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本能に翻弄される

 不眠三日目、そして山行四日目の朝を迎えました。メンタル面が徐々にやられていき、ついに身体にも異変が起き始めました。

 本記事では、ところどころ、今(帰国後)記事を書いている自分の心情(いや、ツッコミ)を灰色枠内に書いています。

 前回の話はこちらの記事になります。


いつもと変わらぬ朝

 不眠三日目、山行四日目の朝を迎えた。

 人生初めての不眠三日目を迎えた。元々、寝ることが趣味であるようなため、今まで生きて来て不眠になったことがなかった。しいて言えば、飲みに行って、朝まで飲んで、そのまま晩になるまで寝ない(眠れない)、ということはあるけれども、それは一日限りの話なだけあって、三日連続不眠は、今まで生きて来て、人生初めてのことだった。

 寝起きの頭は重たかった。この頭の重さは、寝不足になったときに味わう重さである。そりゃそうだ、不眠三日目だ。不眠三日目で無敵な人間はこの世に存在しない。存在している場合は、ドーピングを一番に疑われるであろう。
 元々石頭の頭デッカチな上に、不眠によるズシンとした謎の重力が加わり、起き上がることに少々難があった。上半身を起き上がらせても、頭はボォーッとしていた。頭の中は、今日の山行よりも「不眠」の二文字しか格納されておらず、すっからかんになっていた
 昨日みたいに、朝の様子を見に外へ出て行きたかったものの、今の私には元気と余裕がなかった。しかしながら、時間だけは淡々と過ぎていくため、「不眠」の二文字に占拠されてしまった頭をどうにかこうにか使って、今日の準備に取り掛かった。

 ある程度の準備が終わり、外へ出た。相変わらず、ホロンボ・ハットの朝は日本の冬を連想させる寒さだった。わざと息を「ハァ~」と吐いてみると、息は白くなり、ものの数秒でふわっと消えて行った。昨日と同様にこの寒さが、不眠三日目の頭に心地良さを与えてくれた。

 部屋を出て、ふと真正面を見上げてみると、マウェンジが顔を覗かせていた。今日もマウェンジは根子岳にしか見えなかった。

 そして、左手側、西側にはキリマンジャロがひょっこりと頭だけを覗かせていた。

 お手洗いへ行こうとしたときに、背後から「昨晩はありがとうございました!」と声を掛けられた。後ろを振り返ってみると、一人の男性が立っており、見たことがない顔だった。でも、声だけは聞いたことがある。そして、この男性は”昨晩は“と言った。そうか、この男性は昨晩一緒に天の川の撮影をした男性だった。昨晩は真っ暗闇で顔があまり分からなかったが、朝の明るさで初めて男性の顔を見た。おそらく、男性も私の顔を初めて見ただろう。しかしながら、男性はどうやって私だと分かったかが今でも謎である。
 それはさておき、「こちらこそ、昨日夜遅くまでありがとうございました。」とお礼を申し上げた。男性からは「登山、頑張ってくださいね!」と応援の言葉をいただいた。「ありがとうございます、そちらもお気を付けて!」と言うと、男性は手をヒラヒラと振りながら、部屋へ帰って行った。(ちなみに、男性の友人のうらちゃんはいませんでした。)

 お手洗いを済ませ、食堂へ行った。添乗員から、昨晩の睡眠について聞かれたが、「少し眠れましたが、あんまり眠れませんでしたね。」と答えた。昨日は極不眠であったが今日は不眠だった。添乗員からは「昨日よりはちょっと眠れて進歩しましたね。」と言われたものの、本音としては1時間だけでもいいからぐっすり熟睡をしたかった。私の中では何も進歩していないような気がした。
 パルスオキシメーターで心拍数と血中酸素濃度を測定してみたが、とくに異常は見られなかった。

 この日の朝食はほとんど食べられなかった。不眠の次は食欲不振。不眠が原因か、それとも他の何かが原因なのかが分からなかった。とは言え、フルーツが美味しかったから、各テーブルごとに盛り付けされていたカットパイナップルを丸ごと一人で平らげてしまった。同じテーブルだった人たち、ごめんなさい。あとは、フルーツジュースを飲んで、私の朝食は済んだ。

