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短編小説『強がり』

(約5,000字)

 ──また来た。
 横隔膜だか何だか知らないけど、呼吸のタイミングを無視してみぞおちの辺りがぐいっと凹む。たまらず大きく息を吸ったけど、その後の呼吸はゆっくり細くを徹底した。
 この呼吸の乱れを受け入れてしまえば、私は一気に鬱の波に飲まれていく。職場で醜態を晒したくはない。
「わっ、ごめん。資料、駄目だった?」
 気合を新たに目の前を睨みつけたところを、ちょうど向かいのデスクの同僚に見られてしまった。パソコンの画面に映っているのは、彼に最終チェックを頼まれたプレゼン資料。はっとして首を大きく振り、精一杯の笑顔を繕って見せる。
「目に何か入った気がしてさ。こっちこそ待たせててごめん。まだ半分も見れてないんだ……糖分足りてないのかな。今日は頭が働かない」
 引き出しからGABA入りチョコレートの袋を取り出し、ひとつ摘んで口に放り込んだ。
「珍しいね。いつも爆速で誤字を洗い出してくるのに」
「私は誤字脱字チェッカーじゃありません」
「少なくともAIチェッカーが人の姿で現れたら、田中さんの前に土下座するよね」
「イジりながら褒めるのやめてくれる?」
「褒められてるとは思うんだ」
 ニヤニヤ笑いの同僚を、今度は本気で睨みつけた。が、この文脈ではおよそ効き目がない。
「時間かかりそう? 外向きの書面があるなら俺のは諦めるよ。社内プレゼンだし、誰にも迷惑かけないし」
「……ごめん、それじゃあ後回しにさせてくれる? 明日でいいなら持ち帰って見とく。家で一人で読むほうが集中できそうだから」
 彼の目に逡巡の色が浮いた……気がしたけれど、見間違いだったかもしれない。
「それは助かる! 田中さんに見てもらってないとプレッシャーが跳ね上がるんだよね」
 片目を瞑って小さく手刀を切る彼を尻目に、パソコンの表示を切り替えた。

「古場、ちょっと一区切りついたら談話室に来てくれる?」
「はい?」
「色々と申し渡し事項があるから、そのつもりで」
 ──俺、何かやらかしたか? それとも厄介な案件でも押しつけられる?
 佐々木課長の不敵な笑みに冷や汗が噴き出した。

「田中ちゃんのことなんだけどさ」
 何を言われるかと身構えていた俺に、課長は開口一番こう切り出した。
「何か聞いてない?」
「……え?」
「あんたたち、仲良さそうだし。何か知ってることがあったら教えて欲しいんだけど」
「え、さっき、申し渡しって……」
「今朝、田中ちゃん、無断遅刻だったのよ」
「え?」
 一瞬、聞き間違いかと思った。
「このところ何回か、遅刻してるじゃない。調子悪いから遅くなりますって申し訳なさそうに電話してきてたんだけど、今朝は連絡がないまま遅刻して、私の顔見て平謝り」
「田中さんが?」
「そう、あの田中ちゃんがよ。あり得ないでしょ? なんか真正面から問い詰めるのも可哀想になっちゃって。だから、古場が付き合ってんなら事情を聞けるかと思ったんだけど」
「え、つきあっ……」
 自分でも顔が赤くなったのが分かった。
「はぁ……やっぱりそうか。分かった。付き合ってないんなら、それはそれでいいから、知ってること全部吐いてくれる?」
「全部吐けって言われても……」
「吐かなきゃ今の特等席は没収!」
「……それ、切り札だと思ってるんですか?」
「強がっても無駄。『それは困る』って顔に書いてある」
 腕を組んで「聴くモード」に入ってしまった佐々木課長の無言の圧に負けた。

 ──何かおかしい……最初にそう思ったのは、確か半年くらい前のことだ。
 通勤ラッシュがピークに達する少し前、俺は毎朝、車内がすし詰めにならないギリギリのタイミングを狙って地下鉄の駅に滑り込んでいる。オフィスの最寄り駅で降り、改札を出て人の波がばらけてくると、同じ方向へ向かう一団の中に必ず彼女の姿があった。
 その小さな日常が変化したのが半年前あたり。それからずっと、彼女は二、三本後の便で出社してくるようになった。
「朝のラッシュ、キツくない?」
「ちょっとでも長く布団の中にいてやろうと思って」
 彼女はいたずらっ子のような顔をしてそう言った。
 意外だった。
「根が怠け者だから。朝はゆっくりできた方が楽だなと思って」
「怠け者の定義が分からなくなりそうなんだけど……」
「隠れ肥満みたいなもんじゃない? 隠れ怠け者」
「あぁ、それなら納得」
 笑って済ませたけど、何となく気にかかった。

