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「管理しやすい組織」が、成果を出しやすいとは限らない――管理と成果を混同する罠

企業は、AI活用、イノベーション、多様な人材の獲得、意思決定の高速化を掲げている。

一方で、働き方や人の評価については、今も古い前提が残っているように見える。

同じ場所に集まる。上司が部下の様子を見る。会議では顔を合わせる。明るく、前向きで、自己開示ができる人が、協調性のある人として評価される。

やりたいことは未来に向いているのに、人間を扱うときの価値観や基準だけが、過去のまま残っている。

私は、このズレがこれからの企業成長にとって、大きな制約になるのではないかと思っている。

管理しやすさと、個人のパフォーマンスは相反する

管理者にとって管理しやすい状態は、画一的な状態である。

同じ時間に働き、同じ場所に集まり、同じ形式で報告し、同じように会議へ参加する。人によるばらつきが少ないほど、管理はしやすい。

一方で、個人が最大限のパフォーマンスを発揮するための条件は、人によって異なる。

静かな場所で一人で考えたい人もいれば、会話をしながら考える人もいる。文章で整理してから発言したい人もいれば、その場で議論した方が思考が進む人もいる。

集中できる時間帯も、必要なコミュニケーション量も、他者との距離感も違う。

個人に合わせて環境を最適化しようとすれば、組織の運営は複雑になる。

つまり、個人最適は、従来型のマネジメントにとっては扱いにくい。

これまで多くの企業は、個人のパフォーマンスよりも、管理の単純さを優先してきたのではないだろうか。

管理者の安心感は、事業成果ではない

オフィスに人がいると、管理者は安心する。

部下の様子が見える。声をかけられる。何かあればすぐに確認できる。働いている雰囲気も分かる。

ただ、それは本当に組織の成果につながっているのだろうか。

人が目の前にいることと、進捗や成果が正確に把握できていることは違う。

忙しそうに見えても、重要な仕事が進んでいないことはある。会議でよく発言していても、成果への貢献が大きいとは限らない。

逆に、遠隔で働き、雑談も少なく、目立たなくても、高い価値を継続的に生み出している人はいる。

人材は、管理者の安心感を作るために企業へ所属しているわけではない。

管理者が管理しやすいことを優先した結果、個人の集中力や生産性が落ち、人材の価値が毀損しているのであれば、それは本末転倒である。

むしろ、管理者が本来果たすべき責任を果たせていないとも言える。

管理者の仕事は、自分が安心できる環境を作ることではない。

異なる働き方をする人たちの成果を観測し、必要な情報を統合し、適切なタイミングで介入することだと思う。

成果主義の中に残る、人格への評価

成果主義を掲げる企業であっても、実際の評価には人間的な側面が強く含まれているように感じる。

明るい。話しやすい。自己開示ができる。仕事を楽しんでいる。前向きである。会議でよく発言する。オフィスで自然に周囲と交流する。

そうした気質や振る舞いが、協調性やコミットメントの代理指標になっている。

もちろん、チームの和を乱すほどの問題行動があれば、組織として対応する必要がある。

必要な情報を共有しない。他者を攻撃する。約束した役割を果たさない。意図的に協働を拒否する。

こうした行動は、個人の気質とは別の問題である。

一方で、一人で集中したい、雑談を好まない、感情表現が控えめ、自己開示が少ない、必要以上の対面コミュニケーションを望まない、といったことは、基本的には個人の性質の範囲だと思う。

