【行こ行こ#82】湖巡りとエルサの罠|東の果て釧路旅2025-7
これまでのあらすじ
北の海の幸を味わい、北方領土を見て、夜の鹿と煽り運転をどうにかやり過ごし、私はいちおう生還した。
今日は、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖と、道東の湖たちを巡る日である。
本来は阿寒湖だけを見るつもりだったのだが、そこはそれ、私の悪い癖──いや、旅人としての持病と言うべきか、スタンプラリー症候群が発症してしまった。
せっかくここまで来たのだから、摩周・屈斜路・阿寒の三湖を全部見たい。人は欲望に負ける。しかもこういう欲望には、たいていろくでもない副作用がついてくる。
発病
私はスタンプラリー的なものが好きだ。
実際にスタンプを押さなくてもよい。新しいところに行ったり、新しいものを見たり食べたりした瞬間に、脳の左上あたりに
「実績解除! ○○を獲得しました」
みたいな小さなバナーが出る感じがある。
万博のスタンプラリーが楽しかったのも、あれである。数分ごとに脳内バナーがぴこぴこ出る。ああいうのは、たまらない。
「私は今、北海道にいる。」
このチャンスを最大限に活かすためには、なるべく多くの実績を解除することだろう。
Googleマップを開く。

釧路は最終日にちらっと行けばよい。
根室方面は昨日行った。
釧路の近くは山ばかりで、何もなさそう(失礼)。
海は極寒で泳げるわけでもない。
そうなると、必然的に行き先は決まってくる。
阿寒湖である。
名前は聞いたことがある場所、というのは、行ったらきっと何か発見があるだろう。本当にそんな、ふんわりした理由で私はいつも行き先を決めている。

Googleマップを拡大する。
屈斜路湖。摩周湖。阿寒湖。
名前だけ聞いた難読漢字レイクが三つ並んでいる。
「全部……行けるかな……」
私のスタンプラリー症候群は、静かに、しかし確実に発病し始めた。
私は想像した。
「実績解除! “阿寒湖到着” を獲得しました」
「実績解除! “屈斜路湖到着” を獲得しました」
「実績解除! “摩周湖到着” を獲得しました」
そしてその三つのバッジが合体し、トロフィーの周囲にささやかな紙吹雪が舞い、
「実績解除!”道東三湖阿寒・摩周・屈斜路の三大カルデラ湖制覇”を獲得しました」
そんな妄想で独り盛り上がっていた。
まあ、いつものことである。こういう時の私は、困難を困難として認識する前に、自ら進んで突っ込んでいく。
作戦行動開始
天気予報は「晴れ時々曇り」。どうせ釧路市内を散歩しようと思っても寒いだろうし、ちょうどよい。
昨日もお世話になったレンタカー屋さんへ向かう。線路を渡る。

もう慣れた通勤路みたいな気分である。たった二日目なのに、妙に根拠のない顔なじみ感がある。
車を引き出し、iPhoneの地図で摩周湖に照準を合わせる。
走り始めると、しとしと雨が降ってきた。さらに標高が上がるにつれ、もうこれは雨というか、まいったね、である。
摩周湖といえば、透明度の高い湖として知られ、「摩周ブルー」と呼ばれる深い青で有名だ。第一展望台のレストハウスは2022年に改修され、「摩周湖カムイテラス」としてリニューアルしている。施設側も、湖や星空を楽しむビュースポットとして打ち出しているらしい。
しかし、この日の空模様ではそれは期待できない。
期待できないが、私は行く。なぜならそこに湖があるからではない。バッジがあるからである。

10時ちょい前には摩周湖第一展望台に到着した。
駐車場に車を停める。雨は止んでいる。
さて、問題なのだが、私は何をすればいいのか、実はよくわかっていない。何度も言うが、ここに特定の用事があったわけではない。ただ「有名な湖だから来た」のである。観光の動機としては、かなり不純だ。
とりあえず人工物がある方へ向かう。

階段を上がると、何やらテラスがある。空は今にもまた降り出しそうで、世界の終わりか、この世の果てみたいな風景である。
湖面は、どんよりした空をそのまま映して、ひたすら鈍色だった。透明度もへったくれもない。

