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自分の「得意」は、なぜ社会に出るまで分からないのか

就職活動をしていた頃、普段の自分とはまるで別人のように話せる瞬間があった。

それまで一度も考えたことのない質問を突然されても、以前から深く考えていたかのように答えられる。頭の中で高速に思考が巡り、経験や価値観がつながり、一つのストーリーとして言葉になっていく。

自分でも違和感を覚えるほど、普段の自分との間には大きな差があった。

少し能力が高まったという程度ではない。人格が切り替わったような、別のモデルへ切り替わったような感覚だった。

「口が達者」とは、話すのがうまいことではない

一般に「口が達者」というと、話すのが速い、語彙が豊富、相手を言いくるめるのがうまい、といった印象がある。

しかし、私が感じていたものは少し違う。

その場でゼロから思考を巡らせ、断片的な経験や記憶をつなぎ、問いに対する意味のある答えをつくる。そして、思考とほとんど同時に、それを言葉として表現する。

これは、用意していた答えをうまく話す能力ではない。相手が求めている人物を演じるだけでもない。

むしろ、正解のない問いに対して、その場で構造と物語を与える能力なのだと思う。

土台にあるのは、表現力よりも思考力である。

話す前から完成した答えを持っているわけではない。問いを受けた瞬間に思考が始まり、話しながら答えそのものが形になっていく。

社会に出て、知らない自分が現れた

この能力は、就職活動では非常に評価されやすい。

面接では、過去の経験、そこで感じた問題意識、自分が取った行動、得られた学び、そして志望理由までを、一貫した人物像として示すことが求められる。

そこで評価されるのは、必ずしも以前から深く考え続けてきたことだけではない。突然投げかけられた問いに対し、自分の中にある材料を組み合わせ、その場で意味のある答えを成立させる能力も大きい。

私にとって、それは就職活動で突然発見された能力だった。

それまでの学生生活では、自分にそのような側面があると意識したことはほとんどなかった。ところが、就職活動や社会人生活という環境に入った途端、知らなかった自分が前面に出てきた。

それは心強い発見である一方、戸惑いでもあった。

普段の自分は、迷いながら考える。言葉に詰まることもあるし、結論が出ないこともある。それなのに、評価される場面では、因果が整理され、一貫した物語を持った自分が現れる。

