ホロコースト否定派の代表サイトの一つ、「逆転ニュルンベルク裁判」をやっつけよう!――どこまで出来るかわからんけど。(5)
前回:
9: アウシュヴィッツⅡ「ビルケナウ」のガス室(クレマⅣ、Ⅴ、ブンカー)について
ユダヤ人を収容所に収容したのは保護するため?

ユダヤ人を「保護」するために収容所に収容していたなる珍説は初めて見ましたが、何のソースもないソフィアの妄想に過ぎないので飛ばします。「民間人の被害を最小限に抑え」などと、2025年現在までのガザの状況を見てそんなこと言えるわけもありません。
なお、ユダヤ人を労働資源と「も」考えていたことは事実ですが、数百万人に上るユダヤ人の収容をしていた事実、というかそんな収容力は当時あったのでしょうか? 最大のゲットーであるワルシャワ・ゲットーでさえせいぜい40万人強が最大でした。全部足したら600万人になるのでしょうか? また仮にそうだったとしてそれら労働者を食わせられたのでしょうか? 子供も老人も全部ですよ?
換気装置のない火葬場Ⅳ、Ⅴはガス室があり得なかった?

クレマⅣとⅤは線対称になっている同じ構造の建物だ
線対象、でも別に意味がわかるからいいんですけど、多分普通は「鏡像」って呼ぶと思います。
入り口のドアを全開にして自然換気するしかないのでは、ガス室とは到底呼べない。
そんなことをしたら外部の人間は青酸ガスで死んでしまうだろうからな。
というわけで、①の部屋をガス室と呼ぶのはあまりに馬鹿げているとしか言いようがない。
換気装置のないガス室なんて有り得ないからだ
この手の議論をする修正主義者は、私たち地球上に暮らす人ならば例外なく、「空気」を呼吸していることをさっぱり無視します。空気もガスですよ?
つまり、この人たちは以下のフランス人風刺画家のコンクが描いた絵のような理解をするんです。

しかし、青酸ガスの人体への危険性はその空気中濃度に左右されます。この危険性の指標はいろいろあるのですが、一番簡単なわかりやすいので示すと以下の通りです。

つまり致死濃度の概ね1/10くらいまで濃度が下がると、軽い症状で済む程度になるのです。もっと下がれば無症状にもなります。したがって、単純に「青酸ガス吸ったら死ぬ」ではないのです。また、青酸ガスの密度(比重)は空気より若干軽い程度(0.95程度)でしかなく、つまり空気と非常に混ざりやすいのです。だから、青酸ガスは非常に猛毒であるにもかかわらず、ほとんど戦場で軍事兵器としては役に立たなかったのです。例えば、米国国立生物工学情報センター(NCBI)の資料によると、以下のとおりです。
シアン化水素は200年以上前から強力な毒物として知られている。第一次世界大戦中、フランスによって化学兵器として使用された。シアン化水素は非常に揮発性が高いが(そして、その揮発性のため、後に「軍事的に役に立たない」とみなされた)、第一次世界大戦中の軍事使用による死者は報告されていない(Haber, 1986)。また、1980年代のイラン・イラク戦争でシアン化水素が戦争ガスとして使用されたという報告もある(Langら、1986;Heylin、1988)。しかし、シアン化水素は人間によって速やかに解毒され、また非常に揮発性が高いため、化学兵器として効果を発揮するには大量のガスが必要である。
ここでは、揮発性が高いとしか書かれていませんが、空気の2.5倍程度の比重がある塩素ガスは戦場で非常に高い殺傷能力を発揮していたことはよく知られています。あのオウム真理教が使ったサリンはその比重がおよそ5倍もあり、揮発性が高いにもかかわらず、松本サリン事件のような屋外散布ですら極めて高い殺傷能力を発揮しています。しかし、比重が空気と変わらない青酸ガスは野外では殺傷能力を急速に失うのです。空気と混ざって濃度が急速に下がるからです。
それにソフィアはここでも、ガスマスクの話を全くしません。実は、有名な写真に、火葬場Ⅴのガス室から遺体搬出作業をしていたと考えられるユダヤ人ゾンダーコマンドが写っている写真があります。この写真に写った一人の手には、そのガスマスクを持っているように見えます。


ゾンダーコマンドがガスマスクを持っているかもしれないのに初めて気づいたのは私ではありませんが、誰だったか忘れました(多分THHPの誰か)
アウシュヴィッツの親衛隊は、地上型ガス室であるブンカーでの経験を積んでおり、地上型ガス室では外気導入が簡単なことから、火葬場ⅣやⅤでは換気扇は不要だと判断したと考えられます。扇風機を使っていたと言う証言も見たことがあります(多分唯一、ゾンダーコマンドの回想録として日本語版が出ているシュロモ・ヴェネツィアの『私はガス室の「特殊任務」をしていた』じゃなかったかなと思います)。
以上、換気装置がなかったからといってガス室として成立しなかった、とは言えません。
チフスでユダヤ人を全滅させればよかった?

多分後でまた説明すると思うのでここでは簡単に言いますが、この人たちがまるでわかってないのは、アウシュヴィッツ収容所は絶滅収容所であるとともに強制収容所であったと言う事実です。強制収容所の重要な機能の一つに、強制労働がありました。アウシュヴィッツでは登録囚人の平均生存期間もそれほど長くはありませんでしたが、強制収容所を管轄する親衛隊の経済管理本部(WVHA)は、強制収容所の囚人労働力を活用していました。したがって、チフスなどの疫病の蔓延は防がねばなりません。だから、アウシュヴィッツにはチクロンBがストックされていたのです。
一方で、ナチス親衛隊は収容所の囚人に無駄飯を食わせるほどの親切さも余裕もありませんでした。だから、到着したユダヤ人をその場で選別し、子供や老人、病人や怪我人、身体障害者、あるいは子供を失うと生きる気力を失う子持ちの女性を囚人としての登録もせずに、そうした労働力にならない人たちをそのままガス室行きにしたのです。
もっと簡単に言えば、ユダヤ人にはどっちにしろ死んでもらうが、どうせ死ぬのだからそれまでは働ける奴らには働いてもらう、だったのです。だからその働ける奴らの部分は衛生管理をする必要があったのです。それに、チフスが蔓延し過ぎたら、親衛隊員だって危ないわけです。それよりは、衛生管理をしてある程度はコントロールできるようにした方がいいわけです。だから、害虫駆除は必要でした。

いずれにせよ、これらの害虫駆除施設は、到着したその日のうちにガス室で殺されたユダヤ人には何の関係もありませんでした。
ブンカーがガス室として使用された証拠はあるのか?

