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掌編『いい子に育ったよ』

 毎週金曜日は掌編をアップしています。
今回は、受験生応援シリーズの完結編です。

 第一作(共通テスト編)はこちら。
掌編「用意周到な友人」|切手ゆうひ

 第二作(二次試験編)はこちら
掌編『こんなこともあろうかと』|切手ゆうひ


 朝の空気は、思っていたより冷たかった。
台所の窓を少し開けたままにしていたせいだろう。
沙織は、指先をこすり合わせながら弁当箱のフタを閉めた。

 卵焼きは少し焦げた。
ウインナーは、いつもより一本多い。
「今日は共通テストだから」と、特別なことをするつもりはなかった。
ただ、気づけばそうしていた。

 部屋の方から、布団をこする音がした。
悠真が起きたらしい。
「起きてる? そろそろご飯食べなさいよ」
 声は、いつも通りを装った。

 “がんばれ”と言わないのは、この家の決まりみたいなものだ。
言ったところで、あの子の緊張が軽くなるわけじゃない。
むしろ、重くしてしまう気がして。

 悠真が食パンをかじりながら、受験票を確認している。
その横顔は、いつの間にか大人びていた。
でも、眉間に寄った小さな皺を見ると、
まだ子どもだ、と沙織は思った。

「寒いから、カイロ入れといたからね」

弁当箱を差し出すと、悠真は「うん」とだけ返した。
その短い返事に、少しだけ安心する。

 玄関で靴を履く音がして、
「行ってきます」
と声が飛んできた。
「気をつけてね」

台所から顔を出して返す。
その瞬間だけは、どうしても笑顔になる。
笑顔で送り出すことだけは、決めていた。

 夕方、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
声は、思ったより軽かった。

沙織は台所から顔を出し、笑顔で迎える。
「おかえり。どうだった?」
「まあ……普通」
その言い方は、悪くなかったときのものだ。
沙織は胸の奥でそっと安堵した。

「そっか。お腹すいたでしょ。すぐ作るからね」
そう言って、まな板の上の人参に手を伸ばしたときだった。

「あ、そういえばさ」
「ん?」
「今日、弁当……箸、入ってなかったよ」

 包丁の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
でも、止まったことが悟られないように、すぐに動かす。
「え? 本当に? あら、ごめん。忘れちゃった?」
「うん。でも、友達が貸してくれたから大丈夫だったよ」
「そう。よかったじゃない。優しい子ね」
「うん。助かった」

 悠真はそれ以上気にする様子もなく、階段を上がっていった。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、沙織は包丁を置いた。
静かに息を吐く。
胸の奥が、じんと熱くなる。
(今日だけは……完璧にしてあげたかったのに)
朝の台所がふっとよみがえる。

 焦げた卵焼きに気を取られ、ウインナーの数を直し、
飲み物を替えて、カイロを入れて――

 そのどれより大事な箸を、置き忘れた。
弁当箱の横にぽつんと残っていた箸袋が、
今になって胸に刺さる。

(なんで、こんな日に限って)

自分を責める気持ちが、じわりと広がる。
でも、泣くほどのことじゃない。
 あの子はちゃんと乗り越えた。
友達に借りて、笑って帰ってきた。
それで十分だ。

 十分なはずなのに――胸の奥の痛みは消えない。
沙織は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
夕飯を作らなければいけない。

 あの子が降りてくる頃には、いつもの母親でいなければ。
包丁を握り直す。
人参のオレンジ色が、少し滲んで見えた。

 共通テストが終わってからの一ヶ月は、息をつく暇もなかった。
自己採点の数字を見た夜、沙織は胸をなでおろした。

(……よかった。予定通り、出せる)

 国公立の出願は、悠真が考えていた大学に決まった。
その事実だけで、肩の力が少し抜けた。

 けれど、そこからが本番だった。
 朝は弁当を作り、洗濯物を干し、仕事へ向かう。
帰ってきたら夕飯の支度、洗い物、明日の準備。

 その合間に、悠真は私立の一般入試へ出かけていく。

(……自分のときより、しんどい)