それを仕事への姿勢や協調性の低さとして扱うべきではない。

成果や本質的なミッションへのコミットではなく、集団としての融和性や、職場で好まれる人格様式への適応が求められている。

そうなると、成果主義ではなく、実質的には人格適応主義になってしまう。

成果とは、短期の数字だけではない

成果で判断すべきだと言うと、短期的な数字だけを追う考え方に見えるかもしれない。

ただ、私が考えている成果は、もっと長い時間軸を含む。

短期的に結果を出すことだけではない。

長く働き、複数の局面で価値を出す。知見を組織へ残す。他者の仕事を支える。将来の成果につながる基盤を作る。

環境が合うことで継続的に高いパフォーマンスを出せるのであれば、それも重要な成果である。

反対に、短期間は高い負荷に耐えられても、環境への適応コストによって疲弊し、離職してしまえば、長期的な人的資産の価値は失われる。

成果主義とは、人間性を無視して短期の数字だけを見ることではない。

明るさや社交性を曖昧に評価する代わりに、その人が長期的にどのような価値を生み出しているかを、より丁寧に見ることだと思う。

AI時代には、デジタル空間の情報品質が重要になる

これまでは、システムやテクノロジーが導入されても、基本的には人間が主であり、システムは人間を補助する存在だった。

しかし、これからはそうではない。

個人がAIをどれだけ使いこなせるか。必要な情報をどれだけ正確にAIへ渡せるか。AIから得た出力を、どれだけ判断や実行につなげられるか。

これらが個人や組織の成果を大きく左右する。

そのとき重要になるのは、誰がどこに座っているかではない。

誰が何を考え、何を話し、何を決め、どの根拠で判断し、誰が実行するのか。

そうした情報を、デジタル空間へ正確に流すことだと思う。

会議にAIが同席し、発言を記録し、論点を整理し、意思決定の履歴を残し、フィードバックを返すことが当たり前になる。

そうなると、企業活動そのものが、AIへ情報を供給するデータ生成プロセスになる。

対面会議の曖昧さは、技術的負債になる

従来の会議室は、人間にとっては自然でも、AIにとっては情報品質の低い空間になりやすい。

複数人が一つのマイクを使う。誰が何を話したかが曖昧になる。雑談と意思決定が混ざる。資料に残らない前提が共有される。

その場にいた人には分かっても、後から参加する人やAIには分からない。

一部の人は対面で参加し、一部の人はオンラインで参加する。会議室の音声は一つに集約され、遠隔参加者だけが個別に発言者として記録される。

この状態は、情報のラベリングとして不自然である。

誰がどんな発言をしたかを正確に残すのであれば、全員が個別のデジタル接点を持つ方が合理的だ。

物理的に同じ部屋にいる場合でも、個別端末や個別アカウントを通じて参加し、発言者、資料、時間、判断内容を正確に紐づける。

AI時代には、対面であることよりも、人間とAIが同じ形式で情報へアクセスできることの方が重要になる可能性がある。

すべてを記録することが正解ではない

会話情報をAIへ流すことには、監視への懸念もある。

すべての会話が記録される環境では、人が率直に話しにくくなる可能性もある。

だから、何でも無条件に記録すればよいわけではない。

本当に非公開であるべき場は、最初から明確に分ける必要がある。

クローズドな対話を行う場所を設け、その内容はそのままAIへ流さない。必要な情報だけを、後から人間が整理し、個人情報や不要な発言を除いたうえで、サニタイズして共有する。

