闇 663(ゾク人間証明編)
闇 663(ゾク人間の証明編)

2026/08/31 mon
※まず史実通りの広大な人生の一次プロット。これを書き切らないと、俺は次に進めない。
前回の章

二千二十四年五月一日後半、水曜日先勝。
あ、また自分の世界に浸り過ぎだ。
早く若香へ返事をしろって。
『そうです、十一時までですね。弁当も大丈夫です。まだ雨降っているのが、ちょっと憂鬱で。 岩上20:28』
『まだ雨が降っていますか。もう一日中雨が降ったでしょう。 朱婧瑶20:36』
いつまで雨なんだっけ?
『天気予報だと、明日まで雨が続きそうですね。 岩上20:37』
『イチローが出てくる時は必ず傘を持って行ってね。 朱婧瑶20:48』
人生の伴侶ってこういうもんなのかな。
『もちろんです! お気遣いありがとうございます。 岩上20:49』
『イチローを気にするのは若香がすべきことではないでしょうか。日本の女性はみんな優しいですか? 朱婧瑶20:51』
日本の女……。
浅草ビューホテル時代の同僚浅野美嘉。
好きだったけど関係が壊れるのを怖がり、ちゃんと言えなかったミサキ。
ピアノも小説も絵も、自身の持てるスキルをすべて捧げてフラれた品川春美。
憎愛と表裏一体だった百合子。
教会の牧師妻だった望。
もうちょっと俺がまともに…、真剣に考えていたら、今頃誰かと結婚して子を儲けていたんじゃないのか。
日本の女性は優しいか?
それについては優しかったり、怖かったりもする。
怖いといえば、過去のストーカー連中だよ……。
九州の優香と文江…、そして時を経てひろみと火の国の女たち。
ねとっとした粘着質な性格。
嫌だと言っているのに、延々にしつこい性格。
時には遺書を書くから俺の名前を入れるなんて抜かしやがって。
俺の実家の部屋を、どこからか覗いてんじゃねえよ。
心筋梗塞の時は危うく死に掛けたんだぞ。
ミクシィで付きまとわれたひだまり。
危うく死体第一発見者になるところだった。
京都のちえみもウザかった。
一日何十回連絡すれば気が済むのだ。
いい女もいれば、嫌な女だっている。
それでも若香はこれまで出会ってきた女とは、種類が違うような気がした。
『若香さんがそう思ってくれているのが、嬉しいんです。日本の女性ですか……。気に入られると非常にしつこくて、中にはストーカーになる人も数名いましたね。 岩上20:53』
『まさか。こんなに誇張していますか。優しくはないはずです。それから家で子供に料理などを教えていますか? 朱婧瑶20:58』
うーん、ちょっとというか、かなり日本語変だぞ、若香。
『うーん、他の家はどうなんでしょうね。各家によって親子関係は様々だと思いますよ。俺の場合は小学校二年生で母親が家を出ていき、この頃から俺は料理しようとしてたんです。当時俺が台所に立っているのを父親に見つかると、「女みてえな事しやがって」とそれだけで殴られてましたね。 岩上21:02』
あ、また自分の嫌な過去をつい出しちゃったよ。
まあちょっとだけお袋の事をあの時言ったんだっけ?
『男は自分で料理できないという意味ですか? 朱婧瑶21:04』

お袋だけでなく親父までとなると、そりゃあ気になるよね……。
まあこれから一緒に過ごす時間が増えるんだ。
このタイミングで、彼女へ過去を話すのは必然的だったのかもしれないな。
さて、何から話せばいいか。
親父と一番仲が険悪だった頃……。
生まれてから様々な事を知り、あれだけ憎いと思った親父には、拳で一度も殴った事がない。
殴ったら、これまでの憎悪から勢いで殺してしまう。
ずっとそう思っていた。
倒れている親父の姿を見て、以前の事を思い出していた。
もう加藤皐月もいない。
戸籍上、籍だけ入っているが、それはあの女がその後の金の為だけに入れているだけ。
自分だけは金をつかみ、長生きするつもりなのだろう。
親父は実印まで管理され、自分自身で銀行の金をおろす事すらできないのだ。
俺が南大塚の支店の土地の売買の話をまとめて登記などを済ませた金。
四千万円の金を加藤皐月は親父と一緒に家の仕事で使ったような顔をしているが、結局三年間で残り四百万になっていた。
その中で親父が使った金など、たかが知れている。
いくら毎日酒を飲むと言っても、金を遣うには限界がある。
その辺は歌舞伎町時代、金をしこたま稼ぎ、散々毎日のように無駄遣いをしてきた俺は分かるのだ。
キャバクラで毎日のように散財したって、毎日十万円の金などなかなか遣えるものではない。
そんな事をしていたら、身体のほうが先にパンクしてしまうだろう。
俺の全日本プロレス時代の師匠、誰もが知るジャンボ鶴田さん。
あの人はいつだって暴飲暴食だった。
内臓疾患を現役時代に患い、一戦から退いてしまった。
あんな化け物のような人でさえそうなのだ。
一般人が酒を煽るという行為。
そんなんで三年間で四千万円など消えやしまい。
