掌編『いい子に育ったよ』
毎週金曜日は掌編をアップしています。
今回は、受験生応援シリーズの完結編です。
第一作(共通テスト編)はこちら。
掌編「用意周到な友人」|切手ゆうひ
第二作(二次試験編)はこちら
掌編『こんなこともあろうかと』|切手ゆうひ
1
朝の空気は、思っていたより冷たかった。
台所の窓を少し開けたままにしていたせいだろう。
沙織は、指先をこすり合わせながら弁当箱のフタを閉めた。
卵焼きは少し焦げた。
ウインナーは、いつもより一本多い。
「今日は共通テストだから」と、特別なことをするつもりはなかった。
ただ、気づけばそうしていた。
部屋の方から、布団をこする音がした。
悠真が起きたらしい。
「起きてる? そろそろご飯食べなさいよ」
声は、いつも通りを装った。
“がんばれ”と言わないのは、この家の決まりみたいなものだ。
言ったところで、あの子の緊張が軽くなるわけじゃない。
むしろ、重くしてしまう気がして。
悠真が食パンをかじりながら、受験票を確認している。
その横顔は、いつの間にか大人びていた。
でも、眉間に寄った小さな皺を見ると、
まだ子どもだ、と沙織は思った。
「寒いから、カイロ入れといたからね」
弁当箱を差し出すと、悠真は「うん」とだけ返した。
その短い返事に、少しだけ安心する。
玄関で靴を履く音がして、
「行ってきます」
と声が飛んできた。
「気をつけてね」
台所から顔を出して返す。
その瞬間だけは、どうしても笑顔になる。
笑顔で送り出すことだけは、決めていた。
*
夕方、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
声は、思ったより軽かった。
沙織は台所から顔を出し、笑顔で迎える。
「おかえり。どうだった?」
「まあ……普通」
その言い方は、悪くなかったときのものだ。
沙織は胸の奥でそっと安堵した。
「そっか。お腹すいたでしょ。すぐ作るからね」
そう言って、まな板の上の人参に手を伸ばしたときだった。
「あ、そういえばさ」
「ん?」
「今日、弁当……箸、入ってなかったよ」
包丁の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
でも、止まったことが悟られないように、すぐに動かす。
「え? 本当に? あら、ごめん。忘れちゃった?」
「うん。でも、友達が貸してくれたから大丈夫だったよ」
「そう。よかったじゃない。優しい子ね」
「うん。助かった」
悠真はそれ以上気にする様子もなく、階段を上がっていった。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、沙織は包丁を置いた。
静かに息を吐く。
胸の奥が、じんと熱くなる。
(今日だけは……完璧にしてあげたかったのに)
朝の台所がふっとよみがえる。
焦げた卵焼きに気を取られ、ウインナーの数を直し、
飲み物を替えて、カイロを入れて――
そのどれより大事な箸を、置き忘れた。
弁当箱の横にぽつんと残っていた箸袋が、
今になって胸に刺さる。
(なんで、こんな日に限って)
自分を責める気持ちが、じわりと広がる。
でも、泣くほどのことじゃない。
あの子はちゃんと乗り越えた。
友達に借りて、笑って帰ってきた。
それで十分だ。
十分なはずなのに――胸の奥の痛みは消えない。
沙織は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
夕飯を作らなければいけない。
あの子が降りてくる頃には、いつもの母親でいなければ。
包丁を握り直す。
人参のオレンジ色が、少し滲んで見えた。
2
共通テストが終わってからの一ヶ月は、息をつく暇もなかった。
自己採点の数字を見た夜、沙織は胸をなでおろした。
(……よかった。予定通り、出せる)
国公立の出願は、悠真が考えていた大学に決まった。
その事実だけで、肩の力が少し抜けた。
けれど、そこからが本番だった。