柵のぎりぎりまで歩いていくと、そこには人工物のほとんどない世界が広がっている。
「うおおおおおおお!日本誕生!」
いや、何のことか。これから説明しよう
私はドラえもんが好きだ。その中でも『ドラえもん のび太の日本誕生』が大好きである。
雑に説明すると、いろんな理由で家出をすることになったのび太たちが、ドラえもんに頼み込んで「まだ誰もいない」過去の日本へタイムトラベルする話だ。
「3万年前には日本に人が居たらしいよ」とスネ夫
「じゃあ倍の6万年!」とのび太
「じゃあもう1万年足して、7万年前の日本へ!」とドラえもん。
この雑でダイナミックな目的時空の決め方から、その後の世界崩壊を阻止するまでの大スペクタクル映画なのである。
そして、その小学四年生4人と青狸ロボが到着したのが、手付かずで寒い原野なのである。
私の目の前にあるのは、まさしくそれなのだ。

この写真を見てほしい。
いや、もちろん本当に七万年前の日本ではない。
だが、気分としては完全にそうである。何もない。人工物がない。寒い。広い。終わりかけた世界みたいな色をしている。
記事を書きながら自分でも思うのだが、私は本当にお得な性格をしている節がある。
普通だったら「ああ、晴れてたらよかったのに」とか「夏ならもっと綺麗でしょうね」とか、そういうことを言うのだろう。
ところが、いい歳したおっさんが「日本誕生!」と一人ではしゃいでいるのである。どこでも楽しめるのが、私の長所であり、同時に不憫なところでもある。
さて、この場所について少しお話ししよう。ここは『摩周湖カムイテラス』というところのようで
2022年7月にリニューアルオープンした摩周湖第一展望台の体験型観光施設で、弟子屈町振興公社の案内によれば、展望テラスや休憩ラウンジ、ソファ席、地場食材を使ったカフェメニューなどを備えているという。


たしかに、自由に座れるソファがある。そして、そこから見える景色はこれだ。

雄大。
ああ、美しい。
スマホでお読みの方は、タップして全画面で見ていただきたい。拡大しても自然しかない。情報量が少ないくせに、満足度が高い。

座って眺めるとこうだ。これは絶景だ…。
私はしばらくこの美しい摩周湖を眺めていた。
しかし…取り払っても取り払っても、ある言葉が脳内に満ちてくる。
寒い…。
ダウンジャケットが守ってくれる範囲はまだよい。問題は、その外である。手。顔。耳。とくに耳。耳がちぎれそうだ。
私はたまらず建物内へ逃げ込んだ。
そこで「摩周の源流水を使用」した「摩周の大豆で作った珈琲」みたいな、いかにも地元感のあるコーヒーを見かける。当然購入である。
暖かい。
そして、信じられないくらい素敵なテーブルがあった。エポキシかガラスか、そういう透明な素材で、摩周湖そのものを封じ込めて埋め込んだみたいなテーブルなのだ。
暖房。
コーヒー。
美しいテーブル。
窓の向こうの鈍色の摩周湖。

私はしばしそれらを味わい、頭の中のバナーが「摩周湖」のバッジを付与したのを確認すると、次の湖へ向かって走り出した。

屈斜路湖
カーブの少ない道を走り、屈斜路湖に着く。

車を停めて湖へ歩いていく。風は強いものの、湖面は意外とそこそこ滑らかだ。
しかし何より、人がいない。
阿寒湖は売店もやっていたというのに、屈斜路湖はまるで世界が滅んだ後の冬の国に、自分だけ閉じ込められたような感覚に襲われる。
静かすぎる。静かというより、何も起きていない。

地図を見ると、湖の南側にポコンと突き出た半島のような地形がある。和琴半島というらしい。和琴半島は火山性の半島で、自然探勝路が整備され、一周できる場所として案内されている。
私はそこにある神社も気になっていたのだが、行ってみると冬季閉鎖で、残り徒歩1分ぐらいのところで足止めを食らった。
仕方なく引き返し、さらに奥へ行く。
見えてきたのは、公衆トイレと東屋、それから小さな木の看板だった。
そこには、こう書いてあった。
露天風呂
えっ、これか。
どこが。
何が。
周囲を見回しても、いわゆる温泉施設らしい建物はない。視線を下に落とすと、一段低いところに、小さな池ぐらいのサイズの水たまりがある。