うまい具合に加藤皐月が何回かに分けて他に移したのだろう。
俺が本腰を入れようと、加藤皐月の義理の息子の大室に確認したところ、ここ三年間の売り上げは、こんな不景気なご時勢なのにまるで落ちていない。
おじいちゃんが一代で築き上げ、たくさんの職人さんたちに支えられ、一店舗一店舗と支店を増やしてきた努力の賜物だろう。
なのでたった三年間で四千万という金がほぼ無くなったという理由は、加藤皐月の使い込みとしか考えようがないのだ。
天皇陛下から勲五等瑞宝章という勲章をもらったおじいちゃん。
俺にとっての自慢の祖父である。
そんなおじいちゃんの失敗は、二つ。
一つは親父を甘やかし、世間に出すと何をされるか分からないと、いつだってフォローしてしまった事。
もう一つは伯母さんのピーちゃんを嫁に出してやらなかった事。
いや、そんな事を思う資格など俺ら三兄弟にはない。
だってお袋が家を出て行き、俺が小学校二年生。
徹也は幼稚園の年長。
一番下の弟の貴彦なんて、幼稚園にすら行けない年だったのだ。
そんな残された俺ら三兄弟を一生懸命育ててくれたピーちゃん。
自分の婚期など気にする余裕などなかったのだろう。
おじいちゃんは政治家たちの選挙会長に駆り出され、クリーニング組合名誉理事。
そして交通安全協会の会長としても活躍。
さらに商店街の会長として動かなきゃいけない立場だった為、俺ら三兄弟を直に面倒みるなんて、多忙過ぎて無理だったのだ。
おばあちゃんは昔から病弱で、俺が知っているだけでも三回ぐらい入院生活を送っていた。
親父は外で遊び呆け、お袋は好き勝手に出て行った。
だからピーちゃんしかいなかったのだ。
俺たちを育てられるのは……。
自分の少ない給料から、毎週日曜日になるといつも俺たち三兄弟をファミリーレストランに連れていってくれた。
「ハンバーグとクリームソーダがいい!」とはしゃぐ俺に、ピーちゃんはいつも「食べ物だけにしな。クリームソーダはお腹いっぱいにならないから」と寂しそうに言った。
多分、飲み物まで出す余裕がなかったのだ。
そんな心理まで考えられなかった俺は、ピーちゃんってケチだなって幼い頃ずっと思っていた。
本当に馬鹿だった。
ご飯のお代わりは好きなだけさせてくれた。
成長期の俺たちに必要なものだけは無理をしてでも食べさせたかったのだろう。
俺は十九歳の頃、そんなピーちゃんと口論になり、無意識の内殴ってしまい、アゴの骨を折ってしまった。
何という馬鹿な事をしてしまったのだろうか?
あの時、ピーちゃんはどんな想いで立ち上がり、膝をガクガクに揺らしながら俺に向かってきたのだろうか?
俺は本当に業が深い。
生きている事自体が罪なのだ。
でも死ぬ事すらできない。
自殺が偉いと思っている訳じゃない。
どんなに苦しくたって生き抜く。
それが一番死ぬよりも辛い事なのだ。
動物という視野で考えると、親は絶対に子供に餌を与え、育てていく。
しかし、年老いた親に餌を与える子供はいない。
そんな事をするのは人間だけなのだ。
何故、俺たちは人間として生まれ、年老いた親の面倒まで見ようとする習性があるのだろう?
周りを見渡せば本当に何年経っても仲良しの親子なんてたくさんいる。
生まれた時から愛情というものを注ぐ親。
それを未だ覚えている子供。
だから仲良くいられるのかもしれない。
では、俺の家はどうか?
愛情なんて注がれなかった。
片方の親だけならまだいい。
お袋は操り人形のように扱い、自分自身いっぱいいっぱいになると捨てていった。
親父は愛情というものはあったかもしれないが、責任感というものが欠如していた。
両親共にすべて自分自身だけの為に生きていた。
そしてもう一人の戸籍上の母親になってしまった加藤皐月。
いつの間にか籍を入れていて、それに気付くまで五年間。
世界で一番嫌な女が戸籍上とはいえ、俺の母親になっていたのだ。
想定した以上、本当に汚い女だった。
おじいちゃんの家に住む俺や伯母さんのピーちゃんを回り近所に「まったくパラサイトが二人もいて、それの面倒を見るようだから大変よ」と言いふらし回っていた。
実際面倒など何一つ見てもらっていないが、加藤皐月はそういう事を平気で人に言いふらす。
頭の中は金の事しかないくせに、綺麗事を言って妙に自分を取り繕っている。
気付けば家に棲みついた物の怪。
親父以外、誰一人も歓迎などしない。
俺が高校時代に人妻三人で乗り込んできた事実。
親父が逃げ回っているのに、家の近くで毎日ようにストーカー行為を繰り返していた事。
ジャンボ鶴田師匠が亡くなったあと、俺が総合格闘技の試合前夜、家へ勝手に上がり込み、大騒動まで巻き起こした。
長年働いてきた職人さんたちに、「新しい社長の言う事が利けなければ辞めればいいのよ。金を出せばいくらだって人は雇えるから」と言い放ち、たくさんの人が辞め、それぞれの人生を狂わせた。
家業に入り込み、安定しているはずの店の金を徐々に抜いていった。
そんな女を誰が歓迎するだろうか?
