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考える前に、自分の中から言葉が出てきた日 

人と話すとき、

返事を考えすぎてしまうことがある。

何て言えばいいだろう。

これを言ったら、相手はどう思うだろう。

失礼じゃないかな。

変に思われないかな。

そんなふうに頭の中で考えているうちに、

会話が終わってしまう。

私は、ずっとそういうところがあった。


でも最近、「考える前に言葉が出た」という、

とても小さな出来事があった。

たった一言だった。

でも私は、その一言が出たことが、なんだか嬉しかった。


久しぶりに海でアーシングをした

先日、ひさしぶりに海へ行った。

砂浜で裸足になって、海に足をつける。

波が来て、足元を濡らしていく。

気持ちよかった。

ただ、それだけだった。

何かをしようとしたわけでもない。

自分を変えようとしたわけでもない。

海に足をつけて、身体で「気持ちいい」を感じていた。

帰りに、足を洗おうと水道のところへ行った。

そこには、犬を洗っている女性がいた。

犬は、あまり洗われたくないらしい。

嫌がっている。

私は少し後ろで、その様子をずっと見て順番を待っていた。

ようやく洗い終わったのかな、と思ったころ、その女性がこちらを見て、

「すみません」

と言った。

たぶん、私が待っていたことに対しての「すみません」だったのだと思う。

そこで私は、

「いえいえ、大丈夫です」

とは言わなかった。

口から出てきたのは、

「ちゃんと洗えましたか?」

だった。


「いえいえ」ではなく、私の言葉が出た

言ったあと、自分でも少し驚いた。

あれ?

