見たいものしか見たくない時代の文芸コラム(第十一回)
4月 二次資料感・ゆらぐ小説・蓮實のケア論批判・高市発言本歌取り論争・選挙を考える
批評家には二つのタイプがあるのではないか。ひとつは、相対的な属性の関係にこだわるタイプ。もうひとつは、非対称の抽象的な関係にこだわるタイプである。江藤淳が前者だとすると、吉本隆明が後者に当たる。江藤は、日米や夫妻(母)の関係を、吉本は知識人と大衆の関係を考えた。柄谷行人は江藤を「成熟」の人とし、吉本を「自立」の人としたが(「思想はいかに可能か」1966・5、『柄谷行人初期論文集』)、江藤は関係を具体的な経験や歴史の中で考え、吉本はどんな関係も抽象化(関係の絶対性)しがちである。江藤は小説(散文)に近く、吉本は詩の近くにいたということもできるかもしれない。
去る3月14日に神戸で梶尾文武『戦後文学の相続者たち』の読書会(三島由紀夫読書会主催)が開催された。『文学+』(凡庸の会)の同人ということもあって東京から参加した。Matsuda Matsuoが『戦後文学の相続者たち』に登場する作家や批評家を阪神タイガースの打線に見立てて紹介するくだりはいったい何が起こっているのかと面食らったが、文学研究者ではない人たちが中心になって用意された読書会はとても開かれた雰囲気だった。
梶尾が、いまは日の目に当たらない戦後文学の作家や批評家の「弁護」をするつもりで書いたといったことが印象に残っている。梶尾本にはもちろん江藤と吉本が登場するが、主役は吉本の方だろう。前の世代を批判――父殺し――しながら「相続」される戦後文学の系譜をたどるなら吉本以外に代表者はいない。戦後文学とは何より、叶わぬ革命という名のポエジーを追いかけた歴史だからだ。吉本の「自立」は、革命の前衛である知識人が大衆に帰一することで成し遂げられるべきものだが、それができないからこそ批評が光り輝くのである。否定神学と呼べもしようこのようなスタンスは、吉本らの自立派だけではなく、想像力派からのちの『批評空間』周辺まで共有されていたはずである。
梶尾本がカバーしていない一九九〇年代は『批評空間』全盛で、吉本も江藤も過去の批評家扱いになりつつあった。そんな中で江藤が重要な参照枠になるのが、自死する二〇〇〇年前後である。福田和也や大塚英志が言及したのがきっかけだろう。江藤の評価軸は、不可能ゆえの当為方式ではなく――『作家は行動する』(1959・1)のころはそんな感じもあったにせよ――、未熟/成熟、フォニイ(偽物)/本物、サブカル/文学の相対的な関係(濃淡)を探知するものである。
このようなスタンスは、二〇一〇年代以降主流となる、フェミニズムやケアの論理で文学作品を読み解く傾向にも見られるものである。じっさいフェミニズム周辺の文学論では江藤の『成熟と喪失』(1967・6)がしばしば引用されてきた。江藤はここで、男の物語には女(母)が横にいるという、いまでは当たり前の論点を導入したのである。中島梓が男社会に少女の物語を読み取り(『コミュニケーション不全症候群』1991・8)、斎藤美奈子が男の物語に「妊娠小説」の系譜を読み取ったのも同じスタンスだろう(『妊娠小説』1994・6)。
序論+全十四章のうち、読書会の参加者が梶尾本の中で興味をもった章はてんでばらばらだった。読み方によってハイライトが変わるのも魅力である。「第3部 書くことの双数性――第二世代の女性作家」の、とくに瀬戸内晴美と武田百合子の二つの章は梶尾本の中では異色だろう。江藤の出番はないものの――というかここは批評家が不在の章である――、江藤的なロジック――梶尾に倣って江藤の「双数」ロジックといってよいかもしれない――が支えているように読める。男性作家を食い物にする女性作家。瀬戸内と武田が私小説や日記を主戦場にしているのも示唆的だ。メジャーな文壇や批評家をあてにせずに――というより邪魔されながら――セルフプロデュースする彼女たちをめぐって、この上なく現代的な光景が記述されている。