加藤皐月自身は誰の前でも「私はお父さんに入れと頼まれた」と堂々と言っていた。
俺の前でも誰の前でも同じ事を言い続けた。
普段温厚なおじいちゃんが「私はそんな事はひと言も言った覚えがない」と強い口調で言っても、加藤皐月は「あーら、年を取るってやーねー、自分で言った事を忘れるなんて」と平気で惚けた。
何度この女を殺したいと思った事だろう?
弟の徹也は血の気が多く、当時いつも突っ掛かっていった。
そんな徹也に対し、加藤皐月は当たり前のような顔をして、家の電話を勝手に使い百十番した。
俺が受話器を奪い、電話機へ叩き付けるまで、涼しい顔をして座っていた。
親父より七歳も年上の物の怪。
俺が高校生の頃はあれだけ逃げ回っていたはずなのに……。
何故親父は、あんな女に捕まってしまったのだろう?
昔から近所の人々にちやほやされ『智さん』と親しまれ、大勢の仲間の笑顔に囲まれて育った親父。
俳優みたい。
あんな人がお父さんだったら幸せ。
そんな台詞を嫌というほど聞いて、俺は育った。
家の中と外の違い。
みんな、人間てものを見る目が何もないんだなと幼い頃から理解していた。
でも近所の人々を責めるつもりはない。
だって子供の養育費など何も気にせず、家から金を盗み、その金でみんなにご馳走を振舞っていたなんて、誰が分かるのか。
もし俺が親父と他人だったら、本当にこの人はいい人だなんて思っていただろう。
今、その答えが分かった。
親父はずっと孤独で寂しかったのだ。
自分でもどうしていいか分からず、無駄な事ばかりして、現実逃避していたのだ。
子供からも親からも、そして妹であるピーちゃんからもいつだって白い目で見られ、家の中でずっと疎外感を覚えていたのかもしれない。
あんな女とはいえ、常に親父の味方だけはしていた。
それが嬉しかったんじゃないか?
親父の人格や性格というものを知り尽くし、加藤皐月は自分の立てた計画に沿って、じわりじわりと家に入り込んだ。
「……」
思い出せばキリがなくなってしまう。
それぐらい深い溝が、岩上家にはあるのだ。
『いえ、俺の父親は当時どうしょうもない人間だったんです。女遊びも酷かったし、家に女三人同時に怒鳴り込まれる事もありましたね。俺が小さい頃は、よく父親からも暴力を受けたんです。 岩上21:06』
『うわー。こんなにすごいですか。当初の父は何をしていたのでしょう。どうやって地主のように感じますか? 朱婧瑶21:14』
当初の父?
あ、おじいちゃんの事を言っているのかな?
『うちはおじいちゃんが一代で財と名誉を得たので、父親は絵に書いたようなボンボンだったんですよね。だから非常にワガママで頑固で短気だったんです。俺は四十歳半ばまで本当に母親だけでなく父親も嫌いだったんですね。だから両親の血が流れる自身の身体を戦う方向へ持っていき、当時は血を全部吐き出したかったんです。まあそんな事したところで、何も変わらないという結果を分かっただけでしたが。 岩上21:18』
『イチローはかつて家庭について話したことがある。ただ、母親がイチローに悪いことを知っています。父も同じだとは思わなかった。でも今は年をとっています。変わったこともあるでしょう?イチローにはもう一人弟がいるでしょう? 朱婧瑶21:23』

そういえばあの時彼女と過去の傷を舐め合ったっけ。
俺は彼女に母親の事しか言わなかったかもしれない。
父親、叔母、そして二人の弟。
新宿や横浜での地獄など、生ぬるく感じてしまうほどの阿鼻叫喚。
俺の人生において本当の元凶は、家族だから……。
両親だけでなく、弟たち、そして叔母まで全部話したら、狂人一家だと若香引かないかな?
