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届けたいモノがあるから、「汚いジャイアン」に向き合える。

ひっそり幽霊部員のように所属している「書く部」で、音羽しーなさんの「綺麗なジャイアンは好きですか?」という記事が話題になった。発端となった部会のチャットログも読んでいたので、皆さんが"すっぴんのような文章"について議論していたのも、見知っていた。


……実は私、だいぶ前から、プロフィール文で『「よく生き、よく書く」すっぴんエッセイスト。』と名乗っておりまして…。


春くらいに更新したプロフな気がする…。


そして、創作大賞に向けた渾身のエッセイで、まさに自分のことを最終的にジャイアンに喩えたのでした。


普段私が考えていることが、あまりにも包摂されているテーマなので、自分なりの思考を、ここに表してみたいと思います。



私の「汚いジャイアン」に向き合ったきっかけ


多面的な自己の中で、意図的に綺麗な部分だけを見せたい(書きたい)と思っていた時期は、私にもありました。
それを、自覚的に、明確に乗り越えようとしたのが、創作大賞向けに書いた2つの作品でした。


どちらも、思い出すと海馬がカッと熱くなるような私の黒歴史や、その背後に隠し持っていた醜さ・狡さ・ダサさを、足りない筆力を総動員して書こうと試みました。
なるべく露悪的でも偽善的でもなく、自分の中にあった事実に、淡々と向き合って書いたつもりです。

「乗り越えよう」と強く思った動機は二つあります。

1.読んだエッセイに、勇気をもらってきた。

一つは、これまで読んで感動したエッセイに勇気をもらったこと。

例えば「パパと私」。お父さんと血みどろの喧嘩をしていますね。


はるさんのこのエッセイも。
はるさんの作品には、いつもものすごーく勇気をもらっています。


「ここまで書いていいんだ」

内心目を見開きながらも、胸をグーで直にどつかれたような感動。重いことが書かれているはずなのに、読み終わったら肩の力がふっと抜ける。

そうか、こんなに書く人がいるなら、私だって。
そんな風に、勇気をもらってきました。

2.「伝えたいこと」のために、避けて通れないから

二つ目は、自分のエッセイを通して伝えたいことを伝えるために、避けて通れない材料だからです。

エッセイで「伝えたいこと」を明示するのは野暮だとは思いますが、私の場合は、実は大体「伝えたいこと」があります。「伝えたいこと」はあるが、それを主義主張のスローガンにしたくないから、エッセイを書いているまであるかも。

私は小説家の朝井リョウさんのpodcastにハマっているのですが、彼は小説とテーマについて、こんなことを言っておりまして。

始めからこのテーマで、これを考えたくてこの小説を書きましたって言わないと、届かない場所もある。
私はよく、物語とテーマを、ホースと水で喩えていて。絶対に当てたい場所に水(テーマ)を当てるんだったら、ホースを先をギュッてやって細めて、水の勢いを強くした方が目的の場所にあたりやすい。
……でも、私はできれば雨のような小説を書くことができないかって気持ちがあって。どこから降っているかわかんないけど、なんか気づいたら濡れてるっていう。