伊藤基晴が朝井リョウの小説『イン・ザ・メガチャーチ』(2025・9)の書評を公開している(「イトウモ」note、3月15日)。ざっくり要約すれば、朝井作には「私」が不在で、その「無私」こそがエンターテイメント小説を体現している、ということである。比較として言及される純文学の作家、町屋良平や高瀬準子の作品には「私」が語られる。「私」の手触りがある。ここで「私」は作家と同義と考えてよいと思うが、要はこの「私」(固有の欲望やら情動やら)をフックにして物語を記述するのが純文学作家ということだろう。伊藤は、ややアイロニカルに朝井作を評価しているが、純文学作家に魅力を感じているだろうことは結論からも確認できる。確かに朝井作には「私」が存在しない。このことは、朝井と同世代の男性キャラクターが存在しないことからも示唆される。
朝井作に限らず最近エンターテイメント小説を読んでいてたまに感じるのは、二次資料感である。ローコストな身辺雑記で済ますこともできる純文学と比べて、そもそもエンターテイメント小説は、テーマに関して手の込んだ取材や資料収集したものが多い。朝井作は、推し活と陰謀論――作中では視野狭窄と視野拡張として展開される――のテーマをタテ糸に、ケア論のテーマ――中年男は女よりケアが下手――をヨコ糸にして構成されているが、各キャラクターが何かで読んだことがあるような教科書的な言動に終始する。物語の半ばでラストがイメージできてしまうし、これならそれぞれのテーマの新書やルポに直接当たった方がよいのではとつい思ってしまったほどだ。構成などエンターテイメント小説として高い水準にあることは理解できるのに、悪くいえば、AIっぽいし、二倍速したいと感じる。
ただこれは作家の技量が問題というよりも、YouTube動画や無料記事やSNSの投稿――極めつけはAIによる要約――で様々なテーマをカジュアルに見聞きできてしまえる現代の世界がそもそも二次資料的になっているからではないか。すでに二次資料的な世界の中で、取材や資料収集して物語を立ち上げるので、二次資料感が際立ってしまう。しいていえばエンターテイメント小説として完璧であるほどその感を強めてしまう。このような事態を朝井は自覚的に引き受けているのではないかというのが、おそらく伊藤のスタンスなのだが、いずれにせよエンターテイメント作家受難の時代にはちがいない。
ボードリヤール的な議論ではある。あえて違いを示すなら、ジャン・ボードリヤールが映像(の再現性)のインパクトにシミュラークルを見出したのだとすれば、現代の二次資料感はテキスト(言語情報)ベースのシミュラークルではないだろうか。
執筆活動という知的営為すらAIが容易に再現してしまう時代。文学にはコンテンツ消費と繋がり消費がある。前者は作品の内容が消費されるだけのタイプで、後者は作品(の頒布・受容)を通して人と繋がる欲望に重きが置かれるタイプ。前回の文学PR論でまとめた「文学賞・翻訳文学の上昇コース」と「ZINE・フリマ的繋がりコース」がそれぞれ対応している。AI の介入は、後者は限定的、前者は何かのきっかけでAIで完結してよいとなる可能性はあると思う。エンターテイメント小説がその兆候を示している。ただ、AIがキャラ売りしはじめると――いまでもすでに各生成AIに個性があることは指摘されているが――純文学も影響がないことはないだろう。
くり返せば、最近の文学シーンは「文学賞・翻訳文学の上昇コース」と「ZINE・フリマ的繋がりコース」に引き裂かれている。では、空洞化しつつあるその真ん中――ジャーナリズムの文芸誌とアカデミズムの研究が代表――はどうデザインされるだろうか。従来通り手法(どう書くか)と主題(何を書くか)のイデオロギー闘争が演じられると考えている。そういう意味で、昨年の町屋良平と李琴峰による文学史記述は非常に示唆的だった。ここのゾーンもAIの介入は限定的だと思われるが、そもそもいつまで維持できるのかが課題である。
『群像』(4月号)の関口涼子「いま、小説の枠は広がっているのか――詩の小説ヘの「浸出」」は、読んで考えさせられた。小説に詩作の影響が入り込んできている現状を考察したものである。フランスで作家活動をする著者によると、フランスでも同様の傾向が見られるそうで、その事例を詳しく紹介してくれている(他の国の事情も知りたい)。『文學界』の1月号の特集「浮遊する言葉」は、現代詩を積極的に取り上げたものだったし、『文藝』春季号の特集「うたのことば」では短歌や歌謡が取り上げられていた。
関口は、『群像』2月号の金原ひとみとの対談で、金原の新刊をエッセイともフィクション(小説)ともいえる新しい領域として評価している(「私と他者、社会へとつながる新しいジャンルを求めて」)。小説の領域が、よくも悪くもゆさぶられているのだとすれば、この時評でも何度か紹介した、エッセイや日記への注目にも関わる現象だろう。ちなみに今月の『本の雑誌』(4月号)の特集は「日記の時代」である。