まあしょうがない。
いずれ彼女と一緒になれば、すべて分かってしまう事なのだからな。
『弟は二人いました。一人は俺に内緒で、財産目的の為、叔母と養子縁組をしていたんです。おじいちゃんが俺に残した遺産を放棄させようと、俺の実印が必要だから送ってくれとか平気で嘘をつく人間なので、縁を切りましたね。 岩上21:26』

自分にとっての家族は、亡くなったおじいちゃんだけ……。
『父親はおじいちゃん亡くなってから、ようやく苦労が分かってきたようで変わっては来ましたね。だからたまに会った時、俺から父親へ小遣いあげたり、ご飯を買っていくぐらいの関係にはなりました。 岩上21:27』
俺は以前原稿用紙で六千枚以上執筆して途中頓挫した『鬼畜道~天使の羽を持つ子~』のURLを送る。
『当時の事は、小説の作品として書き残してあります。 岩上21:29』
ある意味この作品と新宿コンチェルトの内容が被り、百合子との間にできた子供を中絶するシーンを書こうとして、俺はその度吐いてしまった。
気付けば何度か執筆しようとしたものの、現在で十三年以上の月日が過ぎてしまう。
『たまに読み返すと当時の状況が蘇りますが、よく精神病んで頭がおかしくならなかったなあと思うくらいです。 岩上21:32』
あ、馬鹿!
こんなもの彼女に見せて引かれて、叔父まで撤退され、金取引が台無しになったらどうすんだよ……。
少しは物事を考えろって。
若香からLINEが届く。
正直開くのが怖い。
『イチローはこれでいいと思いますよ。そして自分の物語を小説に書く。自分が主人公になる。最後の結末は大喜びです。完璧です。 朱婧瑶21:34』
「……」
優しいんだな……。
隠し事という訳じゃないけど、赤裸々に晒そう。
この子なら信用できる。
『これまで何度もこんな人生終わりにしたいなあと思ったんですが、自分で自分の命絶てなかったんですよね。生きていく上で小説を書けたからこそ、俺は浄化できて生きていけたわけで。 岩上21:36』
俺が実際に死の淵まで近付いたのは、人生で二度。
インカジ『新宿クレッシェンド』で身銭が尽きた時。
右手の中指だけが異様に冷たくなり、身も心も絶望に包まれた。
ドアを開け、廊下へ出る。
十二階から下を見た。

結構高いよな……。
うん、もういいよ。
こんな人生なら、生きていたくない……。
ここから飛び降りれば……。
楽に死ねるだろう。
これ以上生きていても、うまく利用されるだけ。
目の前の塀に手を掛け、片足を掛けた。
ここから落ちれば……。
全身が震え、後ろへひっくり返る。
この俺が自殺か……。
何ビビってんだよ。
すべてに絶望したんだろ?
馬鹿な俺にはお似合いの末路さ。
本当にもういいよ、こんな人生……。
何度も地面を見つめる。
このまま塀を乗り越えれば人生が終わる。
分かっているのに何を躊躇している?
最後に酒を飲もう。
酔ってしまえば、そう恐怖心なんて無くなるはず。
俺は部屋に置いてあるグレンリベットのボトルを手に持ち、ラッパ飲みした。
しかし有路からの突然の電話。
そのあとの軌跡的な有馬記念の的中により、九死に一生を得た俺。

あの五十七万ぐらいいきなり降ってきた金は、まだ生きろと俺に言っているように見えた。
二度目はそれから約二年後の二千十六年。
今思い返しても忌々しい二俣川の戸田。
すっかり寒くなった二俣川。
十一月に入ったというのに出勤回数はたった一回。
これはもう死ねと言われているようなものだ。
給料が入るまでまだ数日ある。
昨日の土曜日にまた深夜西友へ行き、二百八十円の弁当を五つ買った。
そしてメンチカツとコロッケを二つずつ。
マヨネーズと中濃ソースも切れたので買う。
坂道を手で自転車を押しながら進む時、袋の重みや手に油が移る感覚がした。
二俣川の坂道は、じわりじわり人間の向上心を蝕んでいく。
残った全財産千三百九十円。
今の俺の価値。
最後に食べたのが安い弁当。
うん、腹一杯食べたぞ。
無機質な室内。
聞こえてくるのは小鳥の囀りと、冷蔵庫が鳴らす小さな機械音だけ。
寒さで毛布に包まり身体を丸くする。
布団から突き出た足が冷たいフローリングの床に触れた。
心の芯まで冷えるような感じがする。
横浜へ戻ってきていい事あったのかな?
矢田部のインカジじゃ虐げられて、十二時間一万円まで日払い下げられて……。
イワカミ工業を必死に死ぬ覚悟で頑張っていたのに、青野のせいで簡単に崩壊。
三田のインカジは一番マシに感じるけど、あんな一日四十四時間とか休み無しで働いていたら、身体おかしくするわ!
雅の乳首いじっただけで、もう俺は必要無しってか?
レオパレスもふざけんじゃねえよ!
何で退去料で二十五万九千円も掛かるんだよ。
それから続いて戸田の兵糧攻めかよ……。
去年の九月の終わりに来て、今は十一月初旬。
一年ちょっとで何故こんな目に遭わなきゃいけないんだ?
いい加減にしろよ!