 今日は最後の宿泊地のキボ・ハットを目指す。そして、今日の晩にはピークハントを目指す行程となっていた。

 朝食後はお手洗い等の身支度を済ませ、ポーターたちと合流をし、四日目の山行がスタートした。

ラストダンジョン

 いつものように、ジェラルドは朝からテンションが非常に高かった。挨拶の後に、「昨日は眠れた?」と聞かれたものの、「眠れなかったよ。」と答えると、「それは大変だ!」と言われた。

 朝、部屋を出たときは青空だったが、山行がスタートすると辺り一面はガスに覆い被され、今朝の天気から一変、雲行きが怪しくなって行った。

 昨日の山行では気が付かなかったが、ホロンボ・ハットの近くにヘリポートがあった。おそらく、キリマンジャロ山頂付近で救助要請があったヘリコプターはここで発着陸をすることが考えられた。少々先の話をしてしまうと、私もこのヘリポートにお世話になるところであった。かくかくしかじかと理由があり、私はヘリコプターではなくランドクルーザーで下山をした。このことについては、後の記事に書きます。

 添乗員が言うには、ホロンボ・ハットからキボ・ハットまでは砂漠だそうだ。中国地方民からすれば砂漠と言えば、鳥取砂丘を連想してしまう。黄色いサラサラの砂、足を踏み入れると、足が静かに砂に埋もれてしまう、あの砂漠。ところが、キリマンジャロの砂漠は鳥取砂丘の砂漠とは全く違い、平坦な砂利道が永遠と続いていた。「これも砂漠かぁ~」と思いながらも、鳥取砂丘が根強く頭にインプットされているため、なんとなく腑に落ちなかったが、砂漠は砂漠である。

 ふと足元を見てみると、水たまりが凍っていた。

 液体が固体になるためには、気温が氷点下にならなければいけない。裏を返すと、ここら辺一帯の夜は氷点下であることが予測できた。何回も書いているが、タンザニアの季節は夏である。しかしながら、液体が固体へと状態変化をしているため、ここは夏ではなく立派な冬である。もう、“夏”という概念を捨てなければならない。
 ジェラルドに「ここは水が氷になってしまうほど寒い?」と聞いてみたところ、「ここの夜は寒いよ。」と教えてくれた。たしかに、初日、二日目、三日目の山行と違い、身体の温度は上がらず、暑さを感じなかった。

写真に写っている点々は人々。

 永遠と砂漠の道が続く。天気の演出もあるせいか、ロールプレイングゲームで言う、ラストダンジョンに挑んでいる気分となった。天気も時折、晴れ間を見せてくれたものの、すぐにガスに包まれ、不安定な空模様となっていた。

緊急非常事態

 歩き始めてどれぐらいの時間が経ったのだろうか、私の身体に異変が起き始めた。

 突然、今朝飲んだ水分(水とジュース)が食道を通って逆流をしてきた。一瞬、何が起きているか理解ができなかった。ただ、胃から食道へと水分が逆流してきたため、水分とともに胃酸が含まれており、食道が一瞬で火照った。水分が逆流をしてきてコンマ数秒後に私は自分自身に起きていることが分かった。私は吐こうとしている。「これはまずい!」と思い、逆流してきた水分を急いで飲み込んで、ことなきことを得ようとしたが、身体は全く何も受け付けておらず、水分を飲み込んだものの、また勢いよく食道を通って水分が逆流をしてきた
 2回目の逆流も胃酸を含んでおり、食道は軽い火傷をしてしまった。そして、私はこの一連の動作に耐えきれずに「うっ⋯」と声が漏れてしまい、私の異変に気が付いたジェラルドは「大丈夫か?」とすぐに側に駆けつけてくれたものの、もう大丈夫ではなかった。ジェラルドに「全部吐け!」と言われ、私は吐いてしまった。ジェラルドはずっと私の背中をさすっててくれた。吐いた後、私の呼吸は乱れていた。

 私は何年ぶりに吐いてしまったのだろうか。

 そして、嫌な予感が的中してしまった。

 私は高山病になってしまった

 帰国後の保険の手続きの診断書を見ると、高山病は高山病でも「急性高山病」と診断されていた。(保険の小話もおいおいどこかで書くことができれば⋯!)