周囲から見れば、どちらも同じ自分である。しかし本人には、その二つが同じ人物の延長線上にあるようには感じられなかった。

評価されるほど、「次も出てくるのか」が怖くなる

この感覚は、詐欺師症候群ともつながっていた。

ただし、「本当は能力がないのに、周囲を騙している」という単純な感覚ではない。

能力は確かに存在していた。実際にその場で考え、答えをつくり、相手に伝えていた。完全な演技でも、用意していた台詞でもない。

それでも、その能力を自分が所有しているという感覚が弱かった。

なぜスイッチが入るのか。どのような条件で起動するのか。次回も同じように使えるのか。自分自身でも、その仕組みを説明できなかったからだ。

そのため、評価されるほど不安になる。

周囲は、そのときに現れた自分を基準に次の仕事や役割を与える。しかし本人は、普段の自分との大きな差を知っている。

怖かったのは、偽物だと露見することだけではない。

自分を成功させてきた別モデルが、いつか出てこなくなること。

自分の意思で完全には制御できない機能に、キャリアが依存しているような感覚があった。

なぜ学生時代には気づけなかったのか

では、なぜこの能力を、それまで自分でも知らなかったのだろう。

一つの理由は、学生時代に評価される能力と、社会人生活で求められる能力が大きく異なることにあると思う。

学校教育の中心には、長い間ペーパーテストがあった。

同じ問題を、同じ時間で、同じ条件のもとで解き、共通の基準で採点する。大人数を公平かつ効率的に評価するためには、非常に合理的な仕組みである。

一方で、問いを柔軟にしたり、対話の中で思考する過程を評価したり、一人ひとりに異なる答えを認めたりすれば、管理コストは急激に高くなる。

評価者によるばらつきも生まれる。比較もしにくくなる。

その結果、学校では社会で重要な能力全体ではなく、学校が安定的に測定できる能力が中心的に評価されてきた。

知識を覚えること。構造化された問題を理解すること。限られた時間で正しい答えを出すこと。文章として整理し、提出すること。

もちろん、これらは重要な能力である。

ただし、それが人間の能力のすべてではない。

学校と社会では、問題の構造が違う

社会人生活で対峙する問題の多くは、ペーパーテストのようには構造化されていない。

そもそも何が問題なのか分からない。情報が不足している。関係者によって利害や正解が異なる。状況も途中で変化する。

正解を出す前に、問いそのものを定義しなければならない。

また、十分に考え終わってから提出できるとは限らない。会議や交渉の最中に暫定的な答えを示し、相手の反応を見ながら考えを修正していく必要がある。

そこで求められるのは、用意された問題を正確に解く力だけではない。

複雑で非構造的な現象に、その場で構造を与える力。

「口が達者」と呼ばれていた能力は、まさにこのような場面で機能する。

社会に出て突然能力が生まれたわけではない。その能力を必要とする問題に、初めて十分な頻度で遭遇したのだと思う。

学校では、柔軟性は評価を難しくし、管理コストを高める要因になる。一方、社会では、その柔軟性自体が価値になる。

教育と仕事の間には、学ぶ内容の違いだけでなく、対峙する問題の構造そのものの反転がある。

社会は、観測しやすい能力を評価する

もっとも、社会が人間の能力を正しく評価しているわけでもない。

社会もまた、分かりやすく、短時間で観測できるものを評価しやすい。

即座に答えられる。結論が明快である。話に一貫性がある。複雑なものを分かりやすく整理できる。相手を納得させられる。

こうした能力は目に見えやすく、評価しやすい。

反対に、深く考えていても即座には言葉にできない人や、時間をかけて慎重に結論を出す人の能力は、短い面接や会議では見えにくい。

社会が見ているのは、能力全体ではない。

能力のうち、評価可能な形で表面に現れた部分である。

口が達者な人は、実際の思考力に加えて、それを観測可能な形へ即座に変換できる。そのため、社会の評価制度と相性がよい。

しかし、その評価を本人がそのまま信じすぎれば、自分の言葉に自分まで説得されてしまう危うさもある。

その場で成立した物語が、本当に妥当だったのか。話として美しくまとまっただけではないのか。あとから検証する必要がある。

別モデルを、自分の能力として使いならす

知らなかった能力が突然現れたとき、それを過信する必要も、偽物として否定する必要もない。

大切なのは、普段から思考する機会をつくり、即興で出てきた答えをあとから検証することだと思う。

なぜその答えに至ったのか。本当に自分はそう考えているのか。別の見方はなかったのか。現実に照らして妥当だったのか。

そうした検証を繰り返すことで、偶然起動する別モデルは、少しずつ自分の中へ統合されていく。

突然現れるもう一人の自分から、自分が意識的に扱える一つの能力へ。

能力の存在を信じるだけではなく、その癖や限界を理解し、必要な場面で使い、あとから修正する。

使い続けながら、使いならしていく。

そうすることで初めて、周囲から評価される自分と、普段自分が理解している自分との距離も縮まっていくのかもしれない。

社会に出て初めて自分を知ることは、健全なのか

社会に出て、新しい自分を知ること自体は悪いことではない。

環境が変われば、それまで必要とされなかった能力や、知らなかった弱さが現れる。人間には、特定の状況に置かれて初めて発露する側面がある。

だから、社会に出てから自分を発見することには、希望もある。

一方で、学生よりも社会人として過ごす時間の方が長いにもかかわらず、そこで必要になる能力を試す機会が、それまでほとんどなかったとすれば、やはり不自然でもある。

学校教育をすべて職業訓練に変える必要はない。ペーパーテストや構造化された学習にも、明確な意味がある。

ただ、学校で測定された能力を、その人の能力全体だと誤解させないことは重要だと思う。

私たちは、社会に出て突然別人になるのではない。

それまで測られなかった自分が、初めて観測される。

そう考えると、就職活動や社会人生活で感じる戸惑いは、本人の自己理解が不足していたからだけではない。

長い教育期間を通じて、限られた種類の能力だけを測り続けた後、何の説明もないまま別の競技へ移される。

その断絶に、私たちは戸惑っているのかもしれない。

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