疲れた。
本当に疲れた。
限界だ……。
鳥籠を見た。
この子たちを外へ離したら、自然界の中じゃ絶対に生きていけないよな。
だって俺が散々甘やかして育ててしまったのだから……。
マゲたちの餌と水を大量に与える。
籠の中に置けるだけ、紙コップへ水を汲んで置いていく。
マゲマロが一つの紙コップへ飛び込み水浴びを始める。
「駄目だよ! これはおまえたちの飲み水として置いたんだから」
もう一度汲み直す。
そして誰かがこの部屋を見た時すぐ分かるように、餌の入った大袋を鳥籠の前にそっと置いた。
「ごめんね、みんな……」
フラッとドアへ鍵も掛けずに外へ出る。
俺、そんな悪い事してきたのかな?
何でこんな苦しまなきゃならないんだ?
いつもいつも考えたつもりで選択しても、待っているのは地獄だけ。
どうせあとちょっとで入ってくる給料も、十万円切るんでしょ?
こんな生活に何の意味がある?
こんな事をしていて何の価値がある?
群馬の先生は以前俺に言った。
神様に選ばれたから、人より試練が多い?
じゃあ、今のこの働いているのに貧窮な生活も試練なのかよ?
前に俺言ったよな?
そんな試練なんていらないから、地味でも平穏無事がいいってさ……。
はは…、死ねって事かよ……。
四十五歳にもなって、毎日四十七円のコロッケかメンチ食って……。
ふざけんじゃねえよ!
気付けば俺は夢遊病者のようにただ歩き、保土ヶ谷バイパスの陸橋まで来ていた。

昼間なので交通量も多い。
ほとんどの車が制限時速を守らず飛ばしている。
高い位置にいるせいか排気ガスの匂いのする強い風が身体を吹き付けた。
もう疲れちゃった……。
レスラーは攻撃を避けちゃいけないって?
避けてないよ!
受け続けたよ!
壊れちゃいけないって?
それは腹一杯美味い飯を食ってさ、エネルギーを蓄えているから大丈夫だったんだよ。
もう無理だよ、こんな生活はさ……。
おじいちゃん、本当ごめんね。
俺さ…、岩上家の大いなる恥だよね。
何かね…、もう世の中の悪意に耐えられそうもないや……。
距離を詰めて塀へ近付く。
一段高いコンクリートの上へ足を乗せる。
「……」
ここから下へ飛び降りたら、楽に終われるかな……。
遠くからサイレンの音が聞こえた。
鉄柵の手すりは氷のように冷たく、微かな振動が掌から肘へ伝わる。
風と車の唸りが、骨の中で鳴った。
おじいちゃん……。
鶴田師匠……。
三沢さん……。
やっぱ俺にあなたたちの背中は遠過ぎました。
思い返すのもまた病みそうな保土ヶ谷バイパス。
一度は躊躇した。
でもあの時岡部さんから電話が掛かって来なかったら、俺はあの鉄柵を越えていたのだろうか?
結果無性に二十万を渡してくれた岡部さんのお陰で、俺は川越へ生還できたのだ。
あの時から八年も経ったのかよ……。
『でもね、こんなタイミングで若香さんと出会えてね、何だ俺にも幸せな事もって残ってたじゃん!と、今は明るく過ごせています。 岩上21:38』
『だから天は公平だと思います。 こんなに多くの苦痛と苦しみを受けた。最後の結末はいいです。若香もたくさん経験しました。しかし、イチローに出会っても、若香に対するイチローの真情が感じられた。 朱婧瑶21:42』
近くに居たら、思い切り抱き締めているぞ、おい。
『家族に裏切られ、変に正義感あるから判断基準を間違う事が多い。人を信用するから何度も騙されたけど、全部乗り越えて来たからこそ、今の自分があって。若香さんと出会って毎日色々な話して、どんどん惹かれます。現状は俺、とても満足しています。 岩上21:46』
心の底からそう思い、感謝を文字に捧げながら打った。

『だから経験して初めて大切にすることがわかりました。そして、多くの経験をしたからです。幸せになる必要がある時です。 朱婧瑶21:48』
彼女も元旦那の浮気でショックを受け、流産したという地獄を体験している。
お互い支え合ってこそ、人間は人になるんだ。
『若香さんありがとうございます。地獄のような中で、一筋の綺麗な花と光を見つけたような感覚でした。 岩上21:50』
何故かその花は、鮮やかな漆黒の入った赤色に感じた。
『それは地獄にいるな。なぜ若香に出会ってからあなたを人間に連れて帰ったのではないでしょうか。阿修羅の戦争はもう終わった。 朱婧瑶21:52』
下手糞な若香の日本語。
それでも俺を必死に慰めようとしてくれている。
『あとは笑顔で過ごせますね。 岩上21:53』
『これはもちろんです。若香がイチローにもたらすのは、生活への希望と未来への憧れである。 朱婧瑶21:54』
パンドラの箱が開かれ、最後に残っていたものは希望?
