不幸ではない。でも、人生が前に進んでいる感じがしない――停滞感の正体
深刻に不幸なわけではない。
仕事をして、収入を得て、週末には休む。時々旅行へ行き、友人と会い、好きなものを買う。生活が破綻しているわけでもなければ、今すぐ何かを変えなければならないほど追い詰められているわけでもない。
それでも、どこかに閉塞感がある。
数年前と今を比べても、人生がどこかへ進んだという感覚が薄い。今週末と同じような週末を数年前にも過ごしていたし、数年後にも同じように過ごしているかもしれない。
不幸ではないのに、前向きとも言い切れない。
この感覚は、単に毎日が退屈だから生まれるのだろうか。
私はむしろ、現代の社会人が、人生を区切るための外的な節目を失ったことが関係しているのではないかと思う。
学生時代まで、人生は自動的に区切られていた
戦後以降の日本では、多くの人が、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学や専門学校という制度の中で育ってきた。
そこでは、数年ごとに必ず終わりが訪れる。
卒業までに何をするのか。次にどこへ進むのか。受験するのか、就職するのか。本人が明確な人生設計を持っていなくても、制度が期限と選択機会を用意してくれる。
人生全体をどう生きるかという、あまりに大きな問いに答える必要はなかった。まずは卒業まで、次の進学まで、就職までという、目の前の時間を考えればよかった。
制度が、人生を数年単位の章に分けてくれていたのである。
本人が積極的に選ばなくても、一定期間が過ぎれば一つの環境が終わり、次の場所へ移る。残り続けるという選択肢そのものがないことも多かった。
こうした制度は、個人の自由を制限していた一方で、人間が扱える大きさに時間を切り分ける役割も担っていた。
社会人になると、節目が突然なくなる
社会人になると、その章立てが急になくなる。
転職、昇進、結婚、出産といった節目は存在する。しかし、全員に訪れるものではなく、時期も決まっていない。共通して残る期限は、遠い将来の定年退職くらいかもしれない。
何もしなくても、同じ会社、同じ家、同じ生活を何十年と続けることができる。
これは自由になったとも言える。
一方で、いつまで今の生活を続けるのか、何をもって一つの期間が終わるのか、次にどこへ進むのかという判断を、すべて個人で引き受けなければならなくなった。
学生時代まで、制度が担っていた時間の編集作業を、社会人になった瞬間から自分で行うことになる。
しかし、何十年という時間を自分の力だけで切り分け、意味を与え、行動へ変えていくことは、それほど簡単ではない。
人生全体という問いは、大きすぎる
20代や30代から考えれば、人生にはまだ数十年という時間が残されている。
その時間を一塊として渡され、「これからどう生きるのか」「人生で何を成し遂げたいのか」と問われても、普通は簡単に答えられない。
問いの規模が大きすぎるからだ。
明日や来月のことなら考えられる。数年先についても、卒業や契約満了などの具体的な区切りがあれば考えられる。
しかし、30年や40年という連続した時間を、一つの対象として扱うのは難しい。答えが出ないというより、考えるための足場すら作りにくい。
そこで人は、今週の仕事や週末の予定など、目の前の具体的な時間へ戻っていく。
今日を終え、今週を終え、今月を終える。その繰り返しは生活を維持してくれるが、人生がどこかへ進んでいるという感覚までは与えてくれない。
「まだ変えなくていい」が、何年も続いていく
明確な目的を見つけ、自分で期限を設定し、長期の時間を設計できる人はいる。
内発的な動機に基づいて計画し、転職や学び直し、新しい活動を始める。数年間を一つの期間として定義し、次の段階へ進んでいく。
それは立派な能力だと思う。
しかし、すべての人が同じようにできるわけではない。
興味や趣味はあっても、何年もの行動を支えるほど強い目標にはならないこともある。今の生活を壊すほどの不満はない一方で、積極的に向かいたい場所も見つからない。
その場合、人は「今の生活を続けたい」と強く望んでいるのではなく、別の選択をするだけの理由がないために、現状維持を選ぶことになる。
今すぐ転職しなくてもいい。
まだ移住する必要はない。
やりたいことが見つかってから動けばいい。
一回ごとの判断としては、どれも合理的である。
しかし、その判断には期限がない。
「今はまだ変えなくていい」という短期的な判断が、翌月も翌年も繰り返される。その結果、積極的に選んだわけではない現在の生活が、数年単位で延長されていく。
「まだ決めない」が、いつの間にか一つの生き方になっていく。