 自分で吐いたものが目に入ったが、どうやら水分だけを吐いていた。今朝食べたフルーツは消化されたのか、たまたま吐かなかったのか、それはよく分からなかった。
 吐いた後、呆然としている私に、ジェラルドに「水分を摂れ!」と言われ、ジェラルドは私のザックのサイドポケットにしまっていた水筒を取り、水を入れて私に渡してくれた。水を飲むと、乱れていた呼吸が多少和らいだ。

 ここで、パルスオキシメーターで心拍数と血中酸素濃度の測定をした。驚くことに、血中酸素濃度が今朝は90%を超えていたが、今は80%前半に下がっていた。
 阿呆な発言をしてしまうと、一般的に血中酸素濃度が90%を切ると危ないとされている。ところが、私は何を勘違いしてしまったのだろうか、試験で言う80点はA評価をされるため、血中酸素濃度が80%台でも全然恐るものではないと、当時の私は謎のプラス思考を発揮していた。そのため、血中酸素濃度が80%前半に落ち込んでいても何も思わず、焦らなかった。

 今思い返せば、自分は完全なる馬鹿である。馬鹿であるからこそ、逆に助かったのかもしれない。

 そして、なんとか体勢を整え、山行を再開した。

 高山病を発症したにもかかわらず、なぜか写真だけは撮り続けていた。特に何かの使命があるわけでもないのに。

もし、今の私が当時の私に会えるとしたら、当時の私の後ろに立ち、メガホンで「写真はいいから、さっさと歩け!」と叫び、ポコンとメガホンで頭を叩いているかもしれない。自分があまりにもノータリン過ぎて呆れてしまうが、当時の備忘録をここに書き残しておく。

 お昼の休憩ポイントに到着をするものの、食欲は一切湧かず、何も食べなかった。その代わりに、摂取した水分を戻すばかりだった。食道は胃酸にやられるばかりでボロボロになっており、酒焼けをしたことはないけれども、酒焼けをしてしまった場末のスナックのママみたいな声になっている気分だった。

帰国後に当時のことを振り返り、気が付いたことがあるけれども、おそらく、あのときの私の身体はすでに何も受け付けない状態になっていたのかもしれない。食べても飲んでも、全て戻すばかり。ちょっとした死期が近付いていたのかもしれない。

 相変わらず気温は上がらず、何も受け付けなくなっていた私の身体は寒さを覚えていた。防寒着をいくつか用意をしたにもかかわらず、全ての防寒着は、荷物を運んでくださるポーター用のバッグに入れていて、ザックの中には防寒着がなかった。どうして、こんなにやらかすばかりだろうか、トラブルメーカーもいいところである。
 ここで、添乗員が防寒着を貸してくださり、寒さを凌ぐことができた。本当にありがとうございました!お礼を言っても言い切れないぐらいである。

 昼食後、出発をする前にパルスオキシメーターで心拍数と血中酸素濃度を測ってみたところ、血中酸素濃度はさらに悪化をしており、70%後半に落ち込んでいた。
 当時の私からすれば、血中酸素濃度の指標がよく分からず、70%はいいか悪いかの分別がつかなかった。言うまでもなく、90%を切っている時点で下手すれば危篤状態になってもおかしくないが、70%台は言うまででもない。

 話が逸れてしまうが、帰国をして実家へ帰ったとき、母親にこの話をしたところ、「よく生きとったなぁ~!」と驚かれた。今はこの世にいないけれども、昔に祖父が心臓の手術をしたとき、血中酸素濃度が90%ぐらいで大丈夫かどうか心配されたらしいが、当時の私の血中酸素濃度は祖父の心臓手術よりも裕に下回っていた。