以前、「どう書くか」にこだわる町屋と「何を書くか」にこだわる李は、「どう演じるか」(作家のアイデンティティをパフォーマティヴに表明する)という点で近い立場にあるのではないか、ということを書いた。「どう演じるか」とは、先ほどの伊藤の議論でいえば「私」を立てることである。どの立場に立つにせよ、エッセイとフィクションの対比でいえば、おそらくフィクションだけでは厳しくなってきているのだろう。だからエッセイやポエジーに頼りたがる。よくも悪くも。
柄谷行人は、一九七〇年代の半ばに「大きな転換期」があったとしてこうまとめている。「意味や内面性を背負わない「言葉」が解放された」。かくして「言葉遊び、パロディ、引用、さらに物語、つまり近代文学が締め出した全領域が回復しはじめたのである」(『日本近代文学の起源』講談社文芸文庫、1988・6)と。やや乱暴な言い方になるが、一九七〇年代以降の文学は、純文学(言葉遊び、パロディ、引用)とエンターテイメント小説(物語)の関係が問われたわけだ。その勢力図が抑圧してきた「意味や内面性」がいま現代詩、短歌、俳句、歌謡、私小説、エッセイ、日記として回帰しているのだとしたら?
少し話がずれるが、文芸誌が組む特集で簡単なエッセイや創作をいくつか並べて済ませるものが最近目立つ。たとえば東日本大震災十五年ということで特集が組まれている。『文學界』4月号の小特集では、短篇1+エッセイ4のみだった。これではどういうスタンスで特集が組まれたのかまるで分からない。書き手に気を遣っているのか、批評なり編集の介入がまったくないからである。
『歌壇』3月号の特集「震災詠から見えてくるもの――東日本大震災、原発事故から十五年」は、「震災後一年以内」(阿木津英)「震災後一年~五年以内」(大松達知)「震災後五年~十年以内」(梶原さい子)「震災後十年~今日」(本田一弘)の時代区分ごとの書誌を各評者に分担し、最後に「原発事故から十五年」として三原由起子に総括的なエッセイを任せている。初級者でも分かりやすい。
十五年となると、震災に文学がどう関わってきたのかを知らない人が多くなる。エッセイかフィクションかの二分法もよいが、批評なり編集をも疎かにしない方がよいだろう。今月の『群像』は大江健三郎の未発表小説の収録が話題だったが、阿部賢一による「解説」のアシストあってこその企画だった。このケア的仕事に比べると、『すばる』(4月号)の谷川俊太郎単行本未収録詩編は物足りなかった。以上、PR的ダメ出しを少し。
今月の『群像』は盛りだくさんである。蓮實重彥がまたしてもケンカを吹っかけている。工藤庸子とのリレー連載「対話」において、「ケア」批判を展開しているのだ。またしても、というのは、時評の第一回でも紹介したように、蓮實が同「対話」で福嶋亮大を批判して福嶋がやり返すというプチ論争があったからである。先月の「些事にこだわり」(『ちくま』3月号)の高市批判はSNSで見事に炎上させていたし、いまや古典と化している批判・論争が今年九〇歳になるご老体の周辺においてしか発生していないとは、さすがにいかがなものか。いいかげんゆっくり休んでほしいところなのに、文芸誌の対談といえば、お互いを褒めあうものばかりになってしまった。もうひと踏ん張りしてもらわないといけないのかもしれない。
福嶋との対立はテクスト論VSカルスタだった。作品を自律したものとして分析する立場と、作品の文脈や歴史的背景を重視する立場との対立。手法と主題の対立。蓮實はテクスト論の擁護者で、今回の対立はテクスト論VS心理学といったところか。批判の対象は、ケアの倫理を立ち上げたキャロル・ギリガンを招いて行われた小川公代と小西真理子との鼎談。『群像』の2月号に掲載されたもので、同号には蓮實と工藤の「対話」も載っていた。
蓮實は、まず、ギリガンが作家を心理学者に見立てる発想を批判している。作中人物の心理を探ることに限定する作品読解はいかがなものかという批判だ。これに対して作家は「書く人」なのだと論じる蓮實にとって、読解の作業は「何よりもまずテクスト構造の解明が必須」で、「「心理」の問題など、そのほんの一部」とする。非人称的なテクストとの出会いこそが求められるとき、その読解者として最も適任なのはAIなのではないかという疑念が発生するが、ここではそれ以上問わない。