ソフィアはサイトを作っている途中でブンカー自体は存在した記述を修正主義者の論文から発見したからか、以前は「存在した証拠はない」と断言していたはずなのに、そちらを一切修正せず、しれっとこちらでは存在自体を認める記述を行なっています。私自身も過去の誤った記述を修正しないことはしばしばありますが、誤解を避けるためにも修正した方がいいと改めて反省しているところです。見つけ次第やってはいるのですが、修正が追いついていないようで、しょっちゅう間違いがそのままになっているのを発見しています。
さて、ブンカーの存在に言及した当時の親衛隊による文書史料が残っていることは以前示したとおりです。では、ブンカーのガス室あるいはガス処刑に直接言及した当時の文書史料はあるのか? と言えばそれは見つかっていません。ブンカーがガス処刑に使用されていたことを示しているのは証言です。ソフィアのようなネットのよくいるタイプの歴史修正主義者は一般に、肯定証言を全否定します。「戦後の証言なんか嘘はいくらでも言えるんだから信用できっか!」って話です。
ブンカーについては、アウシュヴィッツについてはほとんど知識がないような一般的な人にとっては、その名前すら聞いたこともなく、存在すら認識されていないようで、私自身も初期の頃はなかなか何の話か頭に入ってこず、その頃勉強用に見ていた、Amazonプライムで配信していたBBC制作の『アウシュヴィッツ ナチスとホロコースト』の動画からテキストを抜き出して勉強していたものです。
その後は、知識も増えて、ブンカーについての証言者の名前として、ルドルフ・ヘスの他、シェロモ・ドラゴン、アルター・ファインシルバー(スタニスワフ・ヤンコフスキー)、ペリー・ブロードなどはすぐに出てくるようになっています。ソフィアはクレマー医師の日記しか知らないようですが、戦後の証言者としてはヨハン・パウル・クレマーも当然入ってきます。他にもまだまだ私自身がその証言を見てない証言者もいます。
それらの証言と、実際にブンカーの跡地の遺跡が土台のみであるとは言え残っていること、ビルケナウの「Bunker 1」を記述した親衛隊の当時の文書が残っていることなどから、ブンカーでのガス処刑は決して否定されるものではない、と判断するのが常識的な人だと思います。
また、ソフィアは資料がないといっていますが、Bunkerを記述こそしてはいませんが、ブンカーのことを示している当時の文書は他にもあります。例えば、

これは、1943年2月10日の日付で、ビルケナウのゾンダーコマンド用に塩素化石灰を発注していることを示す史料です。塩素化石灰は死体の腐敗を遅らせるためによく使われることは知っている人もいると思います。最近の映画の中にこんなシーンがありました。

映画ですけど、この何か白い粉を撒いている先には、大量の遺体が積み重なって捨てられています。映画の中では何も言われていないのですけれど多分塩素化石灰だと思われます。「塩素化石灰」とは何か?、この程度のことすら知らず調べようともしない修正主義者もたくさんいます。
もちろん、この文書はガス処刑を証明するものではありません。もしかしたら、大量埋葬の遺体に使っていたかもしれない、程度の証拠にしかならないでしょう。しかし、例えばブンカーの周囲には、犠牲者の脱衣や荷物の一時保管のためのバラックがあったと言われており、それを裏付ける文書も残されています。例えば、日付は1942年6月30日ですが、以下のような文書です。

この文書にはこう書かれています。
アウシュヴィッツ強制収容所の収容所長、ヘス中佐は、ユダヤ人の特別処置のために、彼らの所持品を保管するための 4 つの馬小屋を建設することを口頭で申請した。
この件は極めて緊急であり、所持品は早急に保管しなければならないため、この申請を承認するようお願いする。
他にもありますが、こうして、証言を注意深く読むと、これらの当時の文書史料が証言に一致していることがわかるのです。歴史学者たちは丹念にこのような史料分析を行なって歴史事実を調べているのです。
9-1 アウシュヴィッツ収容所のガス殺証人その1 ソフィア・リトヴィンスカ(ユダヤ人女囚)