重要なのは、記録するかしないかを曖昧にしないことだと思う。

記録される場と、記録されない場を分ける。誰がアクセスできるのか、どこまで保存するのかを明確にする。

デジタル化と心理的安全性は、対立するものではない。

運用を設計することで、両立させることはできる。

個人最適と組織最適を分けて考える

個人の好みをすべて認めれば、組織が成立しなくなるという懸念もある。

しかし、個人最適とは、全員が好き勝手に働くことではない。

組織として共通にすべきことと、個人に選択権を渡すことを分ければいい。

成果の定義、期限、必要な情報共有、意思決定の方法、記録のルール、他者を阻害しない行動基準。

これらは、組織として共通にする。

一方で、働く場所、集中する環境、同期か非同期か、対面の頻度、雑談への参加、自己開示の程度、感情表現の仕方。

これらは、成果や協働を阻害しない限り、個人が選べる余地を広げる。

全員を同じ方法で働かせることが組織ではない。

異なる働き方から生まれた成果を、共通の目的へ統合することが組織なのだと思う。

偶発的な接触は、本当に常時必要なのか

オフィスの価値として、偶発的な接触や関係形成が挙げられることがある。

廊下での会話、雑談、たまたま隣にいた人との交流。

そうした接触から新しいアイデアや関係が生まれることはある。

ただ、それがどこまで重要なのかは、改めて考えた方がいい。

本質的には、必要な人が必要なタイミングで適切につながることができれば、その前まで無関係であっても問題はない。

偶発的な接触がなければ成長できないわけでもない。

本当に必要であれば、仕組みとして作ることもできる。

AIが組織内の情報と人材を理解すれば、似た課題を持つ人、関連する専門性を持つ人、過去に同じ問題へ対応した人を、意味のある形で接続できる。

廊下ですれ違う偶然よりも、組織内の知識を踏まえた接続の方が、有用な場合もある。

偶発性を理由に、全員の集中環境を常時犠牲にする必要はない。

管理上の容易性が生む、見えない負債

管理者や上位職の管理しやすさを優先することには、見えにくいコストがある。

採用できる人材の地域が狭くなる。対面環境に合わない人が離職する。人材の気質が均質化する。集中力が削られる。意思決定情報がデジタルに残らない。AI活用が進まない。

その結果、事業成長の機会が失われ、成長スピードが遅くなる。

ただし、その損失は直接観測しにくい。

会議は実施されている。人は出社している。管理者も安心している。大きな問題は起きていないように見える。

しかし、本来出せたはずの成果との差は、数字に表れない。

採用できなかった人、辞めてしまった人、発揮されなかった能力、遅れた意思決定、使われなかったAI。

これらには、会計上の勘定科目がない。

だから、企業は負債がたまっていることに気づきにくい。

問題が表面化したときには、採用難、人材不足、離職、イノベーション不足、AI活用の遅れとして、それぞれ別の問題に見える。

しかし、その背景には、管理の容易性を優先し続けた組織設計があるのかもしれない。

人間観と管理観のOSが古い

企業が目指しているものは、明確に変わっている。

AIを活用する。意思決定を速くする。多様な人材を採用する。個人の専門性を生かす。地理的制約を超える。

一方で、人間に対する前提はあまり変わっていない。

職場とは集まる場所である。管理職は部下の様子を見るものである。重要な会議は対面で行う。明るく、前向きで、社交的な人が優秀である。同じ環境へ適応できることも能力である。

テクノロジーは更新されても、人間観と管理観のOSは更新されていない。

やりたいこと、やっていきたいこと、対応しなければならないことと、それを実現するための価値観や基準が噛み合っていない。

このズレが、企業の変化を遅らせているように思う。

管理職は、環境を設計する役割へ変わる

AI時代の管理職に求められる役割は、人を同じ方法で動かすことではない。

各人が最も成果を出せる条件を理解し、その環境を整え、異なる働き方から生まれた成果を統合することだと思う。

誰がどこで働いているかを見るのではなく、必要な情報が共有されているか、成果が出ているか、問題がどこにあるかを、デジタル上で把握する。

個人に適応を求めるのではなく、個人とAIが最も価値を出せる稼働環境を設計する。

管理職は、監督者というより、システム設計者に近くなる。

サーバーであれば、性能を出すために冷却、電源、配置、負荷分散を考える。

人間も、法人から見れば資産である。

人材を資産と呼ぶのであれば、その資産が性能を発揮できる環境まで設計することが、経営の責任ではないだろうか。

組織は、管理しやすさではなく成果へ最適化されるべきである

同じ環境で画一的に仕事ができる人が、これからも最も価値を出せるとは限らない。

AIによって平均的な作業や定型的なアウトプットの価値が下がるほど、人間には異なる視点、独自の専門性、深い集中、一般的ではない思考が求められる。

それにもかかわらず、働く環境や望ましい人間性だけは、同じであることを求め続ける。

アウトプットには多様性を求めながら、入力環境と行動様式は画一化する。

この矛盾を放置したままでは、本当に多様な価値は生まれにくい。

思考停止して、「オフィスとはこういうものだ」「社会人ならこれが普通だ」「管理とは人を見ることだ」と考え続ける。

そうした守りの組織運営は、目の前の秩序を守ることはできても、未来の成長機会を失う可能性がある。

企業が最適化すべきなのは、管理者の管理しやすさではない。

個人とAIが最大限の価値を生み、その異なる成果を組織として統合できる状態である。

人を環境へ適応させるのではなく、人が成果を出せる環境を設計する。

それが、AI時代の組織に求められる基本的な姿勢なのだと思う。

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