 ふと、そう思う瞬間があった。
 自分の受験のときは、怖くても、結局は自分の問題だった。
 でも今は違う。息子の未来がかかっている。

 自分ではどうにもできないのに、気持ちだけが先に走ってしまう。
それでも、悠真の前では“いつも通り”を貫いた。

「どうだった?」
「まあ……普通」
「そっか。お疲れさま。ご飯、温めるね」

 それ以上、深く聞かない。
 聞けば、あの子が気を遣う。寄り添うだけにする。

 私立の合否が出る日。
夕飯の片づけを終えたあと、悠真がスマホを持ってリビングに来た。
「……一緒に見てもいい?」
その言葉に、沙織は胸がきゅっと縮んだ。
でも、表情には出さない。
「もちろん。座りなさい」

ソファに並んで座る。
スマホの画面が、やけに明るく見えた。
一校目。

ログインして、結果を開く。

――合格。

「……やったじゃない」
声は落ち着いていたが、胸の奥は熱くなっていた。
悠真は照れたように笑い、息をついた。
「よかった……」
「うん。よかったね」

沙織は、そっと背中を撫でた。
それだけで十分だった。

 二校目。
画面を開く指先が、わずかに震えているのが分かった。
結果が表示された瞬間、
悠真の肩が、ほんの少しだけ落ちた。

――不合格。

「……そっか」
 沙織は、すぐに言葉を選んだ。
「大丈夫。受かるところに受かればいいのよ。
それに、第一志望はこれからでしょ」

「うん……」

 悠真は無理に笑おうとはしなかった。
その素直さが、逆に胸に刺さる。

(……しんどいな)

 息子の肩が落ちるのを見るのが、こんなに苦しいとは思わなかった。
でも、プレッシャーだけは絶対にかけたくない。

「今日はもう休みなさい。明日もあるんだから」
「うん。ありがとう」

 悠真が部屋へ戻る。
階段を上がる足音が遠ざかる。
その音が消えた瞬間、沙織は深く息を吐いた。

(……大丈夫。あの子は大丈夫)

 そう言い聞かせながら、テーブルの上のコップを片づけた。
手が、少しだけ震えていた。

 まだ外は薄暗いのに、台所だけがぽつんと明るかった。
時計を見ると、いつもより十五分早い。
目覚ましより先に目が覚めてしまった。

 二月二十五日。二次試験の朝。
(……今日で、ひと区切り)

 そう思うと、胸の奥がじんと熱くなる。

冷蔵庫を開け、卵を取り出す。
フライパンに油をひきながら、ふと気づく。

(お弁当を作るの、これが最後かもしれない)

 学校はもうない。
 悠真が弁当を持っていくのは、受験の日だけだ。
今日の試験が終われば、もう作る機会はないかもしれない。
そう思った瞬間、手が止まった。

 卵焼きの黄色が、やけにまぶしく見えた。

――共通テストの日のことがよみがえる。

 箸を入れ忘れた朝。
帰ってきた悠真が「友達が貸してくれた」と笑ったとき、
胸の奥がきゅっと痛んだ。

(今日は……忘れない)
そう決めて、弁当箱の横に箸を置く。

 その横に、割りばしを一本。
そして、小さな付箋を取り出す。
ペンを握る手が、少しだけ震えた。

「――タイムスリップしてきました。」

 書いてみて、思わず小さく笑った。
こんなことを書く年齢でもないのに。

 でも、あの子が気づいて笑ってくれたら、それでいい。
付箋を割りばしに貼り、そっと弁当箱に添える。

 そのとき、階段を下りる足音がした。
「……おはよう」
眠そうな声。

 でも、その声を聞くだけで、胸の奥がふっと軽くなる。
「おはよう。ご飯、そこに置いてるからね」
 悠真は食パンをかじりながら、受験票を確認している。
その姿が、もうすっかり大人に見えた。
「弁当、ここに置いとくね。カイロも入れてるから」
「うん。ありがとう」

 短い返事。
でも、その“ありがとう”が、沙織には十分だった。
玄関で靴を履く音がして、

「行ってきます」
と声が飛んでくる。
「気をつけてね」
いつものように笑って送り出す。

 ドアが閉まる。家の中が静かになる。
その静けさの中で、沙織はゆっくり息を吐いた。

(……大丈夫。あの子は大丈夫)