ポッドフリックスー秘密の発信局ー7/21の回
朝井さんの発言の抜粋


「伝えたいこと」をダイレクトに書かず、雨のようにじんわり伝える。そのためにエピソードを重ねて見せるのが、私にとってのエッセイだと思っていて。

先ほど挙げた創作大賞に向けたエッセイについても、「伝えたいこと」のために、自分の「汚いジャイアン」性を無視するわけにはいかなかった。

だってこの物語は、汚いジャイアンが汚いジャイアンだったから、生まれた物語なんです。

私の場合、「汚いジャイアンだけを出せ」って言われても、書くことができないと思います。だって苦しいから。


汚いジャイアンは「伝えたいモノ」のために


「伝えたい何か」のためだから、奮い立って頑張れる。

あぁ、美化したい!言い訳したい!とジタバタもがく「綺麗なジャイアン」を全力でなだめて、「汚いジャイアン」を取材するように観察し、言葉に置き換えます。

正直、今現在も、自分の中に燻っている「汚いジャイアン」は何人もいます。が、それは「自分の抱えているテーマ」だと思って、そのまま燻らせて放置しています。

これからこの汚いジャイアンが、きっと何かの物語を連れてきてくれるだろうから。

その顛末を見届けて、「今だ、書きたい!」と思ったら、その時は汚いジャイアンのことを、一切美化せずに真っ正面から描きたいなぁと。

「汚いジャイアン」を引っ込めたくなったら、何度も何度も、尊敬する作家さんのエッセイを読みに戻ります。読んで、勇気をもらって、また自分のパソコンの前に戻ります。



実は、すこし懸念していること。


実は、同じ書く人として懸念しているのが、「汚いジャイアンを出すこと=良い文章」という構図が出来上がってしまわないかなぁ…ということです。

過度に「赤裸々」だったり、「露悪的=勇気」みたいにならないかと。ともすれば、すっぴんであればあるほど、脱げば脱ぐほどいいという価値基準になってしまって、「汚いジャイアンを出さない=正直じゃない」みたいになってしまわないかなぁと。
あまりに「汚いジャイアン」を押し出そうとするあまり、書き手として、表現のハンドルを奪われている気がして。

もう一つ。「汚いジャイアン」を読者に認められたら、もしかしたら、ある種の癒しがあるかもしれません。でも逆に、「汚いジャイアンを認めてあげたい」をモチベーションに書いた場合、読者から反応が得られなかったら。剥き出しのジャイアン・ハートが、より一層傷つくのではないでしょうか。

「書くこと」にセラピー的な効果はあると思います。でも、それはあくまでオマケ的な位置付けが、私にとっては"ちょうどいい塩梅"です。(もちろん、あくまで私にとっては、ですが…。)

私の場合、汚いジャイアンを書き切った後には、「ごちゃごちゃしていた一つの物語に、ケリがついた」感じがありました。箱に入れて、ラベリングして、置くべき棚に収められたような。
一つ身軽になって、また人生を前に進めていこう!という気持ちになりました。

さらに、そのエッセイが誰かに届いたとき。
その時は確かに、汚いジャイアンに向かって、「あぁ、良かったじゃん」くらいは言えたかな。

私にとってエッセイは、「書きたい物語がある」ときに書くもの。
汚いジャイアンは、エッセイに必要だから連れてこられる登場人物です。

もちろん、懸念があるからって、「汚いジャイアンを書くのをやめた方がいい」とまでは、全く思っていません。みなさんが汚いジャイアンをどう書くのか、真摯に、興味深く受け取りたいです。




表現する勇気に、花束を。


……教室でいつも静かなオタクが、急に堰を切って喋り出したみたいな雰囲気になっていませんか?
なっていますよね?あぁぁ我に返ると恥ずかしい!…でもまぁ、仕方ない。

書くことも、発信することも、「表現」って勇気だと思います。教室で手を挙げるのに勇気が必要だったように。私は自分がエッセイを書くようになって、「表現」をする人たちのことを、すべからく尊敬するようになりました。

だから、いつも書くことに真剣な「書く部」の皆さんも、「書く」についてのテーマをテーブルに置いて、対話を開き、交流できる音羽しーなさんも、尊敬しています。みなさん、本当にかっこいいです。

私も頑張ります。


しーなさん、じっくり考える機会をいただき、ありがとうございました。
しーなさんのまとめていらっしゃるマガジンはこちらです↓


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海沼 衣々花|よく生き、よく書く人 書くを仕事に。一歩踏み出したばかりです。 毎日ヨタヨタ、おろおろ書いてます。 サポートいただけると跳び上がって喜びます。 コーヒーをご馳走していただくお気持ちで、お待ちしてます☕️

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