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考えすぎる人は、どうすれば人生にのめり込めるのか

私は、何かを好きになっても、そこに深くのめり込むことがあまりできない。

楽しいとは思う。好きだとも思う。

でも、その輪の中心に入り、夢中になり、前のめりに時間や感情を注ぐところまではいかない。

一人で触れているときには、ぼんやりと楽しい。けれど、強く熱中している人たちを見ると、自分とは少し違うと感じる。

そこには、いつも距離がある。

好きなのに、輪の中には入れない

好きなものについて語り合い、同じ熱量で盛り上がり、生活の一部になるほど深く関わる。

そういう人たちを見ると、少し羨ましく感じることがある。

同時に、自分はそこまで前のめりにはなれない、とも思う。

無理にその輪に入ろうとすると、少し演じているような感覚になる。かといって外側にいれば、自分だけが離れた場所にいるような寂しさも残る。

好きではある。

でも、同じ好き方はできない。

その微妙な距離感が、趣味だけでなく、自分の人生全体にもあるように思う。

自分の人生なのに、どこか俯瞰して見てしまう

私は、自分自身のことすら少し離れたところから見てしまう。

何かに夢中になりかけても、「本当にそこまでやるのか」「これは意味があるのか」「自分はいま何をしているのか」と、もう一人の自分が外側から眺めている。

物事の構造を考える。

限界や矛盾を見る。

その場の熱気から少し離れ、冷静に全体を眺めようとする。

分析思考や批判的思考は、仕事をするうえでは役に立つ。簡単に流されず、物事を複数の角度から考えることができる。

ただ、その視点が強すぎると、人生の中でも常に観客席に座ることになる。

舞台には立っているはずなのに、自分が演じている姿を客席から見ている。

そんな感覚がある。

俯瞰することは、行動しない理由にもなる

何かにのめり込むということは、完全に合理的な行為ではない。

それが将来どう役に立つのか、どれほど意味があるのか、どこまで続くのか。

そうしたことをすべて確認してから夢中になる人は、たぶんあまりいない。

好きだからやる。

面白いから続ける。

気づいたら多くの時間を使っていた。

のめり込む人は、そうやって物事との距離を縮めていく。

一方で、俯瞰する視点を持っていると、行動する前に考えてしまう。

そこまでやる価値はあるのか。

時間やお金を使ってもいいのか。

後から冷めたとき、無駄だったと思わないか。

考えること自体が悪いわけではない。

ただ、その思考がいつも先に立つと、物事に深く関わる前に、自分で距離を置いてしまう。

そして深く関わらないから、主体性も生まれにくい。

主体性は、関わる中で生まれる

主体的に生きるとは、最初から強い意志を持っていることではないのかもしれない。

何かを選び、関わり、時間を使い、その中で感情が動く。

その積み重ねによって、少しずつ「これは自分の人生だ」という感覚が生まれる。

つまり、主体性は内側から突然湧いてくるものではなく、物事と関わる中で育っていく。

そう考えると、常に一歩引いている人が主体性を感じにくいのは、ある意味では自然でもある。

距離があるから、深く関われない。

深く関われないから、自分の選択としての実感が育たない。

自分の人生なのに、自分がその中心にいないように感じる。

この感覚は、主体性がないから生まれるのではなく、主体性が生まれるほど近くまで、物事に関われていないことから生まれるのかもしれない。

この距離は、変えられないのか

俯瞰することや、少し斜に構えて物事を見ることは、自分の個性でもある。

長い時間をかけて身についた思考の癖を、意思だけで簡単に変えることは難しい。

だから、熱中できる人と同じようになろうとする必要はないのだと思う。

輪の中心に入らなくてもいい。

大きな声で好きを語れなくてもいい。

淡い関心を長く持ち続けることも、自分なりの関わり方ではある。

ただ、「自分はこういう人間だから、何にも夢中にはなれない」と、未来まで決め切る必要もない。

人は、意思だけで変わるとは限らない。

環境が変わることもある。

思いがけない人と出会うこともある。

それまで遠くから眺めていたものが、突然自分にとって身近なものになることもある。

そのとき、無理に前のめりになろうとしなくても、自然に距離が縮まっていくかもしれない。

人生を楽しむとは、距離が縮まることなのかもしれない

人生を楽しむとは、いつも夢中になり、情熱的に生きることではない。

自分と物事との間にある距離が、少しずつ縮まっていくことなのかもしれない。

最初はぼんやりと好きだったものに、もう一度触れてみる。

少しだけ長く時間を使う。

誰かの熱量を、自分との違いとして切り離すのではなく、近づくきっかけとして眺めてみる。

そうした関わりの中で、後から主体性が生まれることもある。

俯瞰する自分を消すことはできない。

たぶん、消す必要もない。

それでも、いつか何かとの距離が自然に縮まり、気づけば前のめりになっていることはあるかもしれない。

いつも一歩引いてしまう私たちに必要なのは、無理に人生の主人公になろうとすることではない。

自分が少し近づいてみたいと思えるものを、完全に諦めずに残しておくことなのだと思う。

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