『希望と憧れですか。いい言葉ですね。 岩上21:55』
そうだ…、生きて生きて生き抜いて、またいつか物語を書く。
人間の証明を…、己の存在の証明を……。
人類の禁忌って、人を殺す事と自ら命を絶つ事。
かなり根源的な問い。
調べてみた。
多くの社会、宗教、倫理体系にかなり広く見られるのは、他者の生命を奪う事。
共同体の秩序を壊す事。
近親相姦など、血縁、生殖に関する禁忌。
死者や聖なるものを冒涜する事。
自ら命を絶つ事については、文化によって扱いがかなり違う。
自殺を強く禁じる文化もあれば、歴史上…、殉死、自決、名誉のための死などを一定の文脈で肯定した文化も。
ただこれは人間社会が最も強く禁忌化してきたものの一つが、生命を意図的に終わらせる事なのではないだろうか?
他人を殺すと自分を殺すでは、倫理的な構造が違う。
他者を殺す場合は他者の生命、自己決定を奪うという問題が。
一方、自殺では自分自身の生命を終わらせるという自己決定と、本人を取り巻く家族、そして社会との関係が衝突。
つまり人間は、生命を終わらせる行為そのものに、極めて強い意味を与えてきたのだ。
人類にとって生命を意図的に奪う事は、最も根源的な禁忌の一つなのではないか?
一つ疑問が湧く。
戦争が始まった国からすれば、巻き込まれた国の住民たちの命はどうしても軽くなってしまう。
そこに本人たちの願いも意思も無関係になるから。
普段なら人を殺してはいけないという禁忌が強く働くのに、戦争という制度が成立した瞬間、その禁忌に例外が作られる。
一部の自己都合な権力者たちのせいで。
戦争の恐ろしい部分。
はなっから人間の命は軽いと言っている訳ではないという事。
敵だから殺していい。
国家を守るためだから仕方ない。
軍人だから対象になる。
そのような別の論理を被せる事で、普段なら絶対に許されない行為を正当化してしまう事。
特に侵略された側の一般住民からすると、その瞬間に自分の命の価値がものすごく不条理な形で下がる。
自分自身は何もしていないのに、敵国の国民であるという属性だけで、殺される危険に晒されるわけだから。
だから考えてみると、戦争って単に人間が人間を殺す行為ではなく、人間社会が、殺人という最大級の禁忌を、集団と国家という仕組みによって一時的に解除してしまう現象とも捉えられるはず。
皮肉なのは、戦争を始める側の意思決定をする人間と、実際に死ぬ人間が一致しない事。
国家指導者が決断する。
軍隊が動く。
そして実際に死ぬのは、兵士や避難できない一般市民だったりする。
人類は生命を尊重するという倫理を作った。
しかし、国家という巨大な共同体を作った事で、その倫理を集団単位で反転させる事もできるようになったという矛盾。
顕著なのが、大勢の人間を死亡させる事のできる核兵器の所有。
何故人の命は尊いと言いながら、そんなものを各国が保有する必要性があるのか?
核兵器の特殊性は、単に人を殺せる兵器というだけじゃない。
人間が大量の人間を殺傷する能力を、国家が意図的に研究、製造、保有している。
しかも、その存在自体を相手への抑止力として利用している。
人を殺してはいけない。
だが、相手が攻撃してきた場合に備えて、相手を大量に殺せる兵器を持っておく。
大いなる自己都合。
大いなる矛盾。
つまり、殺人を禁忌とする倫理と、大量殺傷能力を持つ事が平和を守るという国家戦略が同居した状態。
さらに核兵器の場合、通常兵器以上に誰を殺すのかという問題が難しくなる。
核爆発は軍人だけを選んで殺すわけではない。
都市に使用されれば、そこにいる多数の民間人も巻き込まれる。
その為国際人道法では、民間人と軍事目標を区別する事、攻撃が比例性を満たす事などが重要な原則になっている。
だから核兵器について考えると、人間の命を守る為に、人間の命を大量に奪える能力を保持するという、人類史上かなり奇妙な構造。
使う為ではなく、使わせない為に持つといった論理で説明。
人間は殺人を禁忌にしたのに、なぜ集団、国家という単位になると、殺す能力そのものを安全保障の道具として制度化できるのか?
核兵器は、その矛盾を極端な形で可視化した存在である。
それとは別に全人類で、今こうしている間も、誰かしらが寿命や事故、病気で亡くなっている事実。
戦争や殺人は誰かが誰かの命を奪うという人為的な死だが、寿命による死は、誰かが命を奪っているわけではない。
それでも、世界中では今この瞬間にも誰かの人生が終わっている。
そして同時に、別の場所では誰かが生まれて、誰かが笑って、誰かが食事をして、誰かがこれから初めて何かを経験している。
つまり俺と若香がここで数分間話しているだけでも、人類全体では無数の生と死が同時進行している。
それを一人の人間から見ると、自分の人生はものすごく大きなものなのに、人類全体から見ると、一人の死は統計上の一件になってしまう。
統計上は一人の死でも、その人自身にとっては世界の終わりなのだ。
その人が見ていた景色も、覚えていた人も、経験したことも、本人の意識としてはその瞬間に全部終わる。
だからこそ人類全体から見れば、毎日大量の人間が死んでいると、一人の人間にとって、その人生は唯一無二である…、この二つは同時に成立してしまう。
俺は一体一人の人間の命を、人類全体という巨大な尺度の中でどう扱っているのか?