朝は弁当を作り、洗濯物を干し、仕事へ向かう。
帰ってきたら夕飯の支度、洗い物、明日の準備。
その合間に、悠真は私立の一般入試へ出かけていく。
(……自分のときより、しんどい)
ふと、そう思う瞬間があった。
自分の受験のときは、怖くても、結局は自分の問題だった。
でも今は違う。息子の未来がかかっている。
自分ではどうにもできないのに、気持ちだけが先に走ってしまう。
それでも、悠真の前では“いつも通り”を貫いた。
「どうだった?」
「まあ……普通」
「そっか。お疲れさま。ご飯、温めるね」
それ以上、深く聞かない。
聞けば、あの子が気を遣う。寄り添うだけにする。
*
私立の合否が出る日。
夕飯の片づけを終えたあと、悠真がスマホを持ってリビングに来た。
「……一緒に見てもいい?」
その言葉に、沙織は胸がきゅっと縮んだ。
でも、表情には出さない。
「もちろん。座りなさい」
ソファに並んで座る。
スマホの画面が、やけに明るく見えた。
一校目。
ログインして、結果を開く。
――合格。
「……やったじゃない」
声は落ち着いていたが、胸の奥は熱くなっていた。
悠真は照れたように笑い、息をついた。
「よかった……」
「うん。よかったね」
沙織は、そっと背中を撫でた。
それだけで十分だった。
*
二校目。
画面を開く指先が、わずかに震えているのが分かった。
結果が表示された瞬間、
悠真の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
――不合格。
「……そっか」
沙織は、すぐに言葉を選んだ。
「大丈夫。受かるところに受かればいいのよ。
それに、第一志望はこれからでしょ」
「うん……」
悠真は無理に笑おうとはしなかった。
その素直さが、逆に胸に刺さる。
(……しんどいな)
息子の肩が落ちるのを見るのが、こんなに苦しいとは思わなかった。
でも、プレッシャーだけは絶対にかけたくない。
「今日はもう休みなさい。明日もあるんだから」
「うん。ありがとう」
悠真が部屋へ戻る。
階段を上がる足音が遠ざかる。
その音が消えた瞬間、沙織は深く息を吐いた。
(……大丈夫。あの子は大丈夫)
そう言い聞かせながら、テーブルの上のコップを片づけた。
手が、少しだけ震えていた。
3
まだ外は薄暗いのに、台所だけがぽつんと明るかった。
時計を見ると、いつもより十五分早い。
目覚ましより先に目が覚めてしまった。
二月二十五日。二次試験の朝。
(……今日で、ひと区切り)
そう思うと、胸の奥がじんと熱くなる。
冷蔵庫を開け、卵を取り出す。
フライパンに油をひきながら、ふと気づく。
(お弁当を作るの、これが最後かもしれない)
学校はもうない。
悠真が弁当を持っていくのは、受験の日だけだ。
今日の試験が終われば、もう作る機会はないかもしれない。
そう思った瞬間、手が止まった。
卵焼きの黄色が、やけにまぶしく見えた。
――共通テストの日のことがよみがえる。
箸を入れ忘れた朝。
帰ってきた悠真が「友達が貸してくれた」と笑ったとき、
胸の奥がきゅっと痛んだ。
(今日は……忘れない)
そう決めて、弁当箱の横に箸を置く。
その横に、割りばしを一本。
そして、小さな付箋を取り出す。
ペンを握る手が、少しだけ震えた。
「――タイムスリップしてきました。」
書いてみて、思わず小さく笑った。
こんなことを書く年齢でもないのに。
でも、あの子が気づいて笑ってくれたら、それでいい。
付箋を割りばしに貼り、そっと弁当箱に添える。
そのとき、階段を下りる足音がした。
「……おはよう」
眠そうな声。
でも、その声を聞くだけで、胸の奥がふっと軽くなる。
「おはよう。ご飯、そこに置いてるからね」
悠真は食パンをかじりながら、受験票を確認している。
その姿が、もうすっかり大人に見えた。
「弁当、ここに置いとくね。カイロも入れてるから」
「うん。ありがとう」
短い返事。
でも、その“ありがとう”が、沙織には十分だった。
玄関で靴を履く音がして、
「行ってきます」
と声が飛んでくる。