今度は否定派お得意の証言否定のコーナーですね。否定派の証言否定のやり方は定番的に、証言の中に「ムジュン」を見つけ出すことによって成り立っており、証言の一部でもムジュンがありさえすれば、ムジュン以外の部分も含め証言の全てが否定される、という具合です。そして、ホロコーストの証拠は、極端な否定派がよくいうように「証言しかない」ので、そのようなムジュンした証言しかない故にホロコーストは信用できない話に過ぎない、と印象操作されるのです。
さて、ソフィアはその手始めとして、「ソフィア・リトヴィンスカ」なるポーランド人のユダヤ人を出してきましたが、私としては可能なら一次資料を求めたいので、調べてみるとそのソースは、ベルゼン裁判の資料本らしく、いちいちこれを入手するのは困難です。というかそこまでの手間はかけたくないし、かけられない。ソフィアは歴史修正主義研究会の加藤一郎の翻訳を使ったようですが、いまいち信用できません。
そこで、ソフィア・リトヴィンスカ(Sophia Litwinska)のアルファベットでの綴りを頼りに、ネット上にその裁判記録のテキストを見つけたのでそれを使うことにします。ちょっと長いですが全訳します。
第七日 - 1945年9月24日 月曜日
ソフィア・リトヴィンスカ、宣誓の上、バックハウス大佐による尋問を受ける - 私は29歳で、ポーランドのルブリン出身です。ユダヤ人だったため、1940年5月19日に逮捕されました。裁判は受けず、まずルブリンに1年間拘留され、その後アウシュビッツに送られ、1941年の秋に到着しました。ユダヤ人ではなかった私の夫もポーランド軍の中尉で、逮捕されました。収容所では、私たちの所持品はすべて没収されました。服を置いていかなければならず、シャワー室に連れて行かれました。髪が非常に短かったので、寒くて頭に巻く布を頼んだところ、シャワー室の担当のカポが私たちを激しく殴り始めました。与えられた服は、長いコートのようなものと、袖のないシルクのブラウスでした。すでに腕には番号が入れ墨されていました。一日中、そのシャワー室のような場所に裸で放置され、最後に25番ブロックに連れて行かれました。このブロックには3つの部分に分かれた檻のようなものがあり、多くの場合、8人でその檻の一部に寝て、8人で1枚の毛布を与えられました。マットレスや藁布団はありませんでした。朝の起床時間は午前3時30分が普通でした。
朝起きて何が起こりましたか? - みんなブロックを出て、朝の8時か9時まで続く点呼を受けなければなりませんでした。5人ずつの列に気をつけの姿勢で立たなければならず、もし動くと顔を殴られたり、重い石を腕に抱えて跪いたりしなければなりませんでした。最初の6週間は検疫のようなものだったので、まったく働きませんでした。ある日、食べ物を取りに行っている途中で転んで足を骨折し、収容所受付所に運ばれ、1941年のクリスマスには病院にいました。
クリスマスの前日に何が起こりましたか? - 4番ブロック、病院ブロックで大規模な選別がありました。3000人以上のユダヤ人女性が、ヘスラーの指揮の下、この選別に並ばなければなりませんでした。私たちはベッドを急いで離れ、彼の前とエンナとケーニッヒという医師たちの前で完全に裸で気をつけの姿勢で立たなければなりませんでした。ベッドから離れられない人は番号を記録され、死刑宣告されたことは明らかでした。体の見栄えが良くない人や、痩せすぎている人、または何らかの理由で彼らが嫌った人は番号を記録され、それが何を意味するのかは明らかでした。私の番号も記録されました。私たちは4番ブロックに一晩滞在し、翌日18番ブロックに連れて行かれました。午後5時半頃、トラックが到着し、動物のように完全に裸で積み込まれ、火葬場に運ばれました。
火葬場に着いて何が起こりましたか? - トラック全体が、時々ジャガイモや石炭の荷を降ろすようにひっくり返され、シャワー室のような印象を受ける部屋に連れて行かれました。周りにはタオルが掛かっており、スプレーや鏡までありました。私はとても怖かったので、全部で何人いたのか言えません。ドアが閉められたかどうかも知りません。泣いている人、お互いに叫んでいる人、お互いを殴り合っている人がいました。健康な人、強い人、弱い人、病人がいて、突然、一番上の非常に小さな窓から煙が入ってくるのが見えました。激しく咳き込み、目から涙が溢れ、窒息しそうな喉の感覚がありました。何が起こったのか、他の人を見ることもできませんでした。
次に覚えていることは何ですか? - その時、私の名前が呼ばれるのが聞こえました。答える力はありませんでしたが、腕を上げました。すると、誰かが私を掴んでその部屋から投げ出したのを感じました。ヘスラーが私に毛布をかけ、オートバイで病院に連れて行ってくれ、そこで6週間過ごしました。ガスの影響で、まだ頻繁に頭痛と心臓のトラブルがあり、新鮮な空気の中に行くといつも目が涙でいっぱいになりました。その後、政治部に連れて行かれましたが、ルブリンの刑務所から来たことが理由でガス室から出されたようでした。それは何か違いがあったようで、さらに、私の夫はポーランドの将校でした。
病院から出てきてからはどのように働いていましたか? - 最初は、Blockälteste(ブロック長)の部屋の掃除と洗濯の手伝いをしていました。その後、便所掃除の仕事に就きました。自分の手で便所にあるものをすべて掃除しなければなりませんでしたが、ほうきやブラシ、またはその他の掃除用具は何も与えられませんでした。時々ストーブの近くで暖を取ったり、シャツを洗ったりすることができたので、良い仕事だと考えられていました。私たちの食事は、朝はコーヒー、昼食は0.5リットルの野菜スープ(時には0.25リットル)、夕食はパンの配給で、時には何かと一緒に、時には何もなし、時にはコーヒーでした。数日間キッチンで働きましたが、仕事が私にはきつすぎたので、「カナダ」と呼ばれる作業班に入れられました。これは、火葬場に行った他の人からの所持品を整理する仕事でした。以前一緒に働いていたBlockältesteの影響でこの仕事に就きました。
その後、ベルゼンに移送されましたか? - はい。1944年の秋にアウシュビッツを出て、他の収容所を経て、イギリス軍による解放の約3ヶ月前にベルゼンに到着しました。ベルゼンでの最初の2日間は病院で働きました。その後、Lagerälteste(収容所長)のスタニスラワ・スタロストカ(48番)が、数日間、男性収容所の2番キッチンで働かせ、その後、2人のSS隊員、1人のAufseherin(監督)、そしてヒルデというキリスト教の名前を持つユダヤ人のカポがいた1番キッチンに移されました。
イギリス軍が到着する少し前に、調理場が閉鎖されたことがありましたか? - はい、あります。キッチンの責任者が、1、2時間閉鎖すると言いました。SS隊員全員が集まり、私たちはキッチンの前で待っていました。キッチンの近くには野菜の残りがあり、囚人の一人がジャガイモを1つか2つ取ろうとしました。その時、SS隊員が戻ってきて発砲し、多くの囚人が殺されました。
(証人は法廷で被告人を何人か特定した。)
認識した人が誰かを殴っているのを見たことがありますか? - いいえ。1番キッチンの責任者だった33番(イルゼ・フォルスター)。ある女の子がジャガイモを取ったところ、この人がそれを見て、キッチンに連れて行きました。そこで彼女をひどく殴り始めたので、そのかわいそうな女の子は我慢できず、排泄してしまいました。私はそれ以上見ることができず、キッチンから走り出しました。彼女は女の子をキッチンから引きずり出し、死ぬまで殴り続けました。ベルゼンでは毎日発砲を見ました。
マンロー少佐による反対尋問 - あなたは1941年12月頃にアウシュビッツに到着し、1941年12月24日に行われたパレードでガス室に選ばれたと理解していますが? - 正確な日付は覚えていません。クリスマスの数日前だったはずです。私たちはひどく殴られたので、正確な日付を思い出すことができません。足を骨折した以外は、当時は完全に健康でした。