この思考ですら自己都合的な解釈に過ぎず、分かり易く言えば依怙贔屓なだけ。
俺自身の中で特別視している、ジャンボ鶴田師匠、三沢光晴さん、おじいちゃん、栗原名誉会長の十三日に亡くなった恩人たち。
盟友だった斉藤弘一も、税理士の大野和道さんも、ジミードーナツのマスターも、最近ではトンカツひろむのおじさんに、先輩の松永さん、そしてビストロ岡田のマスターと、ずっと引きずっている。
亡くなった者に対し、生きている側の人間が都合のいい意味を持たせているのだ。
古い記憶でいえば、ジャックポットの野原さんに、スガ人形の栄治さんの病気で亡くなってしまった長男。
意味合いを考えれば、いくらだって出てくる。
しかし人間の脳には記憶の限界があるのだ。
そしてそれらを思考する時間だけは、誰にでも平等に過ぎていく。
この部分こそが、人間の持つ本来の核によって、上辺だけで捉えている人間もいれば、心から尊重している人間もいるという図式になる。
これは昔から未来永劫。
だからこそ性善説と性悪説に枝分かれしたんじゃないのか?
人間の中にある生命や他者への態度、姿勢を、どこまで本質的に捉えているか。
だから同じ人を殺してはいけないという言葉でも、法律で禁止されているから殺さない、周囲から非難されるから殺さない、自分が殺されたくないから殺さない、そもそも他人の人生も自分と同じように一度しかないものだと感じているから殺せないといった具合に千差万別だ。
一方で人間の命は尊いと言葉では言いながら、自分の利益や所属集団の都合になった瞬間、他人の命を軽く扱える人間もいる。
これは古代でも現代でも、たぶん未来でも完全には消えない。
上辺と本質…、この差が人類の数だけ開いていくのだから。
だから性善説、性悪説というのも、そんな二種類のようなものでなく、人間という存在の中に、他者を尊重する方向と、自己利益の為に他者を踏みにじる方向の両方が存在するのだろう。
性善説は、人間に善性があると考えるからこそ、それを育てればよいという思想になるし、人間には欲望や悪性があると考えるからこそ、それを抑える仕組みが必要だという思想。
人間の本質をどう見るかから、社会をどう設計するかまで繋がっている。
つまり生命を心から尊重する人間に対し、生命尊重を言葉や制度としてしか扱わない人間も実在するからこそ、犯罪も無くならない。
戦争も、核兵器も、殺人も、差別も、逆に人命救助や福祉や医療も、突き詰めればこの問題に接続してしまう。
人間とは何か?
生命をどう扱うか?
善とは何か?
悪とは何か?
では社会をどう作るか?
深い思考をしながら思わず吹き出す。
裏稼業で働いている俺のどの辺が社会になる?
自分の事を棚に上げて物事をそれっぽく考えるのはやめろ。
醜いか醜くないかでいえば、俺は醜い側に所属しているのだから。
では以前誘われた市議会議員へ出馬すれば良かったのか?
答えはノーだ。
政治家を見ても地位だ何だ言う前に、無報酬でやる奴なんていない。
それで大抵崩れていくのは利権絡みによってが多い。
始め…、スローガンでは社会を良くしたい、国民の為に働きたい、この問題を変えたいと謳う。
何故なら受かりたいから。
純真な理念があったとしても、権力を持つと、金、地位、人脈、選挙、組織、支持者という別のインセンティブが発生。
この時問題は、自分の利益と公共の利益が衝突した時、果たしてその人間はどちらを選ぶのか?
ここが決定的な分かれ道になっていくのだろう。
人間には普通に、もっと欲しい、失いたくない、自分を守りたい、認められたいという欲求がある。
だからこそ制度として、利益相反を防いだり、政治資金を公開したり、権力を監視したりする仕組みが必要になってくるのだ。
これは性善説的に見れば、人間には公共のために行動できる善性がある。
だから、それを信頼して政治を行えるようにしよう。
性悪説的に見れば、人間には欲望がある。
ならば、善人であっても権力によって腐敗する可能性を前提に、監視と制度を置こう。
このように枝分かれしていく。
人間は善人だから大丈夫だけでも駄目。
人間は全員悪人だから信用できないでも社会は成立しない。
人間には善性も欲望もある。
だから善性は育て、欲望には歯止めを掛けるというところに現代社会の知恵があると思うが、こんな世知辛い世の中になって、本当にそんな知恵などあるのか?