「気をつけてね」
いつものように笑って送り出す。
ドアが閉まる。家の中が静かになる。
その静けさの中で、沙織はゆっくり息を吐いた。
(……大丈夫。あの子は大丈夫)
そう言い聞かせながら、弁当箱の置かれていた台をそっと撫でた。
今日の弁当が、あの子の背中を少しでも押せますように。
祈るような気持ちで、台所の電気を消した。
4
夕方の玄関が開く音は、朝よりも軽かった。
靴を脱ぐ気配がした。
「ただいま」
その声の明るさに、沙織は胸の奥でそっと息をついた。
台所で夕飯の準備をしていた手を止め、顔を出す。
「おかえり。どうだった?」
「うん……まあ、やれることはやった」
沙織は微笑んだ。
「そっか。お疲れさま。手、洗っておいで」
悠真が洗面所へ向かう。
その背中が、朝より少しだけ大きく見えた。
しばらくして、リビングに戻ってきた悠真が、
弁当箱をテーブルに置いた。
「今日さ……」
言いにくそうに、でもどこか照れたように。
「弁当、ありがとう。付箋……見たよ」
沙織の手が、ほんの少しだけ止まった。
でも、すぐに笑顔を作る。
「あら、気づいた? ちょっとふざけてみただけよ」
「うん。なんか……ちょっと落ち着いた」
その言葉だけで、胸の奥がじんと温かくなる。
「それでさ」
悠真は、弁当箱のフタを開けながら続けた。
「隣の席の女子が、箸忘れててさ。
割りばし、あげた」
沙織は、思わず息をのんだ。
「……そうなの?」
「うん。なんか、前の俺みたいでさ。
困ってるの見たら、ほっとけなくて」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
悠真は照れたように顔をそむける。その仕草が、愛おしかった。
そして、ふいに。
「……今まで、お弁当ありがとう」
その一言が、沙織の胸に深く落ちた。
涙がこぼれそうになる。でも、見せるわけにはいかない。
「なによ、急に。どんな女の子だったの、その子?」
「いや、そういうんじゃないって!」
慌てる悠真を見て、沙織は笑った。
涙は、笑い声に紛れて消えていった。
夕飯の匂いが、ゆっくりと部屋に広がる。
その中で、沙織は静かに思った。
(……あの子は、ちゃんと育ってる)
それだけで、胸の奥にずっと溜まっていたものが
ふっと軽くなった。
5
合格発表の日は、朝から落ち着かなかった。
有給休暇を取っておいて正解だった。どうせ仕事にならない。
パソコンの数字が頭に入らないのは目に見えていた。
家の中は静かだった。学校はもうない。
受験が終わった今、悠真は自室でゆっくりしている。
沙織は、掃除機をかけては止め、洗濯物を畳んでは手が止まり、
何度も時計を見た。
(落ち着きなさいってば……)
自分に言い聞かせても、胸のざわつきは消えない。
ふと、台所の窓から差し込む光を見つめる。
(……いい子に育ったよ)
(あなたがいなくても、大丈夫だったよ)
(聞こえないだろうけどね)
ただ、ここまでの年月を
そっと置いていくような気持ちだった。
階段を下りる足音がした。
「……そろそろかなって」
悠真がスマホを持って立っていた。
その顔は緊張しているのに、どこか覚悟がある。
「一緒に見てもいい?」
「もちろんよ」
沙織はソファに座り、隣を軽く叩いた。
悠真が腰を下ろす。
スマホの画面が、二人の間に明るく灯る。
ログインする指先が、わずかに震えている。
その震えが、沙織の胸にも伝わる。
(大丈夫。どんな結果でも、大丈夫よ)
声には出さない。
出したら、あの子の肩に余計な重さを乗せてしまうから。
画面が切り替わる。
結果のページが、ゆっくりと読み込まれていく。
その瞬間、沙織は息を止めた。
でも、心の奥は不思議と静かだった。
(もう、この子は強い)
どんな文字がそこに現れても、
この子は前に進める。
そう思えた。
画面が、完全に切り替わる――。
沙織は、そっと息を吸った。
(大丈夫。受け止めるわよ。全部)
その覚悟だけが、静かに胸に満ちていた。
以上です。
明日、創作メモをアップします。
