いか、スベっているか」「これをしたら、誰にどう思われるのか」という他人の気まぐれな評価に怯えなくてはいけない日々と比べたら、唯一の正解のみを導けばよい机の上の勉強はあまりにも確かで、誠実で、温かだった。
そのときの僕にとって、机に向かうことは社会の冷たい風から身を守るシェルターだった。問題を解けるようになればなるほど、僕は『普通』に近づけている感覚があった。
そうして夜、疲れ果てて布団に入るときは、ラジオから流れる『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』、通称サンドリを聴いた。
世の中の綺麗事や有象無象のブームを、容赦のない泥水のような毒舌で嘲笑い飛ばす有吉の声。 それを聴いているときだけは、「狂っているのは世間の方で、部屋の隅で膝を抱えている俺たちは別におかしくないんだ」と、なぜか赦されたような気持ちになれた。
きゅっと中央に寄ったあの苦み走った顔から放たれる言葉には、不思議な安心感があった。 ランニング中には、彼の昔のコンビ時代である猿岩石時代に出された曲を繰り返し聴いた。特に『白い雲のように』は、擦り切れるほど再生した。素朴で荒削りな、驚くほど繊細な曲。
悔しくて零れ落ちたあの涙も
瞳の奥に消えていった夕日も
目を閉じると輝く宝物だよ
ランニング中に聞いていたこの歌詞が、身も心もボロボロになっていた当時の僕を救ってくれた。 すべてを放り出して無職になり、自室の布団の中で縮こまっていた僕の惨めな涙すらも、いつか目を閉じたときに宝物になる日が来るのだろう。そう信じることができた。
翌年の春、僕は自室というシェルターを出ることに成功した。私立大学の合格通知を手にしたのだ。 今度こそ死んでも卒業しよう、と心に決めて。
キャンパスに戻り、普通の大学生としての日々が始まった。 履修登録を期限通りに行い、講義を受ける。レポートを書き、友達と学食でくだらない話をする、そんな二年遅れの「普通」を手にした。あの時の自分がバカにしていたことを淡々とこなしていく。そうした生活を送っていくにつれ、だんだんと心が回復していった。そんななかで、「もう一度お笑いをやってみようか」という思いが何度か頭をかすめた。
だが、少なくとも今まで、僕は二度とその一歩を踏み出すことはなかった。 自分がその世界に圧倒的に向いていないことを、もう分かっているからだ。僕のように気が小さく神経質な人間は、表舞台に立って批判を浴び続けながら生きていくことなんて到底できやしないのだ。
それでもなお、僕は今でもお笑いが大好きだ。 自分の人格を形作った一番のカルチャーだし、本当に苦しいとき人を救ってくれるのは笑いだと思っている。今でも『チャンスの時間』は毎週見ているし、一年で一番の楽しみはM-1グランプリだ。もちろんお笑いで得たユーモアは今も特定の友人の間のみに、存分に発揮している。
そして、NSCに通っていた頃の自分には、今ならこう言ってやりたい。
「最低でも半年くらいは通え! ネタなんてやらなくていいから!」と。
授業には名だたる芸人たちが来ていて、それだけで面白かったし、あの場所に身を置いているだけでも得られるものは確実にあった。 何より、当時の同期には魔人武骨――のちの令和ロマンがいたのだ。 通っとけバカ! と、今の僕ならお笑いフリークとして間違いなく首根っこを掴んで当時の自分を怒鳴りつけるだろう。
人は必ずしも、就きたい仕事に就けるわけではない。 その切符は、本当に限られた人にしか配られないのだと思う。
けれど、大人になった今、昔NSCに通っていたことを話すと、周りの大人たちは目の色を変えて食いついてくる。
「同期に誰がいたの?」 「全部で何人くらいいたの?」 「誰と、どんなネタやってたの?」
みんな、夢を追ってみたいのだ。 本当はみんな、一度くらいはお笑い芸人になってみたかったのかもしれない。
あの日、中学校の教室の真ん中で跳躍した『海老反り』も。 暮れなずむ校庭で、千人の大警報を鳴らした『TOKYO』も。 『靴』を脱ぎ忘れて失笑を買った、オーディションの恥辱も。すぐに行かなくなってしまったNSCも。布団の中で聞いたSUNDAY NIGHT 『DREAMER』も。すべては、お笑いの神様に翻弄されていた、短く、熱い季節の出来事だった。
僕はようやく道化の仮面を脱ぎ捨て、ペンを握り直し、現実という退屈で愛おしい地面の上を、一歩ずつ踏みならすように歩いている。あの日の涙と傷跡がいずれ、宝物になることを祈りながら。
おわり
P.S. 拙い私小説ですが、読んでいただきありがとうございました。基本的には実体験ベースですが、ところどころ脚色含んでおります。ぜひスキ&コメントいただけると励みになります。全四部作となっておりますので、気になった方は第一話から読んでいただけますと幸いです。最後に『白い雲のように』も載せておきます。それでは、また👋
猿岩石/白い雲のように