火葬場に向かう途中で、トラックから降ろされる人を見ましたか? - いいえ。
全部でどれくらいガス室にいましたか? - ごく短い時間で、おそらく1、2分です。
連れ出された時、ガスの影響でひどく苦しんでいましたか? - はい、頭がくらくらして、突然目の前が真っ暗になり、胸に重いものが乗っているように感じました。
外に出た時、あなたを連れ出した男はガスマスクを着用していましたか? - わかりません。私はそのような状態だったので、何が起こったのか自分でもわかりませんでした。
アウシュビッツでヘスという司令官を覚えていますか? - 名前は聞いたことがありますが、会ったことはありません。
あなたはどの小さな収容所にいましたか? - 私はビルケナウにいました。その司令官はクレーマーでした。ビルケナウは、A、B、C、B 2、およびジプシー収容所という小さなラーゲルに分割されていました。私が知っている唯一の司令官はクレーマーです。他の人は誰も知りません。
クランフィールド少佐による反対尋問 - ベルゼンから解放された時、あなたは飢餓による極度の衰弱状態でしたか? - 私たちは誰だかわからないほどでした。私たちは60歳と70歳の老女のような外見で、顔にはしわがありましたが、まだ若かったです。
あなたが受けた最もひどい暴行を思い出してほしい。誰があなたを殴りましたか? - 1番キッチンの責任者だった33番(イルゼ・フォルスター)。彼女はゴム製の警棒で私を殴りました。私の頭は腫れ上がり、腕と背中はこれらの打撃のために完全に青と緑色でした。
もしこれがそのようなひどい暴行であり、あなたは誰があなたを殴ったのかを知っていたのなら、なぜイギリスの将校に証言する際にそれを言わなかったのですか? - 当時は彼女の名前を知りませんでしたが、私に見せられた写真から彼女を認識しました。
あなたの今日の証言は誇張されており、真実ではないと言いますが? - それを経験し、苦しんだ人だけがそれについて話す権利があり、それについて何も知らない人にはありません。
この男に会ったことがありますか(12番、ヨーゼフ・クリッペルを指し示す)? - ベルゲン・ベルゼンのキッチンで彼を見たことがありますが、彼の機能が何だったのかは言えません。彼はそこにいたかもしれませんし、いなかったかもしれません。
あなたの証言の残りの部分にも同じことが当てはまり、あなたはまったく信頼できない証人であると言いますが? - 私が見て、そこで言ったことは、何千人もの他の人がまったく同じことを言うことができます。
フィールデン大尉による反対尋問 - 1番キッチンが閉鎖された後に起こったと言っている事件に関して、SS隊員が戻ってくる前に、その付近で発砲はありましたか? - 正確には言えません。常に銃声が聞こえていました。その後、SS隊員が到着した時、私たちの周りのあらゆる方向から銃声が聞こえてきました。
発砲が始まった時、SS隊員はキッチンからどれくらい離れていましたか? - 彼らはキッチンのすぐ近くにいました。彼らは無差別に発砲し、キッチンの職員が殺されようが、他の囚人が殺されようが気にしませんでした。
1番キッチンにいた2人のSS隊員に身体的な奇形はありましたか? - 言えません。
ベルゼンで衣料品店がどこにあったか知っていますか? - 男子収容所のキッチンからそれほど遠くなく、食料品店の近くにありました。
ニーブ大尉による反対尋問 - あなたはイギリスの将校の前で証言した時、写真で33番(イルゼ・フォルスター)を認識しましたか? - はい。
なぜあなたの証言で彼女について何も言わなかったのですか? - もし私たちがアウシュビッツや他の強制収容所で経験し、苦しんだことすべてを話したら、数ヶ月かかるでしょう。
あなたが33番によって殺されたのを見た女の子の国籍は何でしたか? - 彼女はユダヤ人でしたが、ハンガリー人、ポーランド人、ドイツ人のどれだったかはわかりません。
あなたは女の子が死ぬのを見ましたか? - はい。
その女の子は翌日1番キッチンで働いていたと言いますが? - その女の子はキッチンで働いたことはありません。
女の子は死ぬまでにどれくらいかかりましたか? - 彼女は死ぬまで殴り、死んだ時もまだ足で蹴っていました。その後、彼女はキッチンに戻ってヒステリックに笑いました。私たちは後でその女の子を見に行き、2人の男が来て彼女を引きずって行きました。火葬場に行ったのか、他の場所に埋葬されたのかはわかりません。
イェドルジェヨヴィチ中尉による反対尋問 - アウシュビッツ収容所を囲む有刺鉄線に到達する前に、溝を越えなければなりませんでしたか? - はい。
囚人は簡単に溝を越えることができましたか? - 簡単ではありませんでした。収容所の一部では溝は有刺鉄線の中にあり、他の部分ではそうではありませんでした。私がいたビルケナウのA区画では、溝は中にありました。
キッチンから配給所まで食料容器を運ぶ時、あなたや他の人は囚人に群がられたり、配給が始まる前に食べ物を得ようとする個々の囚人に近づかれたりしましたか? - はい、囚人がしばしば来て食べ物を乞いましたが、私たちはそれを与えることを許されていませんでした。彼らを遠ざけるのは非常に困難でした。特にロシア人の女の子が小さなマグカップを持ってきて、スープを数滴盗んでいきました。
女性囚人は常に髪を切られていたのですか? - 短い間、アーリア人女性は髪を長くしていましたが、それを変え、誰もが髪を切られました。1944年の終わりには、アーリア人女性は髪を長くすることができ、切られませんでした。
アウシュビッツまたはベルゼンで、囚人が他の囚人から食べ物やその他の奇妙なものを盗むのを見ましたか? - はい。
もしあなたが仲間の囚人が配給中に2回目の食べ物を得ようとし、それによってあなたの分け前を奪うのを見たら、その囚人を殴ったBlockältesteを責めますか? - もしBlockältesteが囚人をひどく殴るなら、私は自分自身が食べ物なしで行くことを選びます。
裁判官補佐官による質問 - ユダヤ人には、特に注意を払う特定の日付がカレンダーにありますか? - はい、ユダヤ人の新年です。
アウシュビッツで何回新年を過ごしたと思いますか? - 私たちは日付が何であるか知りませんでした。それが新年かどうか知りませんでした。私たちは人間ではなく、動物のように生きていました。
アウシュビッツに行く前に、どれくらい刑務所にいましたか? - 私は1940年5月19日に逮捕されたので、ルブリンの刑務所に1年以上いたことを覚えています。
アウシュビッツに来てから、足を骨折するまでどれくらいでしたか? - おそらく5、6週間です。
1945年4月15日にイギリス軍がベルゼンに来る前に、この若い女の子がイルス・フォルスターに殴り殺されたと言ったのはどれくらい前ですか? - おそらく1ヶ月か5、6週間です。
女性がジャガイモや野菜を手に入れようとして殺されたと思われるような、他の同様の事件の記憶はありますか? - いいえ。
さてこのリトヴィンスカの証言に対し、ソフィアはこのように言ってます。
どうして絶滅刑務所から生きて出ることができたのかしら?」
「あ…」
「あれあれあれ~?
アウシュヴィッツでは殺されなかったわけなのね?
このように、ユダヤ人のアウシュヴィッツ収容所の生存者が現れると、決まってこのような反応を示すのが否定派です。誰も、アウシュヴィッツではユダヤ人は「全員」が殺されたとは言っていないのにも関わらず、です。そのほとんどがアウシュヴィッツで命を落としましたが、運良く生き延びた人も少数いたのです。極端な場合、「ナチスドイツはユダヤ人絶滅をやっていたのになぜユダヤ人の生存者がいるのか?」とまで言う否定派もいます。無茶苦茶ですね。
しかし、証言から少しだけ、リトヴィンスカが運良く生き延びられた理由が読み取れます。一つはアウシュヴィッツで「カナダ」に配属されたことです。