 そう言い聞かせながら、弁当箱の置かれていた台をそっと撫でた。
今日の弁当が、あの子の背中を少しでも押せますように。
祈るような気持ちで、台所の電気を消した。

夕方の玄関が開く音は、朝よりも軽かった。
靴を脱ぐ気配がした。

「ただいま」

 その声の明るさに、沙織は胸の奥でそっと息をついた。
台所で夕飯の準備をしていた手を止め、顔を出す。

「おかえり。どうだった?」
「うん……まあ、やれることはやった」
 沙織は微笑んだ。
「そっか。お疲れさま。手、洗っておいで」

 悠真が洗面所へ向かう。
その背中が、朝より少しだけ大きく見えた。

 しばらくして、リビングに戻ってきた悠真が、
弁当箱をテーブルに置いた。
「今日さ……」
言いにくそうに、でもどこか照れたように。
「弁当、ありがとう。付箋……見たよ」
沙織の手が、ほんの少しだけ止まった。
でも、すぐに笑顔を作る。

「あら、気づいた? ちょっとふざけてみただけよ」
「うん。なんか……ちょっと落ち着いた」
 その言葉だけで、胸の奥がじんと温かくなる。
「それでさ」
悠真は、弁当箱のフタを開けながら続けた。
「隣の席の女子が、箸忘れててさ。
 割りばし、あげた」

沙織は、思わず息をのんだ。

「……そうなの?」

「うん。なんか、前の俺みたいでさ。
困ってるの見たら、ほっとけなくて」

 その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
悠真は照れたように顔をそむける。その仕草が、愛おしかった。

 そして、ふいに。

「……今まで、お弁当ありがとう」

 その一言が、沙織の胸に深く落ちた。
涙がこぼれそうになる。でも、見せるわけにはいかない。

「なによ、急に。どんな女の子だったの、その子?」
「いや、そういうんじゃないって!」

 慌てる悠真を見て、沙織は笑った。
涙は、笑い声に紛れて消えていった。

 夕飯の匂いが、ゆっくりと部屋に広がる。
その中で、沙織は静かに思った。

(……あの子は、ちゃんと育ってる)

 それだけで、胸の奥にずっと溜まっていたものが
ふっと軽くなった。

 合格発表の日は、朝から落ち着かなかった。
有給休暇を取っておいて正解だった。どうせ仕事にならない。
パソコンの数字が頭に入らないのは目に見えていた。

 家の中は静かだった。学校はもうない。
受験が終わった今、悠真は自室でゆっくりしている。
沙織は、掃除機をかけては止め、洗濯物を畳んでは手が止まり、
何度も時計を見た。

(落ち着きなさいってば……)
自分に言い聞かせても、胸のざわつきは消えない。

 ふと、台所の窓から差し込む光を見つめる。

(……いい子に育ったよ)
(あなたがいなくても、大丈夫だったよ)
(聞こえないだろうけどね)

 ただ、ここまでの年月を
そっと置いていくような気持ちだった。

 階段を下りる足音がした。
「……そろそろかなって」
悠真がスマホを持って立っていた。

 その顔は緊張しているのに、どこか覚悟がある。
「一緒に見てもいい?」
「もちろんよ」

 沙織はソファに座り、隣を軽く叩いた。
悠真が腰を下ろす。

 スマホの画面が、二人の間に明るく灯る。
ログインする指先が、わずかに震えている。
その震えが、沙織の胸にも伝わる。

(大丈夫。どんな結果でも、大丈夫よ)

 声には出さない。
出したら、あの子の肩に余計な重さを乗せてしまうから。
画面が切り替わる。

結果のページが、ゆっくりと読み込まれていく。
その瞬間、沙織は息を止めた。
でも、心の奥は不思議と静かだった。

(もう、この子は強い)

 どんな文字がそこに現れても、
この子は前に進める。
そう思えた。

 画面が、完全に切り替わる――。
沙織は、そっと息を吸った。

(大丈夫。受け止めるわよ。全部)

その覚悟だけが、静かに胸に満ちていた。


 以上です。
明日、創作メモをアップします。


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