消極的な現状維持は、生活を破綻させない
消極的な現状維持が厄介なのは、生活が破綻しないことにある。
仕事へ行けば収入は得られる。家賃や生活費を払い、週末には休むことができる。時々楽しいこともあり、深刻に不幸ではない。
だから、今すぐ環境を変える必要はない。
しかし、数年前と現在を比べたときに、人生が前へ進んだという感覚も生まれにくい。
現状維持そのものが悪いわけではない。
今の生活を望み、納得して選んでいるなら、変化する必要はない。穏やかな反復を好むことも、一つの生き方である。
ただし、自分の意思で今を選んでいることと、別の選択を作り出す力を持てないまま現在に残ることは、同じではない。
前者では、反復は安定として感じられる。後者では、反復は停滞として感じられる。
時間は確かに経過しているのに、自分はその内部に留まり続けている。生活しているというより、時間をやり過ごしているように感じる。
その感覚が、深刻な不幸とは異なる、鈍い閉塞感を生むのではないだろうか。
家族や仕事は、時間を区切る装置でもあった
結婚、出産、育児は、人生へ外的な節目を取り戻す機能を持っているように思う。
独身から結婚へ進み、妊娠や出産を迎える。育児が始まれば、入園、入学、卒業、受験といった、かつて自分が経験した数年単位の時間軸を、今度は親として経験する。
自分自身のマイルストーンではなくても、家族全体のマイルストーンが生まれる。
子どもの成長は止まらない。「来年には小学校へ入る」「数年後には受験がある」と未来が具体的になり、家族として判断すべき期限も自然に生まれる。
仕事も同じような役割を持つ。
本気で仕事へ向き合えば、年度目標や中期計画など、すでに存在する時間軸を追うことができる。人生全体を設計しなくても、まずは今期の成果や次の役割に集中できる。
仕事や家族は、単に収入や愛情を得るためのものではない。
人間にとって扱いにくい長い時間を、現実的な大きさに切り分ける装置でもあったのかもしれない。
一方で、仕事を収入を得るための活動と割り切っている人や、家族を持たない人にとっては、そのような外部の時計が少ない。
その場合、自分の時間を区切る責任は、より強く個人へ戻ってくる。
人間は、現代の自由に適応できていないのかもしれない
この状況は、生活習慣病に少し似ている。
人類は、長い歴史の中で食料不足に悩まされてきた。食料が手に入るときには多く摂取し、身体へ蓄えることが、生存にとって合理的だった。
その後、社会は豊かになり、少なくとも先進国では、いつでも多くのカロリーを得られる環境が生まれた。
しかし、人間の身体や本能は、食料が希少だった時代に適応したままである。豊かさを十分に制御できず、肥満や糖尿病など、かつてとは異なる脅威に直面するようになった。
時間や孤立の問題にも、似た構造があるのかもしれない。
かつて人間は、共同体の中で生きていた。
季節、労働、祭り、結婚、出産、世代交代、生と死。個人の人生は共同体の周期の一部に組み込まれ、本人が一から時間を設計しなくても、社会の側が現在地と次の節目を示していた。
戦後の学校制度や、会社、結婚、家族といった枠組みも、形を変えながらその役割を担ってきた。
しかし現代では、個人でも生活基盤を持ち、長期間自立して生きることが可能になった。共同体や家族、組織が用意する時間の制約から離れて生きることもできる。
これは大きな自由である。
同時に、人間は数十年の時間を一人で区切り、一人で目的を作り、一人で定期的に環境を変更できるほどには、この生活様式へ適応していない可能性がある。
物質的な豊かさに身体が追いつかなかったように、時間的な自由に精神が追いついていない。
消極的な現状維持や時間の停滞感は、個人の意志の弱さではなく、環境の変化と生物としての能力のミスマッチから生まれる、精神的な生活習慣病のようなものなのかもしれない。
もちろん、これは医学的な病気という意味ではなく、構造を捉えるための比喩である。
人生には「やめる言い訳」が必要なのかもしれない
M-1グランプリの創設背景として、一定期間で売れなければ、芸人を辞める理由になるような期限を設けた、という趣旨の話を聞いたことがある。
その事実関係は別途確認する必要があるが、考え方としては興味深い。
人は、続けたいから続けているとは限らない。やめる理由がないために、続けていることもある。
大きな選択を、自分の意思だけで決断するのは難しい。
「自分が諦めた」のではなく、「期限が来た」
「逃げた」のではなく、「区切りを迎えた」
そう言えるだけで、決断の負担は少し軽くなる。