ここか?
いや、露天風呂というより、池に近い。しかし東屋には成分表らしきものが貼ってある。

…本当に温泉だ。
足元の春
近くの東屋は更衣小屋らしいのだが、これがまた潔い。吹きさらしなのである。
ここで全裸になるのは、さすがにクルクルパーだろう。なので、せっかくだから足湯にすることにした。
裾をたくし上げ、靴と靴下を脱ぐ。半月形の湯だまりに足先を沈める。

底はぬるりとやわらかく、温度は想像よりずっと暖かかった
あっ、これはいい。
一瞬にして、温泉に入った時のあの心地よさが、足から全身へ駆け抜ける。上半身は冬である。風がぴゅうぴゅう吹いている。だが、足元だけは春だ。

ふくらはぎのあたりで、湯と風が拮抗している。
血液はたしか五分ぐらいで全身を一周するんだったか。うろ覚えだが、もしそうなら、いまごろこの足元の春が心臓のあたりを通過しているかもしれない。
私はこんなに寒いところで足湯をしたことがない。
だから効果には半信半疑だったのだが、ちゃんと体全体が温まり、「少しも寒くないわ」とまではいかないが、十分暖かかった。
セミも守った温泉
足湯から車へ戻る途中、ちょいと面白い看板を見かけた。
和琴半島には、国指定天然記念物の和琴ミンミンゼミ発生地がある。
案内によれば、ミンミンゼミは本州・四国・九州では普通に見られるが、北海道ではごく一部にしか生息しておらず、和琴半島では温泉熱によって比較的気温が高く保たれたことで、この地に“取り残された”とも考えられているという。約4000〜5000年前以降の気候低下と分布縮小を知る手がかりとして貴重だ、という説明である。

つまりこの足湯は、ただ私の足を温めているだけではなく、何千年単位の気候変動の名残でもあるわけだ。そう思うと、急にありがたみが増してくる。
たかが足湯、されど足湯。温泉の熱が、セミを生き残らせ、私の血流を立て直してくれている。
感慨に浸っていると、視界に白いものが映った。
「うわぁ……雪だ」
結果として、足を浸けていたのは3〜4分だった。
風情としてはもっと長く浸かっていたい。だが、現実にはこのあと阿寒湖まで行かなければならないし、雪が本気を出したら話がややこしくなる。
私は足をタオルで拭き、靴下と靴を履いて、早足で車へ戻った。
ただ、不思議なもので、来る時よりも少しだけ世界が優しく感じられた。たぶん足が温まったからだろう。雪の女王も温泉入ればよかったのに。

へいSiri
屈斜路湖から阿寒湖へ向かう。
音楽でもかけようと思って、例によって言う。
「へいSiri、音楽をかけて」
すると返ってきたのは、無慈悲なひと言だった。
「オンラインにしてください」
え?
電波もないの?
私は道路の端に駐車スペースを見つけ、そこでiPhoneをいじる。そして改めて山道の景色を見る。

積雪。
重い雲。
そしてどこまでも人工物のない景色。
「北海道はでっかいどう」という古いコピーが脳内に浮かぶ。
さらに「試される大地」という北海道のキャッチコピーが、いかにぴったりかをまざまざと見せつけられる。
走り出してしばらくすると、私は道端に派手に横転している車を見た。
恐怖。恐怖である。
昨日の恐怖のドライブが、まだ全然終わっていなかったことを思い知らされる。
今日の道もまた、ちゃんと危ないのだ。山道で、寒くて、電波がなくて、車はひっくり返る。そういう世界を私はいま走っている。
そんな緊張の中、突然、目の前に鶴が飛んだ。しかも三羽。
私の目の前を、左から右へ、並走するように飛んでいく。
でかい。
本当にでかい。
体感では2メートルぐらいある。もちろん盛っているかもしれないが、そう言いたくなるぐらい大きい。釧路空港が「釧路たんちょう空港」と名乗っている理由が、ようやく腹に落ちた。
タンチョウは日本最大級の鳥で、翼を広げると2メートルを超えることもある。そりゃ大きく見えるわけである。
私は群馬出身なので、「鶴舞う形の群馬県」という言い方には親しんでいる。だが、実際に鶴が飛んでいるところは見たことがない。てか居ない。
群馬の鶴は、地図上のみを舞うのである。
阿寒湖
そして阿寒湖へ着く。もはや疲労困憊で、写真すら撮っていない。
脳内のトロフィーを助手席にぶん投げて、私はこの日の最大のお楽しみへ向かった。