問題は、文学におけるケア論批判の意義である。蓮實は、女性たちを代弁(represent)しようとするギリガンを批判するが、男性中心のアリーナにこれまで代表(represent)、いや参加すらしえなかった立場からの批判がフェミニズムやケア論周辺からあったここ十数年だったはずで、ゆえに反動ともとられかねない批判ではある。こと彼はそのアリーナの中心にいつづけた批評家である。
その一方で、蓮實の名誉のために、彼の批判の中心は、ケア論そのものにはないことも指摘しておきたい。ケア論の(文学への)導入の仕方について批判をしているのだ。ギリガンの主著『もうひとつの声で』にも、新たに翻訳刊行された『人間の声で』にも日本語訳の副題に「ケアの倫理」が含まれているが、原著には存在しないではないかと。「だとするなら、その日本語訳に添えられた「ケアの倫理」という語には、もっぱら商業的な目的がこめられていると見なければなりません」。その上で蓮實は、「「ケア」という語彙の現代日本における理不尽とも思える氾濫ぶり」に違和を表明する。ここが批判のハイライトである。やや深読みをするなら、どんな正義にも――むろんここではケアの倫理にも――つねに政治が入り込んでいるのであり、純粋無垢な正義など存在しないという、嫌味たらしい意図が込められているのだろう。これもまた、文学のアリーナにおける、手法(どう書くか)と主題(何を書くか)のイデオロギー闘争の一バリエーションといってよい。
論争といえば、高市総理発言本歌取り(?)論争を簡単に取り上げておこう。嶋稟太郎が、イラン戦争下の訪米中にわが国の総理がトランプ大統領に向けてヨイショ(リップサービス?)した発言を、短歌と見立てて短評した(「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけだと思っています」、『日々のクオリア』3月21日)。それがTwitter(現X)を中心に賛否を呼び起こした一件である。おそらく否の方が多かったように思う。ここではスズキセイラの「短歌ではないものを短歌として」をあげておきたい。
論点は複数あると思うが、ポイントは、スズキのタイトルにもある通り、短歌ではない言葉を短歌に囲い込むとき、そこにどのような批評性があるかだろう。文脈横断という意味では、アダプテーションや文化盗用にも近い話題といえる。たとえば現代詩だと、類例として山田亮太の『オバマ・グーグル』(2016・6)がすぐに思い浮かぶ。ウェブや雑誌、公園内に掲示された言葉を集めて詩作品に取り込んだものだ。それは単に、詩の外に詩のようなものを発見して寄せ集めたものではない。自由律であるがゆえに、世界は全て詩になってしまう――詩人がやるべきことは何もない――というアイロニーが批評性を担保しているのである。マンションポエムというテーマ設定も同じアイロニーを共有し、広告のなかに意図せずして混じる能天気なポエムを取り出すという、やや冷笑的とはいえ、批評がある。
『短歌研究』1+2月号の「展望座談会2025」では、ネットミームや流行り言葉――たとえば「それってあなたの感想ですよね」(©ひろゆき)など――を短歌にする試みが紹介されている。これは現代短歌の「私」が崩壊しつつあるという文脈で紹介されたものだ。つまり作家性の否定という批評性があるというわけだろう。私は短歌初級者だが、こういった批評性に比べると、嶋の手法には批評性が薄いと感じた。短歌の外に短歌のようなものを発見して短評しただけではないかと。とりわけ、短歌の外にある政治的な言葉を取り込んで批判する場合、自ジャンルの形式にまつわる政治や歴史に無自覚であると、短歌が正義の側に立ってしまう。批判対象の総理が自身を正義の側に位置付けているのと何ら変わらない。
いずれにせよ、こういった問題提起をする書き手がちゃんといることが凄い。しかもそこに賛否が集まっている様を見るにつけ、ジャンルが生きているなあと羨ましく思った。
ここまで文学の政治や道義的側面について多く話してきた。さらに、『文藝春秋』(4月号)の特集「絶対安定多数は吉か凶か」に載った、三宅香帆「高市総理の秘密は「文体」にあり」を取り上げておこう。前回の文学PR論とも関わる議論である。選挙は政治のPRにほかならないからだ。
