『さよならの向こう側』第10回 由紀夫という男(孝輔視点)#創作大賞2025 #恋愛小説部門
晴美を寝かしつけた後、僕は食器を片付け、
ソファに沈み込むようにしてスマホを手に取った。
数件の通知のなかに、SNSの友達申請があった。
「大野由紀夫」という名前に、眉をひそめた。
見覚えのない名前だったが、どこか引っかかるものがある。
ふと、表示された名前に目が止まった。
「共通の知り合い:明日香さん」
心臓が一度、間延びしたように跳ねた。
それに加えて「大野」という姓。
明日香の旧姓と同じ――。
プロフィール写真には、ポーズをとる男の姿。
顔立ちは判然としないが、背後に映る高級車のシルエットが、やけに冷たく感じられた。
(元旦那か……何のために?)
躊躇いながらも、何かを知るべきなのではという気持ちが勝った。
「承認」ボタンを押して数分後、すぐにメッセージが届いた。
「夜分すみません。少しだけお話したいことがあるんです。
もしお時間があれば、都内で少しだけお会いできないでしょうか」
まるでこちらの反応を待ち構えていたかのような早さだった。
一瞬、身構えたが、断る理由が思いつかなかった。
晴美が塾で遅くなる日でないと、夜は家を空けられない。
「一週間後でも大丈夫ですか?」 とだけ返信し、スマホを伏せた。
一週間後。
都内のホテルラウンジ。落ち着いたジャズの流れる午後7時。
僕はアイスコーヒーを前に座っていた。
予約名を告げてすぐ、男が現れた。
大野由紀夫。
40代前半だろうか。 清潔なスーツに整えられた髪型――
だが、どこか神経質そうな目元と、話し慣れていない雰囲気があった。
「初めまして。急に申し訳ありません。……大野と申します」
形式的に右手を差し出してくるあたり、海外が長いのかもしれない。
「初めまして。……涼本です」
それだけ言って、席に着いた。
数秒の沈黙の後、
「……で、話っていうのは」
僕がストレートに切り出すと、大野は一瞬、口元を引き結び、それから意を決したように言った。
「本題に入ります。
あなたに、明日香のことを聞きたくて来ました」
穏やかに笑うその表情は、人懐っこくもあり、どこか演技がかったものにも感じられた。
「明日香が、最近元気がないって共通の友人から聞いて……気になってたんです」
「共通の友人、ですか」
「まぁ、彼女と僕の関係をご存じなら、驚かれないかもしれませんけど……
実は、前の夫なんです」
僕は眉をほんのわずか動かした。
「彼女とはもう何年も前に別れてます。
原因は……まぁ、不妊治療のこともありましたが、
僕が途中で向き合えなくなって。
逃げたんです、ははは」
言葉の端々に、妙な自己弁護が混じっていた。
自分のことなのに、他人の記録を淡々と読み上げるような話し方だった。
「それで……僕に何を?」
大野はしばらく言葉を探すように視線を落とした後、ゆっくりと顔を上げた。
「……彼女、変わったと思いませんか。
あなたと一緒にいることで、少し……素直になってるというか。
昔はあんなふうに人を頼る人じゃなかった。
むしろ、何でも一人で背負って潰れてしまうような……」
僕は無言のまま、彼の言葉を聞いていた。
「……でも、君なら、子どももいるし、
明日香が子どもを産めなくても、問題ないんじゃないか?」
その言葉を聞いた瞬間、僕の気持ちは弓を引きしぼるようにギリギリと音をたてた。
「……それ、どういう意味でしょうか」
抑えようとしても、声に怒気がにじむ。
「いや、だから……彼女の“欠けている部分”を、君なら補えるんじゃ――」
「やめてください」
僕は明確に言った。
その一言でテーブルの空気を、びりっと震わせてしまった。
「明日香さんは“欠けて”なんかいません。
あの人が、どれだけ自分を責めて、何を乗り越えようとしてるか、
あなたがいちばん、分かってあげるべきだったでしょう」
大野は口を閉じ、指先でカップの縁をなぞった。
「そう……かもしれません。
たぶん、僕は彼女にとって、“過去”でしかないんです」
その目は、少しだけ寂しげだった。
「……君になら、彼女を託せる気がしたんです。
だから……あとは頼みます」
僕は言葉を失っていた。
「あなたと僕は、頼むとか頼まれるとか、そういうのじゃないでしょう」
「確かに、僕は同僚時代、彼女に深く惹かれていました。
でも、状況はすべて変わってしまった。
どうして、もっと早く自由にしてくれなかったんですか。
何が乗り越えられて、何が乗り越えられないかなんて、誰にも分からなくなってしまった」
ラウンジの奥でグラスが重なる音がした。
(つづく)
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※このお話はフィクションです。実在するお店や施設が登場しますが、メニュー、営業時間などは事実と異なる場合があります。
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ザ・ロビーラウンジ&バー/ザ・リッツ・カールトン東京
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