今、自然に言葉が出た。

考えていなかった。

「どう返そう」と頭の中で探していなかった。

ただ、その場にいて、思ったことがそのまま口から出た。

しかも、ちょっと笑いながら。

犬が嫌がっていたから、

「ちゃんと洗えたかな」

と、少し気になっていたのだと思う。

だから、そのまま言葉になった。

本当に小さな会話だ。

誰かに褒められるようなことでもない。

人生が変わるような出来事でもない。

でも私は、この一言が出たことが嬉しかった。



「いえいえ」が悪いわけじゃない

もちろん、「いえいえ」と答えることが悪いわけではない。

むしろ、とても自然な返事だ。

ただ、私の場合は、長いあいだ

「相手を安心させること」が先に来ていたのだと思う。

相手が「すみません」と言ったら、

「いえいえ、大丈夫ですよ」

と返す。

相手が困っていたら、自分が何とかする。

相手が嫌な気持ちにならないようにする。

その場の空気が悪くならないようにする。

そうやって、人との間で自分の言葉よりも先に、

相手の気持ちを考えていた。


だから会話のあと、

「あれでよかったかな」

「変に思われなかったかな」

と、一人で反省会をすることもあった。


でも、この日は違った。

「すみません」と言われて、

「私は何て返すのが正解だろう」

ではなく、

「犬は、ちゃんと洗えたかな」

が出てきた。

そして、その言葉がそのまま口から出た。


うっすら「私、急がせたかな?」とは思った

実は、あとから少しだけ思った。

私、急がせたかな?って。笑

そういうところは、まだちゃんとある。

相手の様子を見て、

「もしかして私、急がせたかな」

と感じる。

でも、以前と違うことがある。

そこで自分を消さなかった。

「急がせたかな」

と思いながらも、

「すみません」

と自分を引っ込めるのではなく、

その場にいた私から、言葉が出てきた。

これは、私にとって結構大きなことだった。


自分らしく話すって、こういうことなのかもしれない

「自分らしく話す」というと、

何か特別なことを言わなければならないように思っていた。

自分の意見をはっきり言う。

嫌なことは嫌だと言う。

堂々と話す。

自信を持って話す。

でも、もしかしたら違うのかもしれない。


もっと小さくていい。

その場で感じたことを、そのまま言葉にする。

「ちゃんと洗えましたか?笑」

くらいでいい。

相手を気遣いながら、自分もその場にいる。

相手を安心させることだけを役割にしない。

自分の感覚も、ちゃんと人との間に置いてみる。

それも、「自分らしくいる」ということなのかもしれない。


身体にしみこんだ、小さな安心

この出来事の前に、私は海で裸足になっていた。

砂の感触を感じて、

波を感じて、

「気持ちいい」と身体で感じていた。

そしてその帰り道、人との間でも、足元があるような感覚で言葉が出た。

頭で考えてから話したのではない。

身体の中から、言葉がペロンと出てきた。

そのとき、ふと思った。

もしかしたら、体験ってこうやって身体にしみこんでいくのかもしれない。

「安心していい」

と何度も頭で言い聞かせるのではなく、

安心しているときの身体を、少しずつ覚えていく。

そしてある日、何気ない会話の中で、

「あれ?」

と気づく。

前と違う。

私は、ちゃんとここにいる。


 自分の中から、言葉が出てきた

今回のことを思い返していて、

ふと、こんなことを思った。

もしかしたら、

「命が、暮らし始める」って、

こういうことなのかもしれない。

何か大きなことを始めることではなくて。

海へ行って、

「気持ちいい」と感じる。

犬を見て、

「ちゃんと洗えたかな」と思う。

誰かに「すみません」と言われて、

「いえいえ」と返すのではなく、

自分の中から出てきた言葉を、そのまま返す。

そんな、何気ない瞬間。

以前の私は、

何かを感じるより先に、

周りを見ていた。


相手はどう思うだろう。

どう返せばいいだろう。

これで大丈夫だろうか。

そうやって、外側を見ながら生きることが、

いつの間にか当たり前になっていた。

でも今は、

少しずつ自分の身体で感じて、

自分の中から出てきたものを、

そのまま暮らしの中に置けるようになってきた。

「ちゃんと洗えましたか?」

たったこれだけの言葉。

でも私にとっては、

そこに私がいた。

もしかしたら、

「命が、暮らし始める」って、

こういうことなのかもしれない。

それは、ものすごく小さな変化だ。

だけど私は、こういう小さな変化こそ、

本当の変化なのかもしれないと思っている。

「私は変わった」と宣言するほどではない。

でも、昨日までと少し違う。

そんな瞬間が、少しずつ増えている。

そして私は今日も、

自分の暮らしの中で、

自分の命が何を感じているのかを見ている。

私はどうやら、

少しずつ暮らし始めている。


🍃追記|感じたことと、相手の事実は同じではなかった

この記事を書いたあと、コメントをいただいた。

そのコメントを読んで、あのときの「ちゃんと洗えました?」という一言を、もう一度考えてみた。

あの場面で私は、相手が焦っているのかもしれない、
少し遠慮して早く切り上げたようにも見える、
と感じていた。

でも、今思うと、そこには大事なことがあった。

私が感じたことと、相手の本当の気持ちは、同じではない。

相手が本当に焦っていたのか。
遠慮していたのか。
それは私には分からない。

分からないのに、以前の私は、自分が感じ取ったことを
「相手はきっとこう思っている」と受け取っていた。

そして、そこから自分の言葉や行動を決めていた。

相手が困っているかもしれない。
嫌かもしれない。
急いでいるかもしれない。

そう感じると、

「じゃあ、こうしたほうがいいかな」

と、自分より相手を優先する。

でも、あのときは違った。

相手の様子を見て、何かを感じていたとしても、
その感覚を相手の気持ちとして引き受けなかった。

ただ、

「ちゃんと洗えました?」

という言葉が、自分から自然に出てきた。

その言葉を、相手への気遣いで変えなかった。


相手の感情を引き受けて、自分の言葉を変えなかった。

今振り返ると、そこが大きかったのだと思う。

相手を気遣わなかったわけではない。

相手のことは見えていた。

でも、相手だけを中心にして、自分を置き去りにしなかった。

ーーー

私はこれまで、

「相手の気持ちを考えること」は優しさだと思っていた。

でも今は、

相手の気持ちを想像することと、
相手の気持ちを背負うことは違う

と思う。

そしてもう一つ。

感じたことは、私の中で起きた大切な感覚。
でも、それがそのまま外側の事実とは限らない。

これは、これからの私にとって大事なことになりそうだ。

「この人はこう思っているかもしれない」

そう感じたとき、

「そうかもしれない。でも、本当のところは分からない」

と、一度自分の場所に戻る。

そのうえで、

私はどうしたい?

を選ぶ。

相手が見えていても、自分も消さない。

それは、最近私が感じている

「自分の場所にいながら、人とつながる」

ということにもつながっている気がする。

あのときの、

「ちゃんと洗えました?」

という何気ない一言は、私にとって、そんな大きな変化の一つだった。

コメントをくださったことで、
私はそのことにもう一度気づくことができた。

あの記事を書いたときには、まだここまで見えていなかった。

だから今、もう一度振り返ってみると、
あの一言が少し違って見えている。


最後まで読んで下さり、ありがとうございました🍃

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