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0043.shtml
カナダ区画の労働は写真を見ての通り、忙しさは不明ではありますが、過酷な重労働ではないようには見えます。また、カナダ区画の囚人たちは到着したユダヤ人らの荷物を整理していたのですが、「役得」としてそれらの荷物に含まれていた食料品をこっそり「盗み食い」することも出来たのです。したがって、条件的に比較的恵まれていたので、生存率は高かったと思われます。さらに、移送先のベルゲン・ベルゼンでもキッチンで働かされたとあります。キッチンは当然ですが、食糧には恵まれていたのです。少なくとも餓死する可能性は低かったと言えるでしょう。このように、リトウィンスカは「運が良かった」のです。
で、いつもの通りくだらない会話劇が長々と書かれた後、ようやくリトヴィンスカ証言への批判が始まります。

確かに、リトヴィンスカが「クリスマスの前日」に選別を受け火葬場に連れて行かれてガスを浴びせられそこに「誰か」が入ってきてリトヴィンスカだけをガス室から引っ張り出した――という陳述内容はあり得なさそうです。
そもそも、ガスが部屋に導入されたら生き延びる余地は「ほとんど」ありません。この「ほとんど」についてはここでは説明しませんが、いずれにしてもチクロンが部屋に導入されたらどんどんガスが放出されて濃度が上がっていくのですから、後はガス室内の犠牲者は死に至るだけになるのです。
その上、リトヴィンスカが選別を受けたと述べている1941年12月24日、あるいはそれより少し以前の頃にはまだ、ユダヤ人の絶滅は始まっていなかったのです。はじまるのは翌年の春先のことです。したがって、彼女は嘘をついている!……のでしょうか? Holocaust Controversiesブログサイトの常連投稿者であるセルゲイ・ロマノフは次のように述べています。
ガス室生存の物語が最近、メディアに頻繁に登場するようだ。そのような物語はすべて、先験的にありそうもない話であり、そのため、裏付けのない証言よりも、それらを受け入れるためにはより強力な証拠が必要となる。
もし、人々が何らかの部屋に追いやられ、そこにただ放置されたと主張され、生存者がナチスがガスを使い果たしたと推測する場合(例えば、クララ・マルクスのように、彼女は実際に1945年1月の出来事を描写しているが、アウシュビッツでのガス処刑が停止してから2ヶ月以上経過しており、彼女の信じることとは異なり、実際のガス処刑の前段階を描写しているのではないとわかる)、あるいはガス室が「故障した」場合(考えられる唯一の技術的故障は換気が機能しなかった場合だろうが、その場合、クレマトリウム4と5、そしてブンカー1と2のように、自然換気される地上ガス室を使用することができたはずだ)、人々は別のガス室で、あるいは翌日にガス処刑されたであろう。単に労働に送られることはなかったはずだ(特に、ガス室に選ばれたのは、原則として働けないユダヤ人であったという事実を考慮すると)。
もし、人々が部屋に追いやられ、ガスが注入されたが、何人かの人が生き残り、生き残ったという話であるならば、これはさらにありそうもない変種である。わずかながらガス処刑をかろうじて生き延びた個人の証言もあるが、彼らはその後、必然的にナチスによって殺害されている。
これらの物語の起源を説明するのは難しくない。混乱し、怯え、心的外傷を負った人々は、おそらくある種の噂を聞いてシャワー室に押し込まれ、最悪の事態を予想する。おそらく何か予期せぬことが起こるのだ。夜の間そこに放置されたり、シャワーから水が出なかったりする(例えば、スザンナ・ブラウンの物語のように、彼女が石鹸を持っていると描写しているのが正しいなら、彼女は実際には普通のシャワー室にいただけだった可能性が高い。一般的な伝説に反して、ナチスが囚人を騙すためだけに貴重な石鹸を浪費したという信頼できる一次情報源の証拠はないが、これを主張する伝聞の証言はたくさんある)。そして彼らはそれをガス室からの生還だと解釈する。あるいは、後で誰かが彼らにガス室にいたと誤って伝える(例えば、ゲナ・ターゲルの場合のように、彼女が実際にガス室にいたという唯一の情報源は、ある女性の主張だったようだ)。そして彼らはそれを信じるのだ。ほとんどの場合、それは正直な誤解に基づく経験である。これらの人々は、彼らの証言が正確ではないという事実にもかかわらず、嘘つきではない。
時には虚偽記憶が働いているに違いない。例えば、ガスが注入された(時には実際には使用されなかった方法で)という話の場合がそうだ。研究によると、虚偽記憶は比較的容易に構築される。ストレスと不確実性の条件下で、一部の生存者にそれが起こるのは不思議ではない。不慣れなシャワー室での実際の不快な経験の記憶が、頭の中で外部情報(噂、悪夢)と組み合わさり、失敗したガス処刑の記憶(ソフィア・リトウィンスカのような)を生み出すのだ。時には非常に鮮明なものもある(レジーナ・ビアレクのように、明らかに不正確な場合でも)。
(ちなみに、これは実際にガス室で働いていた囚人の証言とは異なる。ここで議論している信頼できない証人は、一回限りの重大な出来事について証言している。一方、ゾンダーコマンドの実際の証人は、場合によっては数ヶ月から数年間そこに働き続けなければならず、誤解の可能性は皆無であった。)
残念ながら、これらの物語を掲載するジャーナリストのほとんどは、批判的に検討することなくそれを行っている(自己選択が働いているのかもしれない。もし高齢の生存者の物語を出版するなら、通常はそれを批判するために行うのではなく、したがって書かれ、出版される記事は批判的ではない)。例えば、10月4日にオーストラリアのニュースサイトで公開された最新の記事がその典型である。「アウシュビッツガス室から少女を救った奇跡」:
「イヴォンヌの髪は剃られ、裸になることを強いられた。 しかし、メンゲレの決定にもかかわらず、イヴォンヌはガス室のように見える、シャワーヘッドのようなものが満たされたシンプルな部屋に連れて行かれた。 「私たちは服を脱がされ、髪を剃られ、そして — 今日まで、何が起こったのか本当に確信が持てません。 「それが何であるかまったくわかりませんでした — 私は非常にショックな状態で、何も考えられませんでした。恐怖で震えすぎて、泣くことさえできませんでした。」 裸の見知らぬ人々に囲まれ、暗闇の中で部屋に閉じ込められ、彼らは待った。恐れながら。 何も起こらなかった。 「ガス室が故障したに違いありません」と彼女は推測する。 「朝には行進して出され、その後、労働に就かされました。」」
もちろん、この物語には、それが通常のシャワー室ではなくガス室であったことを示唆するものは何もない。イヴォンヌ・エンゲルマンは正直だが混乱した証人である。しかし、著者のポール・エワートは、彼女の解釈を疑うことなく受け入れている。これは責任あるジャーナリスト(または歴史家)がすべきことではない。
<後略>
私自身もそんなに証言の扱いやその分析に長けているわけでもありませんし、ここで批判されているジャーナリストのように、誤った証言を信じていることもあるのだと思います。だけど、重要なことは、これら証言者が嘘をついているのではなく、記憶の誤りや、あるいは当時の心理的条件、または語られている証言に追加されている可能性のある後で聞いた話の影響など、証言はさまざまな要因で誤っていることがあると慎重に考えなければならないことなのです。これは、オーラルヒストリーを扱う上での鉄則のようなものなのです。
人間の「記憶」は曖昧であり、対象者があとから見聞したことが混在していることが少なくない。このため証言には、年代、人名,事実の経緯等、文書・史料等と矛盾するものが含まれている可能性は高い。ただここで重要なのは、文書・史料等が「真実」であり、証言が「正しくない」として、すぐに切り捨ててしまわないことである。
メディア研究部 広谷鏡子/吉田功/ NHK研究資料
したがって、正確な事実はわかりませんが、リトヴィンスカの証言は、シャワーの時の記憶が誤ってガス室の体験のように思い出されているのではないかと考えられます。