本能に翻弄される

 後半の山行が始まる前に、ジェラルドがまたまたカメラを貸してと言ってきた。言うまでもなく、私はもう写真に写る元気は1mmもなかった。正直、こんな弱り果てた姿を撮ったところで何になるのだろうかと思った。「いや、写真を撮らなくてもいいよ。」と言うものの、私の言うことをお構いなしに、写真を撮ってくれた。

血中酸素濃度70%台のときの自分

 前回は奇跡の全ピンボケ写真だったが、こちらの写真はピントがバッチリと合っていた。いつの間にかジェラルドの写真技術が上がっていた。

 お察しの通り、血中酸素は十分に無い、水分・食べ物を一切受け付けない、言うまでもなくどこにも元気が残っていなかった。目は死んだ魚そのもの同然だった。そのため、写真に写らざるを得ない私は、死んだ魚の目はさすがにまずいと思い、サングラスをかけ、無理矢理作り笑顔で写った。(不自然な笑顔になってて、ネタとして笑えるレベル)ちなみに、このときの唇の色は「ちびまる子ちゃん」に出てくる藤木くんの唇と同じ色になっていた。

 昼食後、歩行をしようとしたところ、進まなかった。いや、進んでいるのは進んでいるけれども、数メートル先を歩くことがやっとのことになっていた。おそらく、血中酸素濃度の低下で酸素が不足していることによる弊害である。

 写真を見ていただければ分かるであろうが、キリマンジャロのマラングルートは決して険しい道ではない。穏やかな緩やかな山道がずっと続いている。ただし、標高が高いところがネックである。そのため、ただ歩くだけには申し分ないが、絶賛高山病であり、血中酸素濃度の不足より酸素が無い私からすれば、数メートル先を歩くことがやっとのことだった。
 数メートル歩いては一休み、数メートル歩いては一休み、をひたすら繰り返した。幸い、吐くものを全て吐き終えていたため、後半からは嘔吐はなかった。

最後まで写真を撮り続ける自分(⋯)

 このときぐらいからであろうか、呼吸をすること、立ち上がること、歩くこと、この三つしか考えていなかった。考える、というよりかは、この三つの行動に身体中の全神経を集中させていた

 この危機的(本人は全く危機感はなかった。)状況からだと、「この人、死ぬんじゃね?」「コイツ、大丈夫なんか?」と思う読者もいらっしゃるかもしれない。

 今、こうやって当時の状況を振り返りながらも文章を書いてみると、自分でも、「この人(私)、大丈夫なん?」と心配ではなく、ツッコミを入れたくなってしまう。

 おそらく、たいていの人は「自分はこの先、大丈夫だろうか。」と心配をするかもしれないが、当時の私は自分を全く心配せず、ひたすら、呼吸、立ち上がる、歩くことしか考えていなかった不思議なことに、こんな危機的状況に直面をすると、「生きる」か「死ぬ」かを考えがちになるかもしれないが、当時の私は「生きる」か「死ぬ」かを考えなかった。考えなかった、と言うよりかは、考える暇がなかった

 言うなれば、本能に身を任せて、ただ、ただ、前にある道を進むことに全力を注いでいた。本当に雑念は一切なかった

 今思い返してみると、これが人生初めての煩悩がない世界の体験だったかもしれない。

 みんなより大分遅れを取って、キボ・ハットに到着をした。キボ・ハットに到着をしたものの、小屋の外には数人の外国人登山客がいるだけでツアーのみんなの姿が見当たらなかった。いくつかの小屋の中にみんながいるはずだが、どの小屋にいるかが分からなかった。そのため、私はみんなの居場所が分かるまで外で待つことになった。
 ここでも、パルスオキシメーターにて心拍数と血中酸素濃度の測定をした。血中酸素濃度はまたまた過去最低を記録してしまい、64%まで落ち込んでいた。