 それからしばらくして、彼女がパソコンを眺めながら顔をしかめているのをよく見かけるようになった。
「大丈夫?」
 そう声を掛けると、彼女は少し驚いた顔をしたあと、わざとらしく不貞腐れてみせた。
「脳みそが固まって言うこと聞かないんだよね」
「お疲れさまだね」
「仕事が捗らなくて腹が立つよ。どっから手を付けたらいいんだっけ状態」
「コーヒーでも飲んでくれば?」
「そうだよね……気分転換してみるかな」
 すっくと立ち上がって少し伸びをした彼女は、「ありがと」と小声で呟いてから廊下へと向かって行った。

 そしてこないだの「頭働かない」発言だ。
 そこまで聞いて、課長はうーんと唸った。軽く目を瞑って考え込んだあと、キッと俺に目を据えて口を開く。
「よく分かった。席替えは保留にしておいてあげよう。これからも田中ちゃんの観察を怠らないように!」
「はい?」
「田中ちゃんに気があって、うまい具合に従順な奴がいてくれて助かるわ」
 返す言葉が見当たらない。
「デキル部下を手放したくないじゃない」
 こういうのって、パワハラにはならないんだろうか。むしろセクハラ?
 田中さんのことは気になるが、それ以上に課長の視線が怖くなった。

「コラ、古場! 田中ちゃんの無駄遣いしないでくれる?」
 デスクの向こう側から差し出された彼の書類に、あと少しで手が届くというタイミングだった。課長の鋭い声が目の前を突き抜け、伸ばしていた手を思わず引っ込めた。
「田中ちゃんも鼻先に人参ぶら下げられたような顔しない!」
 そんな顔をしていたつもりはないけれど。
「これからしばらく、個別に書類の精度を確かめたいから、ダブルチェックの前に私に提出してくれる?」
 佐々木課長が課全体を見渡して声を張る。何事かと、みんな一斉に顔を上げた。それじゃあ、課長の負担が膨大なものになってしまう。私はその突拍子もない言葉の真意が気になって、課長の顔を凝視した。
「流し読みで見つかるレベルのミスがあったら突き返す。まず合格ラインだと思えたらダブルチェックは私が割り振る。もちろん、田中ちゃんは私用禁止。以上!」
 腰に手を当て私に微笑みかける課長に、どう答えていいか分からない。何も言えないでいるうちに、課長はさっと身を翻して行ってしまった。
 ふと向かいのデスクに目を向けると、何やら気遣わしげな彼の視線とぶつかった。しれっと課長の後ろ姿に目を移していたけれど、何となく察しがついた。
 課のお荷物になりかけている。……いや、すでに課長のお荷物になってしまっている。もしかしたら彼にも……。意のままにならない脳みそが情けなかった。
 トリプトファンだったっけ? セロトニンが増えてメンタルが落ち着くと聞いてから毎朝食べている納豆卵かけごはんも、たぶん焼け石に水なんだろう。
 人の優しさってものは恐ろしい。すぐに涙腺を刺激してくる。泣き出しそうになるのを堪えるのに必死だった。
 明日の朝が、また怖くなった。

 あれから一月近く経つ。
 退勤後、駅へと向かう道中で初めて彼女と肩を並べた。
 想像以上に楽しかった……というより、彼女の快活さに驚かされた。俺も課長も心配し過ぎているだけか? と、思わされるほどに。
 確かに職場では普通に軽口もたたくし、お堅いだけのタイプではない。けど、オフだとこんなに打ち解けるのかと、これまで声をかけなかった自分を後悔した。
 しかも、降車駅が同じだということを初めて知った。まあ、駅からの方角は真逆だったけれど。
 少し名残惜しくて「缶コーヒー1本分だけ付き合って」と言うとノッてくれた。
「コーヒーは眠れなくなりそうだから、甘酒にしようかな」
 わざわざそう宣言してから「あたたかい」のボタンに指を伸ばすのが、何だか可愛らしかった。
 駅前の公園のベンチに座って、どうでもいいことをしゃべって笑った。
 缶の甘酒を飲み干した途端、彼女から緊迫した気配が漂い始めた。空になった赤い缶を両手で握りしめたまま、黙り込んで動こうとしない。
「大丈夫?」
 彼女の不安定さに引きずられたかのように、俺まで不安になってきた。
「私……頑張ってる?」
 彼女の肩が小刻みに震えていた。
「驚いたな。自分じゃ頑張ってると思えないってこと?」
 うっ、と彼女の喉から声が漏れた。少しの間が開いてまた、うっうっ、と肩を揺らす。込み上げてくる嗚咽を懸命に堪えているのが手に取るように分かった。
 おそるおそる、彼女の背に手を伸ばす。そして、ぽんぽんと二度、手のひらでそっとその背を叩いてみた。と、強張っていた身体がふっと緩み、彼女が手放しで泣き始めた。幾度も幾度もしゃくり上げる彼女の横顔は、その奥から投げかけられる街灯の明かりのせいで、まるで影絵のように見えた。
 ──気の済むまで泣いてくれ。
 自分が頑張り過ぎていることにさえ気づかず突っ走る彼女には、立ち止まって泣く時間が必要だと思った。

