『さよならの向こう側』第23回(最終回)さよならの向こう側 #創作大賞2025 #恋愛小説部門
今回が最終話です。これまでのご愛読ありがとうございました。
ここから読み始めた方へ、登場人物とあらすじの紹介はこちら。
蝉の声が止んだあとに残る、深く澄んだ静けさ。
八月の終わり、涼本家の小さなリビングは、いつものようにゆったりとした時間を刻んでいた。
キッチンからカレーの匂いが漂う。
孝輔がエプロン姿でルーを煮込みながら、振り返って晴美に声をかけた。
「明日から新学期だな。宿題、終わってるか?」
ソファに寝そべった晴美は、ごろりと仰向けになりながら、
「……たぶん」と答えた。
「たぶんってなんだよ。おまえ、自由研究どうした」
「“曲をつくりました”って書いた」
「まさか、コンクールの曲か?」
「うん。“お父さんのカレーのにおいをきいて作りました”って」
孝輔は吹き出して、ルーをかき混ぜる手を止めた。
「香りを“きく”のかよ……まあ、いいか。国語力はなかなかだね」
ふたりの笑い声が重なる。夏休みの終わりにふさわしい、ささやかな夕暮れ。
そのとき——
「ピンポーン」
玄関チャイムの音が、リビングに響く。
晴美が「アスカでしょ、アスカ」と言いながら玄関に向かい、ドアを開ける。
ラフなワンピース姿に、手には紙袋と小さなブーケ。表情はどこか、かすかに緊張している。
「あ……あの……こんにちは」
「こんにちゎ、アスカ…マ⋯」
晴美はきまり悪そうに笑い顔を作る。
「これ、たいしたものじゃないけど……食後にどうかなって」
差し出された袋には、老舗パーラーのフルーツゼリー。
ブーケには、薄紫のトルコキキョウと黄色いスターチス——どちらも「希望」や「変わらぬ想い」を象徴する花だった。
孝輔がやってきて、思わずにっこりする。
「いつもカレーで悪いけど、
時間あるなら、食べていってよ」
明日香が遠慮がちに「でも……」と目を泳がせると、晴美がぼそりと口を開いた。
「……わたし、ちょっと飽きてるんだ。お父さん、最近カレーばっかりだから」
その言葉に、明日香は目を瞬かせた。
「そうなんだ……」
「だから、食べてもいいよ。協力してよ」
言い終えてすぐ、晴美は踵を返してリビングに戻る。
明日香はぽかんとしながら、ほんの少し口元を緩めた。
孝輔が目配せする。
「ほら、遠慮しないで」
*
食卓に並ぶカレーの皿。湯気の向こうに、三人の影が揃っていた。
会話はまだぎこちない。けれど、晴美がふと「明日、学校の全校集会で“おかあさん”を弾くことになってさあ」と話し出す。
「だるいなあ……そういうの」
そのつぶやきに、明日香がそっと答える。
「あなたなら大丈夫。あの音は、きっと、みんなの心に届くから」
晴美は何も言わず、カレーをひと口運んだ。
それから、ごく自然にこう言った。
「……おかわりしてもいい?」
「もちろん!」
孝輔と明日香が同時に返し、目が合って笑い合う。
その笑顔に、わずかに晴美も口元を緩めた。
*
その夜——
帰り際、玄関で靴を履く明日香に、晴美が小さく声をかける。
「フルーツゼリー、おいしかったよ。
持ってくるなら、今度はメロンゼリーいっぱい持ってきてよね、
アスカ⋯ママ。」
それは、彼女なりの“さよならの向こう側”にある、小さな「またね」だった。
明日香は目に涙を浮かべながら、でも笑ってうなずく。
「わかった。メロンゼリーだね。
たくさん、たくさん持ってくるね」
夏の終わりの風が吹き抜ける玄関先。
ひとつの季節が、静かに幕を下ろす。
——そして、また別の季節が、始まっていた。
※このお話はフィクションです。登場するお店のメニュー、営業時間などは事実と異なる場合があります。
【お礼の言葉】
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
「あとがき」のかわりに、筆者へのインタビュー形式の記事をご用意しています。
小説の背景や裏話などを盛り込みましたので、
お時間が許すようなら楽しんでもらえたら幸いです。
【あらすじと登場人物紹介】
【この連載のマガジン】
【はじめましての方へ】