その前に補助線として稲田豊史の『本を読めなくなった人たち――コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(26・2)にも言及しておきたい。稲田によれば、AIの要約や動画コンテンツが前提になった現代――コスパ重視の「非読社会」――では、本を読むリテラシーの社会的価値がなくなる。ごく一部の教養階層の贅沢品でしかなくなるという。いわばデジタルメディアが民主主義を完成させるという発想だろう。吉本隆明が理念として立ち上げるしかなかった「大衆」(への帰一)は、デジタルメディアによって具現化されたといってよいかもしれない。そこでは本を読む知識人は単に不要である。
三宅の議論も前提がおおむね同じである。いまや選挙は、SNSやYouTubeの切り抜き動画こそ主戦場になっているというものだ。自民党・高市早苗はそれを活用した選挙を戦って圧勝し、マスメディアのテレビや新聞を意識した中道・野田佳彦は完敗した、という図式を描く。その上で三宅は、高市の選挙戦略を肯定的に評価する。なぜなら、デジタルメディアの仕組みに寄り添うことこそ「弱さを抱えた国民全員」に向けた言葉遣いに意識的になるからである。逆に、マスメディアを意識した選挙は、友敵を区分し、仲間内に向けた言葉遣いへと縮減するしかないという。前者は様々な「界隈」に向けた発信、後者は抽象的なキャッチコピー。この整理にとくに異論はない。
ただし私は、YouTubeやSNSのプラットフォームの現状が民主主義の選挙にマッチしているとは思っていない。選挙のルール、とくにSNSや動画などウェブ上のルールに関しては、現状にマッチした規制を早急に行うべきだと考えている。広告では当たり前のレベルの規制すらできていないからである。
ネット通販が新規参入の機会を増やし、中小のメーカーでも売り方次第で稼げる場をもたらしたことは間違いない。しかし他方で、誇大広告などで消費行動を歪める販促が無秩序に幅をきかせたのも事実である。たとえば健康食品や美容医療広告は深刻な健康被害をもたらしもした。あるいは、コンプガチャのようなギャンブル依存が高いもの、やらせや誹謗が発生しやすい口コミサイト、アフィリエイトやインフルエンサーを活用したステマ、それに各種ダークパターンなど、消費行動を歪める販促が生み出されては消費者保護の規制をかけるという鼬ごっこがここ二十年近くのネット通販だった。
規制には、消費者保護と販売機会の平等を確保するという意味がある。儲けるものがより儲かるではなく、新規参入にもチャンスを与える。他方、やりたい放題だと問題が出るので、消費者保護でフォローする。
言論や出版のジャンルにいると分かりにくいが、広告の業界には表現の自由は存在しない。言い方が悪ければ、表現をする上で非常に強い規制があるといってもいい。なぜか。関係が容易に非対称になるからである。各メーカーの間、メーカーと消費者の間で。ゆえに消費者(被害者)保護と新規参入の機会の確保のバランスをとることが重要になる。その意味で、選挙も変わらない。プレイヤーは、立候補者と有権者だ。
現状の、選挙時の切り抜き動画やインフルエンサーによる紹介は、民主主義の感覚を歪めているとしか思えない。ステルス・マーケティングならぬステルス選挙活動。切り抜き動画はアフィリエイトに、インフルエンサー紹介(オリエンタルラジオ中田敦彦の比較的公平に立候補者を紹介するチャンネルから立花孝志のような偏向的介入まで)はインフルエンサー・マーケティングにほぼ対応するだろう。広告業界ではいずれも厳しく規制されてきたが、選挙はやりたい放題である。
もちろん、マスメディアの報道の方がよいわけではない。それらもバイアスがかかっている。ゆえにリベラル偏重の売国メディアとして批判される媒体もある。しかし三宅が整理する通りマスメディアの影響はいまや限定的なものであり、影響力があるように見えるのはSNSや動画が切り取ってネタにするときくらいである。ただし、とりわけ地上波テレビは、政治的公平性の観点から選挙報道を行う義務を負う点でいまも重要なメディアであることに変わりはないが(文学でいえばメジャー文芸誌に近い)。
商品広告と同様の規制の動きが公選法に見られないのは、政権にとって現状は有利に働いているからだろう。いずれにせよ、SNSや動画の規制は(プラットフォームが日本発ではないため)網羅的なものにはならないとはいえ、露出の総量が公平になるなどの規制に取り組むべきである(政治的公平性の再編に関してマスメディアは質的規制、ウェブメディアは量的規制の徹底が望ましい)。