「ごめん」
 しばらくして泣き止んだ彼女の呟き声が、微かに耳に届いた。俯いたままの彼女の表情は分からない。
「送ってくよ……家、知られたくないなら引き下がるけど」
「駅から逆方向でしょ? 大丈夫。元気出たから」
 そう言って目元を拭った彼女から、穏やかな笑い声が漏れた。
「それに、目の周りが酷いことになってそうだから顔合わせられない」
「じゃあ顔は見ないでおくから、ついて行かせてもらうよ」
「断ってるのに」
「放って置けないでしょ」
「……」
「……家、知られたくないって、言ってくれないから」
 彼女が静かに立ち上がり、そのまま歩き出した。その背を追いかけ、ついでに横に並ぶ。
 しばらくの間、互いの足音だけが聞こえていた。
「……朝、つらいんだよね?」
 どうしても聞いておきたかった。
 彼女が始業ギリギリに出社するようになってもう随分経つ。先週は2回、午後から出社してきたし、一昨日は丸一日姿を見せなかった。
 遅刻をしてきても、申し訳なさそうにオフィスに顔を出した後は、何事もなかったかのように仕事をしている。誰に話しかけられてもテキパキと応じる様子からは、朝調子が悪かったなどと想像もできない。
 でも、一人でパソコンに向かっている時の表情が張りつめきっていることを俺は知っている。
「どうしたらいいんだろうね……明日、また出勤できなくなるかもしれない」
「病院とか行ってないの?」
「薬飲んで治るもんじゃないって諦めてるから」
「それでも……」
「それに、怖いんだよね。全部さらけ出した挙げ句に否定されるかもしれないと思うと」
 何も言えなかった。冷たい風が吹き抜けていく。カーポートの屋根が外れかけてでもいるのか、すぐそばの住宅でバタバタと騒がしい音がした。
「……明日、休みなよ」
「このくらいのことで休んでたら、みんなに迷惑かかっちゃう」
「どうせ迷惑かけるでしょ。このままあと何日持つかってレベルじゃん。それなら少しでも早いうちに戦線離脱した方がいい」
 今度は彼女が黙り込んだ。
「今ならまだ、誰かに仕事を引き継ぐ余力もあるだろうし」
 道路脇の自販機の光がやたらと眩しい。通り過ぎざまに聞こえてきたジーッという機械音に無性に腹が立った。
「田中さんは弱みを取り繕うのが上手すぎるんだよ……田中さんがそんなに追い詰められてるなんて誰も気が付かない。それでこの先、急に壊れていなくなるんだろ? 迷惑以外の何物でもない」
 顔が見えていないせいか、思ったことが思ったままに口をついて出ていってしまう。
「田中さんがいなくても会社は回る。むしろいない方が、みんな尻に火がついてデキルコトが増えるかもしれない……みんなっていうか俺が」
「耳が痛いな……」
「とにかくまずは課長に相談しなよ。佐々木課長なら話ちゃんと聞いてくれる。間違いなく田中さんのことを買ってるしね」
 彼女の足が止まった。
「ありがとう。ここでいいよ。うち、あの丸いライトが三つ並んでるアパートだから」
「そう……」
 目の先に温かな光を宿すエントランスを認め、少しだけ安堵した。
「後でLINEしていい? 今はやっぱり頭が働かないから」
「分かった。じゃあ、ここで」
「気をつけてね。……ありがとう、古場くん」
「うん。そっちも」
 彼女がオレンジ色の灯りの方へ足を踏み出すのを見届けてから、ゆっくりと駅へと引き返す道を振り返った。

(終)


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