【60代短編】種を蒔く人
小泉節子、六十九歳。
医者の話は短かった。半年か、一年か。数字は言わなかった。
家に帰る。カレンダーを見る。丸をつけるのをやめた。
終活、と娘が言った。
簞笥の中を出す。着ない服を袋に詰める。使わない皿を新聞にくるむ。
本棚だけ、手が止まる。
五十年、本を集めてきた。読み終えた本は、人にやった。町の児童館に本を置いてきた。毎月置いた。名は書かなかった。誰が置いたか、館の者も知らない。
何も遺さなかった、と思っていた。名のある仕事はしなかった。子は育てた。それだけだった。
一冊の本を手に取る。見返しの白いところに、鉛筆で一行書いた。「読んだら一行足して、次の人へ」。
娘は本を古紙回収に出そうとした。縛った紐を、ほどいた。
「お母さん、そんなことしてる場合と違うやろ」
孫は来ない。大学の街にいる。電話に出ないことが多い。
夏に熱が出た。入院した。三週間、本に触れなかった。
戻ると、本棚に埃が積もっていた。書きかけの本が、そのままだった。
指に力が入らない。鉛筆が滑る。一行書くのに、時間がかかる。
町に文庫を作りたかった。棚を並べる。椅子を置く。誰でも借りて回せる場所にする。
その体では無理だと、娘が言う。時間もない。
秋、孫が来た。半年ぶりだった。本棚を見た。見返しの一行を読んだ。
孫が言う。
「これ、児童館にあった本や。子どものころ、ここから借りて読んだ」
孫は児童館の本を覚えていた。誰が置いたかは知らなかった。今も知らない。
孫が本を一冊抜く。見返しに、自分の一行を足した。
文庫の棚はいらなかった。本が、手から手へ回ればよかった。
孫が友を連れてくる。児童館で育った者たちだ。本を一冊ずつ持って帰る。見返しに一行足して、また誰かへ回す。
一冊の本が、町を回りはじめた。見返しの一行が、増えていく。知らない字が並ぶ。
冬が来た。指はもう鉛筆を持てない。孫が代わりに書く。わたしが言う。孫が書き取る。
最後の一冊の見返しに、一行だけ残した。「わたしは種を蒔いた。次は、あなたが蒔いて」。
その本も、誰かが持って帰った。見返しの一行の下に、また一行増えた。
わたしの字は、いちばん上にある。その下に、知らない字が増えていく。見返しの余白は、まだ残っている。

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