 血中酸素濃度64%と文面に書いてみると、当時の私は、もはや違う意味で限界突破をしてしまい、人間ではない何者かになっていたのではないのだろうかと、自分で自分を疑った。

 血中酸素濃度がさすがの64%がまずかったのだろうか、ジェラルドから「頭痛は?腹痛は?」と質問をされた。頭痛はなかったものの、頭が今朝よりもさらに重たくなっていた。私の英語の語彙力が乏しいことと、頭があまり回っていなかったせいで、頭が重いと表現ができず、「pain(痛い)」と答えてしまった。本当は頭痛ではない、ただ頭の真上に鉛が10個ぐらい乗っかっているかのように非常に重たかった。そして腹痛は一切なかった。ちなみに、目眩もなかった。

 そんな中、ジェラルドがカメラを貸してと言ってきた(3回目)私は「へっ?」と言った。いやいや、もういいでしょ高山病で死にかけている私は何かの罰ゲームでも受けているのだろうか
 血中酸素濃度64%の私はもうボロボロである。さすがにもう写る気力はないし、作り笑顔をするパワーもどこにも残っていなかった。でも、ジェラルドに「撮らなくていいよ!」という返答をする気力もなく、ジェラルドに言われるがままにカメラを渡し、ヨレヨレになった死にかけの私を撮ってくれた


 ジェラルド、最後の最後に笑わせてくれた。



奇跡の全ピンボケ写真(2枚目)

 そうこうしてる間に、みんなの居場所が分かり、みんながいる部屋へ移動をした。
 ベッドが部屋中にギッシリ詰められた部屋で、各自ベッドに座っていた。私は部屋の一番奥の2段ベッドの上の段であると言われ、2段ベッドの階段を登り、ベッドにスライディングをするように倒れ込んだ。周囲の人たちから「大丈夫?」と言われた。言われなくても一目見れば分かるであろう、全くもって大丈夫ではない。でも、なぜか私の口は「大丈夫!」と返事をしてしまった。

 みんなの集合が揃って、添乗員が今晩のピークハントのアタックについて説明をし始めたが、すでに私の意識は朦朧としており、添乗員の声がどんどん遠のいていき、そのまま気を失った。この三日間の睡眠負債を取り戻すかのように、そのまま私は深い眠りに就いた。

おまけ:後日、サングラスを紛失

 自分が写った写真を見返してて、虫の目玉の色みたいに反射するこのサングラスを実は先日の山行で紛失をしてしまった。

(↓)サングラスをなくした山行(記事にはサングラス紛失には触れていないけど)

 あまり自慢にはならないが、山へ出掛けるとよく物を紛失することが多い。過去に紛失したものを挙げると、グローブ、トレッキングポール、熊よけの鈴、こうやって文字に起こしてみると、「どうやって失くすの?」とツッコミが入りそうな山用品を紛失している。これらの紛失物に、先日サングラスが加わった。

 この日はキャップを被って、キャップのツバの上にサングラスをかけるかのように乗せていた。登山口に入る前に、自分の車の窓ガラスでサングラスを掛けたことを確認して出発をした。
 山行中に、ところどころ日差しが強くなって来たため、サングラスを掛けようと、キャップのツバの手を持っていったところ、サングラスがなくなっていた。「あれ?」と思い、恐る恐るキャップを脱いでみたが、サングラスは忽然と姿を決していた。どこでサングラスをなくしてしまったのだろうか。全く身に覚えがなかった。

 元々は山用品ではなく、キャンプ用のサングラスであった。いつかは山用品のサングラスに買い替えたいと思いながらも、そのままキリマンジャロへ持って行った。このサングラスをかけてキリマンジャロを途中まで一緒に登った大切な相棒が、いざいなくなるとやっぱり寂しいものがある。

 おそらく三嶺のどこかにサングラスが落ちていたならば、私のサングラスの可能性があるかもしれない。

ーーー 本記事では、「私が習ったスワヒリ語」はお休みいたします。

 タンザニア・キリマンジャロ登山の記事は、こちらのマガジンにてまとめております。


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