外部の期限は、自由を奪うだけではない。決断の責任を少し引き受け、現状維持を終えてもよいという言い訳を与えてくれることがある。
しかし、学校を卒業した後の社会には、そのような言い訳の受け皿が少ない。
今の環境へ残る場合には、何も説明しなくていい。辞める、移る、休む場合だけ、明確な理由、計画、目的を求められる。
残ることは標準的な処理であり、環境を変えることは個人のエネルギーによって推進しなければならない例外対応になっている。
この非対称性が、消極的な現状維持をさらに強くしている。
前向きな言葉は、停滞している人に届かない
政策や企業の制度には、前向きな言葉が並ぶ。
「挑戦しよう」
「可能性を広げよう」
「自律的なキャリアを築こう」
「自分らしい未来を切り拓こう」
どれも間違った言葉ではない。
しかし、すでに強い動機を持っている人は、その制度がなくても、ある程度は自分で動くことができる。
本当に後押しを必要としているのは、今の状態に閉塞感はあるが、明確にどこへ行きたいかは分からない人ではないだろうか。
今すぐ困ってはいない。
この先も同じなのは少し苦しい。
しかし、大きなリスクは取りたくない。
明確な目的も、周囲を納得させられる理由もない。
そのような人に、キラキラしたメッセージは届きにくい。
むしろ、「前向きになれない自分は、この制度の対象ではない」と感じさせる可能性がある。励ますための言葉が、社会の想定する理想的な人間像と自分との距離を見せつけ、閉塞感を深めてしまう。
制度や政策を設計し、メッセージを発信する側には、そもそも自分で機会を探し、目的を言語化し、行動してきた人が多いのかもしれない。
その人たちが見ている人間像と、現実に存在する多数の人との間には、ずれがある。
また、公費や会社のお金を使う以上、「何となく閉塞感のある人が、次を決めずに一度動くための制度」とは説明しにくい。
「成長」「挑戦」「人材育成」といった前向きな言葉の方が、対外的な見栄えがよく、予算も正当化しやすい。
その結果、本当に制度を必要としている人の本音とは異なる言葉が、社会にあふれていく。
必要なのは、変化ではなく自覚的な再選択
だからといって、数年ごとに仕事や生活を変えるべきだとは思わない。
変化することを善とすれば、それも新しい圧力になる。
大切なのは、変化を強制することではなく、今の状態を一度選び直す機会があることだと思う。
例えば、数年ごとに会社へ残るかどうかを改めて考える機会が、外部から自然に訪れるとする。
実際には多くの人が、今の会社へ残ることを選ぶかもしれない。
それでも、何も考えず惰性で残ったのではなく、現在の環境を自分で選び直したというプロセスが生まれる。
今の生活を続ける。
部署を変える。
一時的に外へ出る。
休む。
辞める。
それぞれが同じ選択肢として並び、外的な節目をきっかけに考えられるのであれば、継続する場合にも納得感が生まれる。
また、次の選択機会が数年後に来ると分かっていれば、その期間を一つのまとまりとして捉え、自分なりの行動を作ることもできる。
必要なのは、人生を変える機会ではない。
今の人生を、もう一度選び直す機会なのかもしれない。
社会は、停滞感を抱える人を無視しすぎていないか
このような仕組みを、本当に制度化すべきかは分からない。
外的な節目が、新たな不安や圧力を生む可能性もある。誰がその機会を用意するのかという問題も簡単ではない。
それでも、数十年の人生を自分だけで区切り、自分だけで目的を作り、自分だけの力で環境を変えることが難しい人はいる。
今の生活を積極的に肯定しているわけではない。明確に変えたいわけでもない。ただ、深刻に不幸ではないという理由で、消極的な現状維持を続けている。
そうした人たちは、社会の中に一定の厚みを持って存在しているのではないだろうか。
人間は、誰もが強いわけではない。
自分で目的を見つけ、期限を設定し、行動できる人を称賛することはできる。しかし、そうではない人へ、さらに強い目的や前向きさを求めても、停滞感は解消されない。
社会ができるのは、人生の目的を与えることではない。特定の方向へ変化させることでもない。
ただ、立ち止まり、現在地を確認し、残ることも離れることも自覚的に選び直せる節目を、少しだけ用意することはできるかもしれない。
人生をどう生きるかは、突き詰めれば個人の問題なのだろう。
それでも、その個人が時間を区切り、考えるきっかけを作り、今の環境から離れる言い訳まで、すべて一人で用意しなければならない社会だけが、本当に自由なのだろうか。
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