生命を尊重する心も人間の核。
自分の利益を求める欲望も人間の核。
その二つが常にせめぎ合うが、後者を優先する人間が時代の進化と共に増えているような気がした。
自分もそうだったが、通常では持てない金額が目の前に飛び込んでくると、ほとんどの人間は狂い図に乗る。
ここが肝だが、金や地位、権力がいかに惑わし、自身を偉そうに添えてしまう傾向が人間には誰にでもある。
若香から叔父を紹介され、軌道に乗った俺。
果たしてこれから狂ったり、図に乗ったりしないという保障などない。
惑わしの循環は簡単だ。
欲しい、手に入れる、高揚する、自分が偉くなったと錯覚する、もっと欲しくなる、失うのが怖くなる、他人を犠牲にしてでも維持したくなる。
ほとんどがこういった欲に支配されてしまう。
だからこそ二世議員、二代目という言葉が生まれるのだ。
性善説は人間の良心を信じればいい。
性悪説は人間は欲望に負けるから信用するな。
しかし現実はそんな単純なものではなく、普段は善良な人間でも、環境、金、地位、権力によって変わり得てしまう。
重要なのは、俺は善人だから大丈夫ではなく、自分も条件が揃えば狂う可能性があると自覚できる事。
過去を振り返れ。
小説を書いてみよう。
それがいきなり文学賞を取り、本になりました。
総合格闘技からオファー。
本を出して四日後にリングの上で試合しまう。
マスコミが飛びつく。
俺は、あの時凄い冗長していたし、調子に乗っていた。
これって金では無いけど、仕組的な構造は同じだ。
金、地位、権力と同じ構造なのは、賞を取った、本になった、格闘技にも呼ばれた、マスコミまで来たという現実が短期間に重なり、実績そのものと自分は凄い人間だという自己認識が融合しやすくなってしまう。
ここで問題なのは、評価されたから自分は偉いに変換してしまった事なのだ。
名誉、賞賛、人気、肩書き、権力、金、注目…、すべて人間に与えられる外部からの報酬という意味では同じ構造を持っている。
人間は悪だから欲望に負けるのではない。
善良な人間であっても、突然大きな報酬を与えられれば、自分を特別視し始める可能性がある。
だから性善説・性悪説だけでは説明しきれない。
人間には善も欲望もあり、環境によってどちらが前面に出るかが変わる。
あれ?
俺、さっきも似たような事考えていなかったか?
そもそも人間とは何なんだ?
生き抜いて、またいつか物語を書く。
人間の証明を…、己の存在の証明を……。
若香に格好つけようと、ここから始まったのだ。
人間の証明か。
今の俺がせいぜい頭に蘇るのは、子供の頃、実家の目の前にあった映画館ホームラン劇場に放映されたのを観て、「ママ、あの麦わら帽子、どこ行ったんでしょうかね?」とまだお袋に虐待される前、ずっと真似していたのを思い出す程度。
映画の内容なんて幼いからまったく覚えていない。
あの頃の自分にとっての人間の証明は、麦わら帽子であり、ジョー山中が唄う歌だった。
あの映画を無性に調べてみたくなった。
千九百七十七年の『人間の証明』は、角川映画の第二弾。
森村誠一の原作を映画化した作品で、松田優作、岡田茉莉子、ジョー山中らが出演していた。
「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね?」という西條八十の詩の一節。
人間とは何なのか?
善なのか、悪なのか。
欲望に負ける存在なのか。
他者の生命を尊重できる存在なのか。
犯罪を犯す存在なのか。
それを律する法律を作る存在なのか。
あ、もうちょっとで出勤する時間じゃん……。
若香、ごめんよ。
まだ今の俺の頭じゃ、小説書けそうもないや。
金貯まって、余裕ができるまでもうちょっと待っててくれよな。
『若香さん、そろそろ支度して仕事行く準備しますね 岩上21:58』
『お疲れ様でした。イチローさん。お弁当を持って行くのを覚えています。そして傘を持って。外はまだ雨が降っている。もっと服を着てね。 朱婧瑶22:02』
まるで子供を心配するお母さんだな。
ベランダでタバコを吸いながら思わず苦笑する。
『若香さんは友人との食事終わったんですか? 楽しいひと時を邪魔する形になってしまい、すみませんでした。ちゃんと弁当と傘は持っていきますね。 岩上22:04』
『「若香」はもう家に帰ったよ。お風呂に入るつもりです。 朱婧瑶22:30』
インカジ『レディ』へ出勤すると、今日は何気に忙しい。
こりゃあ彼女へ返事している暇ないぞ。
合間を見て寝ているだろう彼女へ連絡を入れた。
『ゆっくり浸かって癒やして下さいね。おやすみなさい。 岩上23:23』
すると十分もしないで返信が届く。
『「若香」はもう横になっていますね。明日会社に行きます。おやすみイチロー。いい夢だ。 朱婧瑶23:32』
『おやすみなさい。いい夢を。 岩上23:51』
間違っても高いところから飛び降りる悪夢なんて、見ちゃ駄目だからね。
ふと口元がニヤける。
「あれ、岩上さん、ニヤニヤしてどうしたんですか?」
佐藤ボンズが意地悪そうな表情で質問してきた。
「うっせーよ! おまえは黙って仕事に集中してろって」
乱暴に口を開くと、セブンスターに火をつけて、大きく煙を吐き出した。

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