少なくとも、一党が議員定数の三分の二を掌握した選挙の結果から取り組むべきことがあるとすれば、勝ち負けの分析よりも、ルールの欠陥を問い、批判的に検証すべきではないか。「弱さを抱えた国民全員」にとってゲームをスリリングなものにしつづけるには、たえざるルールの調整が必要である。
文学のアリーナを差配するメジャー文芸誌も本当はそうあってほしいものなのだが。もちろん『文学+』はマイナーな立場からのルールチェンジをあきらめていない。文学の批評と研究がより活発になるための。
最近は、どの立場に立つにせよ、我こそは正義の側にいると弁明する傾向がより強いように思う。そんなフリでもしておかないと仕事の依頼が来ない業界だから仕方ないのかもしれないが、それにしたって単調ではないか。
市川沙央が朝日新聞の取材(3月18日)で市川節を披露している。バリアフリーの必要性をコスト面から唱えているのだ。バリアフリーというと真っ先にコストカットすべき無駄な部分とされがちである。だから社会正義とか公共性とか持ち出して、コスト重視派と衝突する。だったら、面倒な交渉のコストをキャンセルするために予めバリアフリーを実装しておいた方がよいではないかと。そう、あなたがたが重視するコストの論理にしたがえばバリアフリーは不可欠なのだ。
面白い。このパフォーマティヴなロジックがどれほど説得的に受け入れられるかは分からない。しかし、少なくとも市川は自分を正義の側に置かず、ルールをどう改変しようかをもくろんでいるのが伝わる。正義の主張がシビアに政治とリンクしていることをよく知っているからだろう。政治とは端的にいって必要なものと不要なものを仕分ける(優先順位を付ける)行為にほかならない。バリアフリーは話題の博物館コストカット問題とも深く関わるはずである。
最後は駆け足で。『昭和文学研究』(第92集、3月1日)を開く。武久真士の「「印象派的詩歌」の試み――三好達治『日まはり』論」が面白い。私なりに整理すると、①三好の四行詩周辺は詩や短歌・俳句を含み込んだ総合短詩形として構想されている。②定型やジャンルの解放は通常自由律化(果ては散文詩)によってなされるものだが、三好の四行詩は各ジャンルの形式性(差異)にこだわることによる。③短歌と俳句、日本語の音楽性と意味(映像)などの区分を、行分け等を駆使して形式を再編する、という観点から三好の短詩形をめぐる可能性を引き出している。最近の口語短詩形のジャンルを考える上でも有意義だろう。『現代詩手帖』(3月号)の特集は「萩原朔太郎VS西脇順三郎」。『詩と思想』(3月号)は「茨木のり子」特集。文学史大好きっ子クラブにとってありがたい企画。ただ、作家論特集(とくに過去の)をいまやるのは困難だなあとも思った。自戒を込めて。『ライトノベル大全』(3月5日)は、一九七〇年代からの五〇〇作品の解説を一挙収録したものだが、舞城王太郎と佐藤友哉、清涼院流水の作品の項目がないことに驚いた。ゼロ年代批評とラノベ台頭に欠かせない作家と思っていたのに、業界的には違うのだろうか。『短歌』(3月号)は書評特集「近年の歌集を評す」。斉藤斎藤の高島裕歌集『盂蘭盆世界』の書評(という体裁をとった「アイデンティティー」評)が二ページだけで、もっと読みたいと思った。「アイデンティティー」の政治的主題をめぐる論争については、瀬戸夏子の評を参照。『俳壇』(3月号)の特集「類似類想句どう考える」も面白かった。俳句の歴史は類似句との戦いの軌跡でもある。競技ゲームの世界ではチェスが最も早くコンピューターの脅威にさらされたはずだが、文学の世界では俳句がAIとの関係でその立場にあるだろう。この特集を読んでいると、俳句は古くからポストヒューマンな世界(第二芸術論!)を、厳しく批判しつつ楽しんでいたのではないかと思わせてくれる。

『図書新聞』が4月4日号をもって終刊。その前の3月28日号で岡和田晃の「〈世界内戦〉下の文芸時評」が最終回を迎えた。2015年3月14日号スタートで、毎月積み重ね、合計一三三回、十一年一月続いたそうである。褒め時評ばかりのご時世にあって、必要とあれば遠慮のない批判をする、数少ない時評だった。長い間、お疲れ様でした。

▶中沢忠之。1972年生。凡庸の会。文学+WEB版編集人。感情レヴュー。