ソフィアも一応は、勘違いしている可能性もあるなど、証言の信憑性を検討しているかのように見せかけてはいますが、証言に誤りが含まれる理由は述べた通りそれだけではなく、もっと多様なものです。以下、ChatGPTにオーラル・ヒストリーとして証言を扱う上での注意点を回答してもらいました。

ここで冒頭で述べられているように、証言を取り扱う場合には「語られる内容が当時の客観的事実と一致するとは限らないため、他の史料や資料との照合・検証が必要」なのです。
もしある証言者の証言内容について、他の証拠と整合性が取れず、矛盾していて誤っていると考えられるのならば、それは単にその部分については歴史事実を構成する証拠としては使われないだけの話です。実際私たちは日常、そのような判定をしばしば行なっているはずです。アルバイトA君の「昨日100個ありました」と、アルバイトB君の「昨日は在庫ゼロでした」のどちらが正しいかを判定する場合、在庫データを確認して、パソコン上での100個を確認したら、アルバイトB君が何か誤解していた、で済むはずです。人間は間違うことがある――単なる当たり前です。
あと、このアダム・ビムコの証言についてですが、
Q:(アウシュヴィッツの)ガス室に入ったことがありますか。
A:はい。1944年8月、私は、収容所で医師として働いていました。ガス室送りに新しく選別された集団がやってきました。病人でしたので、毛布にくるま れていました。二日後、私たちは、これらの毛布をガス室から取ってくるように命じられました。悪名高いガス室を見たいと思っていたので、この機会をつかま えて、中に入りました。そこはレンガの建物で、カモフラージュするために周囲には木が植えられていました。最初の部屋で、私が暮らしていたのと同じ町から やってきた人物を見かけました。一人のSS軍曹もいて、彼は赤十字に属していました。この最初の大きな部屋に人々は服を置き、この部屋から第二の部屋に入 るといわれました。数百名が入ることができるほど大きな部屋であるとの印象を受けました。収容所にあるようなシャワー室・浴室に似ていました。天井には多 くのシャワーヘッドがあり、並列に並んでいました。この部屋に入った人々全員にタオルと石鹸が渡されたので、彼らは入浴するのだとの印象を持ったはずで す。しかし、床を見れば、排水溝がないので、入浴するのではないことは明らかでした。この部屋には小さなドアがあり、それは真っ暗で、廊下のように見える 部屋につながっていました。私は、小さな貨車の乗った、数列の線路を目撃しました。その貨車はローリーと呼ばれていました。ガス処刑された囚人はこの貨車 に載せられて直接焼却棟に送られたという話です。同じ建物の中に焼却棟があったと思いますが、自分の目で炉を見たことはありません。低い天井を持ったこの 部屋よりの数歩高いところに別の部屋がありました。二つのパイプがありましたが、それはガスを供給するパイプであったとのことでした。また、巨大な二つの金属製のガスボンベがありました。
ビムコが「ガスボンベ」と言っているからといって、それがガスボンベだったとは限りません。誰だか知りませんがその時一緒にいたSS隊員が、ビムコを揶揄って、デタラメを言ったのかもしれません。アウシュヴィッツ研究の専門家であるロバート・ヤン・ヴァン・ペルトだったと思いますが、リップシュタットvsアーヴィング裁判で、確かそのようなことを述べていたのを見た記憶があります。ヴァンペルトによればビルケナウの火葬場(のどれか)の天井裏にはガスボンベに似た装置か何かがあったそうです。このように、証言が単に誤っていることだけを見て、嘘をついてるだの信用できないだのと断定する前に、なぜそのような誤りを述べているのかについて、資料などから類推することも出来るのです。
しかし否定派は一般に、嘘をついているか・そうでないか(になることはありませんが)しか判断しないようです。
9-2 アウシュヴィッツ収容所のガス殺証人その2 チャールズ・ベンデル(ユダヤ人医師)

