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母を許せたのは、50代になってからだった

母がなぜあれほど厳しかったのか、事情は理解できました。

それでも、許すことはできませんでした。

実際に怒りが消えたと気づいたのは、50代になってからです。

前回、セッションの中で母との記憶にたどり着いたところまでお話ししました。今回は、その続きです。

理解しても、許せなかった

セッションで母との記憶にたどり着いたとき、私は何かが解決すると思っていました。たしかに、直後は心が晴れていました。ですが、そこからさらに深い問題に突き当たったのです。

最初に出てきたのは、母の価値観に長いあいだ縛られてきたことに対する怒りです。「それは私のことを思ってやっていたのだ」と感謝しようとしても、できませんでした。

今の人生が、自分の人生ではないように思えてくる。そんな喪失感にも襲われました。理解することは、許しへの入り口に過ぎませんでした。

遊びに行く約束は、いつも消えた

子どもの頃、私は遊ぶことをあまり許されませんでした。友達と約束をして帰ってきても、母に一方的に否定されて、勉強を強いられる。楽しみにしていた予定が、家に着いた瞬間に消える。あの虚しい気持ちは、今でも思い出せます。

母に否定されると、胸が重くなりました。うまく言葉にできませんが、体の真ん中に重石を置かれたような感じです。自由を奪われているという感覚を、私は子どもの頃からずっと持っていました。

もうひとつ、あとになって気づいたことがあります。**母は、ほとんど人を褒めませんでした。**私だけではありません。誰のことも褒めない人でした。そのことが私の自信のなさに大きく影響していたのだと、ずいぶん経ってから分かりました。

母は競争心の強い人でもありました。きょうだいのあいだで、子育て競争のような意識を持っていたのではないかと思います。今で言えば、マウントをとりたがる人です。思うようにいかないと、感情を抑えきれなくなることもありました。

だから、私も無意識に、母を怒らせないような行動をとっていたのだと思います。私にはきょうだいもいなかったため、母の視線はいつも私に向けられていて、息苦しかったのです。

昭和のモーレツ社員の時代です。父が平日に帰宅するのは、いつも私が寝たあとの夜中でした。日々、家の中で母と向き合っていたのは、私ひとりでした。

今でも母は、「私は何も悪いことはしていない!」と言います。母は、自分が正しいことをしていると信じていたのです。

9人きょうだいで、卵は一日ひとつ

では、母はどういう人だったのか。母は昭和元年、東大阪の片田舎に生まれました。9人きょうだいの3番目です。母を含め、子どもはもともと11人いましたが、2人は幼くして亡くなりました。父親は左官職人や植木職人をして生計を立てていて、生活は決して楽ではありませんでした。

家では鶏を飼っていて、毎日ひとつ卵を産みました。それを家族で順番に食べていたそうです。

思春期を迎えたのは、ちょうど第二次世界大戦のころです。きょうだいの中では上の方だったので、大阪の闇市へ買い出しに行かされました。

そうしないと安い食料が買えず、大家族が生き延びることが難しかったのです。闇市は油断のならないところで、それが怖かったと言っていました。

母は小さい頃からまじめで、成績が良かったそうです。高校進学を前に、中学校の先生がわざわざ家まで来て、こう勧めました。

「この子は優秀なので、女学校に進学させてはどうか」

**両親は、それを断りました。**家庭に余裕がなかったからです。

どれほど落胆したことでしょう。卒業した母は電話交換士になりました。そこでも優秀で、表彰されたこともあるそうです。やがて父と出会って結婚しましたが、その後、結核を患いました。その影響もあって、私が生まれたのは結婚から7年目のことでした。

しっかりすることが、生きる価値だった

母には、妹や弟の面倒を見る役目がありました。弟たちの衣服を作るために、裁縫や編み物も覚えさせられたそうです。9人きょうだいの3番目だった母が、両親から十分に甘えさせてもらえたとは思えません。

母にとっては、しっかりしていることが、自分の生きる価値になったのではないでしょうか。きちんとやれば認められる。手を抜けば居場所がなくなる。そういう感覚を身につけて、大人になったのだと思います。

それが、母の保守的で批判的な面につながったのでしょう。

そして子どもには、学歴をつけさせようとしました。よい会社に入って定期収入を得ることが、何よりのステータスとされていた時代です。自分が進めなかった道を、子どもには進ませたかったのでしょう。

厳しく教育したのも、それが子どもにとってよい人生につながると信じていたからです。きっと、ほかの選択肢は母の目に入らなかったのでしょう。

まじめな性格ゆえに、一つの道を突き進む。母にとっては、それが生きるうえでの唯一の正解でした。

許せたとき、自由になったのは私でした

母の人生をこうして振り返ったとき、この人もまた、厳しい環境を生き抜いてきたのだと気づきました。母の性格を形づくった背景が、はっきりと見えてきたのです。

そのとき、自然と「許してもいい」と思えるようになりました。順番が逆だったのです。許そうと努力したのではありません。母のことを以前より深く知ることができたから、許せたのです。

許したあと、怒りや喪失感が少しずつ和らいでいきました。それだけではなく、母の言葉や態度に振り回されなくなったのです。自分はもっと自由に生きてもいいのだ、と思えるようになりました。

私を縛っていたのは、母そのものではなく、母への怒りを手放せずにいた私自身だったのです。

母を見ても、少しも怒りを感じなくなったと気づいたのは、50代になってからです。あなたが、誰かを「許したいと思っても許せない」という気持ちを抱いていても、それは不思議なことではありません。無理に答えを出そうとせず、時間の流れに任せてみる。それも一つの方法なのかもしれません。

正しい母と、幸せではなかった私

母は、自分が正しいと信じていました。私は、自分のことを深く考えないまま、その正しさに沿って生きてきました。**自分で考えなければ、誰かの価値観に沿って生きることになります。**私の場合、それが母の価値観だったのです。

宇宙は、正しいか間違いかで動いているわけではない。

いまは、そう思いますが、この言葉は、母には届かないと思います。物事を正しいか間違いかだけで判断し続けても、人が幸せになるとは限りません。たとえ自分の子どもであっても、自分の価値観を押しつければ、そこに苦しみが生まれます。

母の言うとおりにして、幸せを感じたことはほとんどありません。その一方で、自分の考えや気持ちを優先して選んだとき、その結果がどのようなものであっても、私は幸せを感じます。

両親の影響から離れ、自分の考えで選ぶ。それが、自分の人生を自分のものにしていく道のりなのだと思います。そうしなければ、人生のどこかで荷物が重くなりすぎるのかもしれません。

みなさんにも、これまで気づかなかった、あるいは目を背けていた過去の荷物はないでしょうか。

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これまでの記事は、マガジン「70年かけて検証した――心と体、お金と人間関係、見えないもの」にまとめています。連載完結まで1年以上かかる予定ですが、週4回更新しています。


次回は、このセッションを受けた直後の話です。人の心の仕組みをもっと知りたくなり、今度は自分がセッションをする側になろうとしたのです。ヒプノセラピスト養成講座で、思いがけない言葉に出会いました。

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