『さよならの向こう側』第14回 揺れるまなざし(明日香視点)#創作大賞2025 #恋愛小説部門
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平日の午後。
涼しげな風鈴の音が小さく届いてくる。小さな駅ビルの2階にあるカフェは、仕事中の会社員や学生たちでほどよく埋まっている。
わたしは隅の席でノートPCを開き、資料を何度も直していた。
画面には、英語で作られたスライドのタイトルと本文。
プレゼンの構成を何度も組み直しては、推敲を繰り返してきた。
「ん……ここは“strategic suggestion”の方がしっくりくるかな……」
唇の裏側で小さくつぶやく。
となりに置いたA4ノートには、手書きの図や単語のメモがびっしりと並んでいた。そのページの端には、少し前に職場の後輩・岸田が書き込んでくれたコメントがある。
「“straightforward”は、相手に“単純すぎる”印象。ニュアンス注意!」
あのあと、外資系出身の彼に思いきって資料を見せた。バカにされたらいやだなって、はじめは気後れしていたけれど、返ってきたフィードバックは的確だった。
「……成長してるじゃないですか、明日香さん。
最初の資料とは別物です」
にっこりと親指を出されたとき、自分でもほんの少しだけ胸を張りたくなった。もしかすると、自分は変われているのかもしれない。そんな予感がしたのだった。
まだ空が明るいうちにカフェを出ると、海からの風が髪を揺らした。
ノートPCの重みが肩にかかる。手にはコンビニで買ったボトルのお茶。
イヤフォンをつけようとしたとき、ふと足が止まった。
目の前の歩道橋。
通勤電車に揺られていたあの頃、よくこの上で立ち止まっていた。
スマホの単語帳アプリを見ながら、英文を小さく口にして。
舌がついていかずに溜め息をついて、まわりにチラッと見られて、また黙り込む。
何度やっても覚えられなかった“resilience”という単語。
「回復力」……自分にもっとも縁遠いものだと、当時は感じていた。
あのときの自分と、いまの自分。
何が変わって、何が同じなのか、うまく答えは出ない。
けれど、人生をちゃんと歩いている気がする。それだけは確かだった。
手に持ったペットボトルのお茶をひと口だけ飲み、
わたしはふうっと息を吐いた。
「これがやり通せたら、わたしを見る目も変わるかな…」
それは誰に言うためでもない、ただのひとり言だった。
でもその声に、誰かの目が気づいた気がした。
道の反対側で、視線をそらすひとつの影——
翌朝、職場の会議室。
明日香は同僚の岸田と一緒に、Keynoteの資料を何度も読み返していた。
「ここ、もう少し具体例があるといいんじゃないですかね。実績とか」
「なるほど……あとでセールス部に確認してみるね」
岸田はペンを走らせ、丁寧にコメントを入れてくれた。
自分の英語力と向き合いながらも、着実に資料をブラッシュアップしていく。
自分の成長を認めてくれる人がいる。それが、前に進む力になっていた。
夕暮れ時、帰り道。
明日香が足早に歩くと、背後から声がした。
「明日香さん……久しぶりだね」
振り返ると、そこには大野由紀夫が立っていた。
彼の表情は柔らかく、けれどどこか
距離を詰めようとする熱量が見えた。
「この間のことだけど……あの封筒、君のものじゃなかったのか?」
明日香はわずかに眉をひそめた。
「それは……」
由紀夫は割り込むように続けた。
「君は今、いろいろ背負いすぎている。
もしよければ、また僕のところに戻ってきてほしい。
生活は不自由させないよ。
君のお母さんが言っていた養子のことだって、検討したっていいんだ」
明日香は心の中でざわめいた。
あの頃のわたしが欲しかったもの。
由紀夫の理解。由紀夫の歩み寄り。由紀夫のやさしさ。
それを全部いま並べて、持ってこられても……
それに養子?
母の余計な差し金だろうか。
「なんか……もう、ちがうんだよ」
絡みついてくる思いを振りほどきたくて、頭を振ってそう答えた。
「あの頃どれだけわたしがそれを欲しかったか、あなたにはわからないでしょうね」
翌日、帰宅途中。
晴美のランドセル姿が見えた。彼女は少し無愛想に、でも確かに明日香を認めているようだった。
「昨日の封筒、ありがとう」
晴美はぎゅっとそれを抱きしめる。
明日香は心の中で静かに誓った。
「どんな答えでも、まずは目の前を大切にしよう」
ふと見上げた空には、夕焼けが揺れていた。
(つづく)
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※このお話はフィクションです。登場するお店のメニュー、営業時間などは事実と異なる場合があります。
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