ダラダラとクソ長い会話劇が描かれているので読みにくくて仕方ないのですが、ともかくこの項はアウシュヴィッツのユダヤ人囚人医師であったチャールズ・ジギスムント・ベンデル(Charles Sigismund Bendel)が扱われています。

ホロコースト否定論に取り組み始めた初期の頃、名前を知ってすぐ検索、……しかしWikipediaの項目すらない人物のようで、その時に検索で見つけたのは以下の一枚の文書が掲載されたページでした。

チャールズ・シギスムンド・ベンデル供述要約
供述番号24
チャールズ・シギスムンド・ベンデル
職業: 医師
住所: パリ、メイラオ通り2番地
宣誓通り、以下の通り供述する。
私は30歳、ルーマニア国籍、ピアトラ生まれである。
恒久的な住所は上記のとおりで、現在そこに居住している。
私は1943年12月10日に初めてアウシュヴィッツに来て、1945年1月18日まで滞在した。ツィガーヌ収容所では医師として雇用された。それは3ヶ月間続いた。1944年6月から避難まで、ビルケナウの火葬場にいた。
アウシュヴィッツの火葬場は実際にはビルケナウにあり、そこで私の仕事は火葬場で働く900人の男性の医療上の世話をすることだった。これら900人の男性は他の囚人との接触を許されなかった。
地下に2つのガス室があり、それぞれ長さ約10メートル、幅5メートル、高さ1.5メートルであった。これら2つのガス室は火葬場1と2に死体を供給した。
火葬場3と4には、それぞれ長さ6メートル、幅3メートル、高さ1.5メートルの別のガス室が2つあった。
火葬場1と2のガス室の場合、ガスは屋根から注入された。火葬場3と4のガス室の場合、ガスは壁の小さな窓から入れられた。
ガス室を誰が建設したかは知らないが、1942年に建設されたことは知っている。それらは鉄筋コンクリート製で非常に頑丈だった。気密扉は非常に頑丈な木製だった。
ここで、私は1944年2月27日から1945年1月18日までビルケナウにいたことを述べたい。
ビルケナウでは衣服の消毒は煮沸によって行われた。ガスによる駆除はなかった。アウシュヴィッツ本体での衣服の消毒は、人を殺すためにも使用されるガス室を使って行われたことを知っている。
ビルケナウで人を殺すために使用されたガスは、シアン化水素酸、別名チクロンBだった。
使用されたチクロンBガスの量は以下の通りである。火葬場1と2に付属する2つの大きなガス室には、それぞれ2缶が必要だった。火葬場3と4に付属する小さなガス室には、それぞれ1缶が必要だった。缶は直径20〜30センチメートル、高さ約50センチメートルの円筒形だった。ガス室いっぱいの人々を殺すのに3〜5分かかった。
ガスは赤十字の救急車によって火葬場に運ばれていた。囚人たちが絶滅のために火葬場に到着してから約5分後に到着するのが常だった。どこに保管されていたかは知らない。
2つの大きなガス室にはそれぞれ1,000人、2つの小さなガス室にはそれぞれ500人を収容するのが通常だった。
ガスの缶は常にアウシュヴィッツからビルケナウに運ばれてきた。
この文書が何の文書か知らないのですが、ベンデルは戦後に実施されたベルゼン裁判と、テッシュ裁判に証人として出廷しており、テッシュ裁判の文書史料が上記文書と同じサイトに上がっているので、上の文書はおそらくそのテッシュ裁判の時のものだと推測されます。
で、この資料を読んでも分かる通り、高さ1.5mしかないガス室だとか、青酸ガス(チクロンB)による衣服の害虫駆除はなかった、などの非常に怪しい(間違った)記述があり、ベンデル医師は否定派が諸手を挙げて喜びそうな証言をしていたことは間違いありません。ソフィアも証言を検討する前からこう述べています。

さて、ソフィアの批判はまず、ベンデルの述べたメンゲレ医師についての証言から始まりますが、ヨゼフ・メンゲレはアウシュヴィッツのことをよく知らない人でさえも知っているほどの、かなり有名な人物であるにも関わらず、私は実はほとんど知りません。私の興味が偏っているからですが、全然調べてないのです。時折、メンゲレについて世間的に言われていることの多くは伝説に過ぎない、のような話を定説側の人からちらほら聞くこともあります。とは言え、アウシュヴィッツ収容所の囚人の間ではひどく有名だったらしく、双子の子供を使った人体実験の話は広く知れ渡っていると思います。
ソフィアはこのメンゲレによる双子を用いた人体実験について強く懐疑的ですが、例えばアウシュヴィッツの元囚人の証言者として有名なエヴァ・モゼス・コールは、メンゲレの双子実験の犠牲者だと自ら証言しています。彼女の証言は、BBS制作の『アウシュヴィッツ ナチスとホロコースト』や、YouTubeなどでも数多くの動画で見ることも出来ます。もちろん、否定派は犠牲者自身の証言であろうとも、「嘘をついているに違いない」として却下してしまいます。

しかし、メンゲレの人体実験に関する当時の記録は、メンゲレの恩師でもあるカイザー・ヴィルヘルム協会の人類学・人類遺伝学・優生学研究所の所長であったオトマール・フォン・フェアシュアーによって、全て処分されてしまったこともよく知られている通りで、文書記録がないことから否定派が「当時の証拠史料もないのに信じられっかよーw」と喜んで否定したがるのも無理もないことです。
さて、この記事もちょっと丁寧すぎたようで無駄な部分は飛ばしてしまいましょう。


