ショートショート|昨日の私へ|拝啓文芸部
男は、ある心理学の雑誌で読んだストレス解消法を実践することにした。
「昨日の自分へ手紙を書く」というものである。
人はどうしても自分の失敗や怠惰を悔やんでしまう生き物だが、それを「昨日の自分」という他者のせいにして文章に書き出すことで、心理的な負担を劇的に軽減できるのだという。
さっそく男は毎朝、机に向かって短い手紙を書いた。
『昨日の私へ。夜更かしをしてくれたおかげで、今日の私はひどく眠い。今後は気をつけてほしい』
『昨日の私へ。傘を持たずに出かけたせいで、今日の私はずぶ濡れになった。まったく、君の不注意には呆れるよ』
最初は単なる気休めのつもりだった。しかし、毎日続けていくうちに、男の意識の中で奇妙な変化が起き始めた。
「昨日の私」が、まるで本当に実在する、底抜けに無責任な同居人のように思えてきたのだ。
そいつは常に男より先に行動し、勝手に酒を飲みすぎ、無駄遣いをし、面倒な仕事を先送りにして、さっさと姿を消してしまう。そして翌朝、残された「今日の私」が、その尻拭いをさせられるのだ。
『昨日の私へ。君が書類の作成をサボったせいで、私は上司に怒鳴られた。謝罪のひとつくらい残していったらどうなんだ』
不満と憎悪は日に日に募っていった。
同時に、男はもう一人の厄介な存在にも気づき始めていた。
「明日の私」である。
こいつは「昨日の私」とは正反対の、ひどく厳格で要求の多い冷酷な支配者だった。
『明日の私のために、今日はジムに行って汗を流さなければ』
『明日の私のために、このケーキは我慢しよう』
「明日の私」は常に完璧を求め、健康と貯金と仕事の成果を要求してくる。「今日の私」は、彼の期待に応えるために、ただひたすらに労働と節制を強いられる奴隷でしかなかった。
ある日、男はふと立ち止まり、深い絶望に包まれた。
「昨日の私」が散らかしたゴミを片付け、「明日の私」のためにせっせと準備をする。では、「今日の私」が報われる瞬間はどこにあるのだ?
ない。絶対にないのだ。
なぜなら「今日の私」は、常に過去の尻拭いと未来への奉仕を強いられ、たった二十四時間で消え去る運命にあるからだ。
その夜、限界に達した男は決意した。
こんな不条理な関係はもう終わりにしよう。
逃げ足の速い「昨日の私」を捕まえて復讐することはできない。だが、あの傲慢で偉そうな「明日の私」に一泡吹かせることならできる。
男はパソコンを開き、上司宛てに痛烈な罵倒を並べた退職届を送信した。次に、クレジットカードの限度額まで使い、無意味な高額商品をネットで大量に注文した。さらに、冷蔵庫にあった酒をすべて取り出し、腹がはち切れるほど飲み暴れた。
部屋中をめちゃくちゃに破壊し、男は満足げに笑った。
「ざまあみろ、明日の私。すべてお前の責任だ。せいぜい苦しむがいい」
男は泥のような眠りに落ちた。
――翌朝。
激しい頭痛と吐き気とともに、男は目を覚ました。
見渡す限りゴミ溜めのように荒れ果てた部屋。スマートフォンには上司からの着信履歴が数十件。そして、テーブルの上には空になった大量の酒瓶。
絶望的な状況の中で、男はふらつく足で机に向かい、ペンを握った。
そして、日課となっている手紙を書き始めた。
『拝啓 昨日の私へ。――君は、最低のクズだ』
(終)
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