伺ったニュー阿寒ホテルは阿寒湖畔の大型ホテルで、屋上に「天空ガーデンスパ」を備え、阿寒湖と一体化するようなインフィニティ・エッジ・スパを看板にしている。展望大浴場は地上30メートルの高さにあり、サウナもある。
受付を済ませるとエレベータで上階へ。

金ぴかである。鶴が舞っている。いかにも昭和から平成初期のホテルという趣で、こういうの、私は嫌いではない。

大浴場へ続く階段を上がっていくごとに、私の期待値も上がる。
大浴場へ入る。
そこは期待以上に立派な施設だった。温泉があり、サウナまである。大きなガラス窓があり、そこから阿寒湖の大パノラマが拝める!
…はずだった。
そう、雪である。
目の前の阿寒湖は、雪と霧と風でほとんど見えない。
松林図屏風
長谷川等伯の《松林図屏風》をご存知だろうか?
白白い和紙の上に墨の濃淡だけで、風と光の情景が描き出される、あの国宝である。国宝といってもヤクザが歌舞伎役者になる話ではなく、東京の国立博物館に所蔵されている。
見えるのか見えないのか、霧の向こうに何かが立っているような、あの感じ。阿寒湖は、まるで巨大な雪の松林図屏風だった。
まあ、よくいや松林図屏風だが、その実、真っ白けっけな風景である。
湯船に浸かって、情報量ゼロの風景を眺める。サウナと水風呂を三往復した頃だったろうか。ふと、風が止んだのか、目の前が晴れ渡った。
そこにあったのは、阿寒湖の大パノラマだった。
当然だが風呂場で写真は撮れない。なので、これは皆さまの想像力と、公式サイトの写真などに任せたい。
高台にある高層ホテルの上から見下ろす阿寒湖は、それはそれは美しく、値千金であった。
私はこのチャンスを逃すまいと、水着に着替えてある場所に向かった。
そう、屋上のインフィニティ風呂である。男女共用なので、水着着用なのだ。
螺旋階段を上がり、屋上へ着く。
ガラスのない360度仕切りなしの風景である。
このために普段ロッカーにしまうメガネも装着して準備万端だ。
ああ……美し……寒い!!!!
11月の吹雪く北海道で、水着一丁で体はずぶ濡れ。即座に体温が奪われる。さっきまで入っていたサウナの熱など、風前の灯である。
身体が即座に震え始める。整う前に凍死する。それでも外気浴をしたい私は、サマーベッドに横たわる。
死ぬわ! このままでは。
さっきまでの晴れ間は一瞬で、あっという間に吹雪が私の体を覆い尽くす。手の上に雪の結晶が積もり始める。
これはもう、アナと雪の女王の長女、エルサが近所に越してきたレベルだ。
ガタガタ震えながら、私は外気浴を諦め、インフィニティ温泉へ入ることにした。
あったけーーー。
最高である。
吹雪いていようが何だろうが、湯の中にいる限り少しも寒くないわ、という気持ちになる。
頭寒足熱という言葉が脳裏に浮かび、「これは風邪の治療法だ」と思い直していると、脳内バナーがふっと灯った気がした。
「実績解除! “阿寒湖到着” を獲得しました」
私はここで、皆さまに申し上げたいことを一つだけまとめることにした。
『阿寒湖には、夏に行け。』
皆様にはどうか、私の屍を越えていってほしい。
私は吹雪の中でも温泉に浸かって「これはこれで最高」と言ってしまう人間なので、あまり信用してはいけない。
きっと夏ならエルサも来ないし、景色も見えるし、整い放題だろう。
ジビエ
そんな極寒の阿寒湖で食べたのが、深山丼(みやまどん)である。

鹿肉を使った丼で、味つけは濃いめ。たんぱくなのに、ご飯が進む。しかもご飯も多い。こういう山の寒い土地で食べるものとして、たいへん正しい。
鹿肉というと少し身構える人もいるかもしれないが、これはしっかり「飯が進む肉」だった。
昨日の根室では海の幸を食べ、今日は山の肉を食べる。北海道というのは、ずるい。広いだけでなく、食べ物の守備範囲まで広い。
その後も、
「阿寒国際ツルセンター」
「釧路駅」
「牡蠣食べ放題」
「鶴は”渡り鳥じゃない”ことを知る」
など、次々と実績解除をかまし、釧路旅三日目は更けていった。

つづく。
↓次回
記事:まるのすけ
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