『さよならの向こう側』第16回 光の向こうに・後編 #創作大賞2025 #恋愛小説部門
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画面に表示される、見知った名前。
『大野由紀夫』
握っていたスマホが、少し汗ばんでいる。着信音は鳴らない。無音設定にしていたことに、ほっとした自分に気づく。
出るべきかどうか迷いながらも、周囲に聞かれる心配のない作業用スペースに移動してきた。
今、彼と話したら、また振り回されるかもしれない。けれど、逃げるだけでは終われない。
明日香はゆっくりと息を吐いて、応答ボタンを押した。
「はい」
「これは、明日香さん。
出ないかと思ったよ。
すこしは考えてくれているのかな、書類の件」
真面目なときほど半笑いな印象の由紀夫の声。
「わたしとやり直すために、とても思い切ってくれたんですね。
それは伝わりました。
あなたが真剣だということはじゅうぶん伝わったわ。
だけど、わたしが欲しいのは、それじゃないの。
明日、そちらに伺うから、わたしの返事をきいて」
心臓が大きく脈打って、震えて声にならないかと思ったのに。
自分でも、どこから出たのかと驚くほど、
決意に満ちた、はっきりした声が出た。
翌日、土曜日。
静かな朝だった。
明日香は、手元の大きなクラフト封筒をしばらく見つめていた。
あの日、広げて読み込んだ分厚い書類の束。
手を伸ばし、封筒を鞄にしまい込んだ。これを由紀夫に、返さなければならない。逃げ続けることは、もうできない。
インターホンを押すと、数秒の沈黙の後、無機質な声が返った。「……はい」
「明日香です。書類を、お届けに来ました」
「……上がって」
扉が開き、エレベーターで最上階へ。
玄関先で待っていた由紀夫は、明日香の顔を見るなり、少しだけ口角を上げた。
あの頃、ここから通勤するのが自慢だった。
はるか下方に東京湾岸の高速道路が走り、まだ疎らな車の往来をうつしている。二重の防音ガラスのせいで、音はまったく聞こえない。
「好きでしたよね、ここの眺め」
「これ、返しに来ただけよ」
封筒を差し出す。由紀夫はそれを受け取って中を確かめようとしたが、明日香はそれを制した。
「見なくていい。わたしは……
あなたのやり方で、もう動かないから」
「……気づいてたんだな」
「なんのことか、分からないけれど。
あなたがどんな言葉で、孝輔を脅したか。
だいたい想像はつく」
しばしの沈黙が落ちた。明日香の声は静かだが、揺るがなかった。
「あなたにとっては、たぶん“元妻”であるわたしの幸せなんて、どうでもいい。あなたが大切なのは、傷つけられた自尊心よ」
由紀夫の目が細くなる。
「俺はただ、きみが後悔してると思ったから」
「後悔してる。確かに。でもそれは、あなたと離婚したことじゃない。“何も選ばなかった自分”に対して、よ」
明日香の言葉が意外だったのか、
由紀夫の顔はみるみるうちに紅潮し、憮然とした表情に変わった。
「もう、ないからな。俺がこれだけ真剣にきみにしてやったことを、
後でやっぱり欲しかったとか、泣き言を受け入れないのは分かっているんだろうな」
「ありがとう。
そう言ってもらえると、本当に終わりにできる」
そう言って頭を下げた。
由紀夫は、しばらくその場に立ち尽くした。
帰り際、玄関口で彼はこう言った。
「残念だよ、3人で暮らせる人生もあったと思うと」
誰と?
怪訝な顔をする明日香に向けて、さらに彼は重ねた。
「まだ知らないのか?そろそろ、自分の過去と向き合えよ」
その夜。孝輔の部屋の灯りが、あたたかく窓越しににじんでいる。
「こんばんは……」
玄関を開けた瞬間、匂い立つカレーの香り。
「いらっしゃい。
ほら、もっと大きく、言わないと聞こえない」
キッチンから顔を出した孝輔が、いつものようにエプロン姿で手を振る。
いつもと変わらない孝輔の姿。
明日香は、安堵のあまり思わず彼に抱きつき、泣きそうになるのを必死でこらえた。
「……どしたの?」
「……ううん、なんでもない」
夕食の席で、孝輔は「プレゼン通ったんだって?」とさりげなく言った。
「すごいよ。やっぱり、頑張ってたもんね」
「……うん」
明日香は箸を置いて、ふと彼を見た。
「……私、今日、由紀夫に会ってきたの」
孝輔の手が止まる。
「ちゃんと断ってきた。もう、過去を選ばないって。……ありがとうね。何も言わずに、私のこと、守ってくれて」
孝輔は静かに笑った。
「やっと終わった?」
「うん。やっと、ちゃんと終わらせられた」
それは、ほんのかすかな光を見つけた瞬間だった。
まだ迷いは残るけれど、確かに、前へ進もうとしている自分がいた。
(つづく)
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※このお話はフィクションです。登場するお店のメニュー、営業時間などは事実と異なる場合があります。
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