このときには、ウッジのゲットーからの80000名がガス処刑されました」
<中略>
150名のロシア人とポーランド人が射殺されたというのは何を根拠に言っているのだ?
『アウシュヴィッツ・カレンダー』にはそれについて何も書いてないぞ。
あと、ポーランド中部の大都市ウッジから移送されたユダヤ人がアウシュヴィッツに到着したのは1944年11月で、人数も10倍多い。
人数以前に1944年8月の時点ではアウシュヴィッツにいなかったユダヤ人をどうやって殺したのだ?
「150名のロシア人とポーランド人が射殺されたというのは何を根拠に」って、それはベンデルの証言部分ですから無視するとして、8万人のウッチ(リッツマンシュタット)・ゲットーからのユダヤ人を1944年8月ごろに処刑した事実は、ソフィアが読んでいるわけもないダヌータ・チェヒの『アウシュヴィッツ・カレンダリウム(アウシュヴィッツ・クロニクル)』には書かれていないだけなのです。チェヒのカレンダリウムはアウシュヴィッツでの出来事を、日毎にまとめた出版物ですが、それはチェヒが調査できた範囲にとどまり、全てを記録しているわけではありません。
カレンダリウムについてはオンラインで公開されているイタリア語版を用いて少しだけ翻訳公開していますが、あんまりにも量が膨大すぎて途中で止まってます。単純作業なので集中力が続かなくて……。
マットーニョは間抜けにもこんなことを言っていますが、

それなら、ガス処刑等の血生臭い話もカレンダリウムにはたくさん書かれているのですが、マットーニョはどうしてそれらを無視するのでしょうか? というか、虐殺派ではないマットーニョがアウシュヴィッツ博物館の研究者であったダヌータ・チェヒのカレンダリウムを参照する意味がわかりません。さて、マットーニョは、
ウッジからのユダヤ人の最初の移送者がアウシュヴィッツにやってきたのは、1944年11月であったからである[30]。
と書いていますが、マットーニョが目の敵にしていた論敵の一人であるロバート・ヤン・ヴァン・ペルトによると、
ウッチの統計局によると、8月と9月には73,563人のユダヤ人がウッチから強制移送され、そのほとんどがアウシュビッツに送られたという。
だそうです。したがって、この数字が正しいのであれば、ベンデルの証言にある8万人とそう大差はないことになります。

「1時間で処理できた」については、ベンデル自身は壕の中までは見ておらず、少し離れたところから見ていて、壕から上にはみ出た部分の遺体が見えなくなるくらいまでしか見ておらず、その時間を1時間と言っている、のように思えます。
遺体焼却中に遺体から流れ出る液体状の油を、壕の底に溝を掘ってそこから流れていった部分に溜めて、その油を死体の山にかけて遺体の燃焼促進に使っていた、という話は他の証言でも出てくる話です。例えば、
当時、死体は露天掘りで焼かれ、そこから脂肪が地面の別のタンクに流れ込んでいました。その脂肪は火葬のスピードを上げるために、死体の上に注がれていました。
これらの、死体から脂肪が流れ出た、という話は他にもたくさんあります。
脂肪の融点など大して高くもない(40〜60℃程度)ので、燃焼するよりも先に肉から垂れてしまうことくらい、焼肉をしたことのある人なら誰でも知っているでしょう。そして、その溶け出した脂肪がよく燃えることも。
ソフィアは「人間の体が灰になる温度なら脂肪とかグリースなんて流れる前に蒸発しちゃう」などと馬鹿なことを言っていますが、物を加熱した瞬間に温度が高熱になることなどあるわけもありません。しかもそのすぐ後で「人間の体の7割は水分なんだから、こんなアホなやり方で一時間で人間が灰になるわけないじゃない」などと即座に矛盾したことを言うのですから、ソフィアの脳内には「とにかく屁理屈でも何でもいいから否定する」しかないことがわかります。
あと、「酸素が足りないから壕の中じゃ燃えない」については、だったら、壕内に新鮮な空気を送り込めるようにすればいいのです。例えば、壕の断面を逆三角形のように底に行くほど狭くするように掘り、その中央部分で遺体を焼くようにすれば、壕の周囲から新鮮な空気が底に流れるようにすることもできるでしょう(熱せられた空気は軽くなるので、対流が起こるから)。
・・・
こんな感じで細かく細かく反論してたら終わらないので、否定派が無視している点を指摘してベンデル編は終わりにしたいと思います。
否定派が無視している点とは、ベンデルの証言には他の証拠で裏付けが取れる部分がかなりあるという点です。これは以前、Holocaust Controversiesブログサイトの記事を翻訳している時に知りました。以下にその部分を示します。
メンゲレをSS医師として、エプシュタインをジプシー収容所の囚人医師として正確に特定した。
メンゲレの研究テーマが「双子」であり、1944年2月27日までにジプシー収容所に1万1000人の囚人が収容されていたこと(この数字はルドルフ・ヘスの自伝的メモで確認されている。「私はその区画が1万人用に計算されており、完全に占有されていたことを知っている」とアウシュヴィッツ裁判のDVDから私が翻訳したもの。この日までアウシュヴィッツでは約1万9000人のジプシーが登録されており、囚人の損耗を考慮すると、この数字は確かに正しいオーダーである)、
1944年7月末に4300人のジプシーが殺害され、1500人が労働のために残されたこと(ペリー・ブロード:「1944年7月、事態は決着した。ヒムラーは適格な[ジプシー]は収容所に留まり、残りはガスで殺すよう命じた」、ルドルフ・ヘス:「1944年8月までには約4000人のジプシーが残っており、ガス室に行かなければならなかった」、付録U、修正コーナー#4:アウシュヴィッツ博物館とジプシー犠牲者の数、1944年8月2日のジプシーガス室送致に関する興味深い証言も参照)、
火葬場で働いていた人々が900人の囚人と呼ばれていたこと、
各火葬場に3人のSSゾンダーコマンドもいたこと、
SS駐屯地医師としてのヴィルツ(記録ではヴルツ博士と誤記)、
ゾンダーコマンドの責任者としてのモル、
囚人のゾンダーコマンドが施錠されたブロックに住んでいたこと(スタニスワフ・ヤンコフスキは1945年4月にポーランドで「ビルケナウでは、私たちはセクションDのブロック13に収容された…ブロック13は閉鎖されたブロックだった」と述べている。Inmitten des grauenvollen Verbrechens、43ページ以降からの私の翻訳)、
1944年8月のウッチからの8万人のユダヤ人の絶滅、
火葬場5の後ろにある12×6mの3つの火葬溝(1944年の空中写真では12〜30m×3〜6mの様々な大きさの4〜5箇所の火葬場が示されている。ゾンダーコマンドの地上写真では1944年8月下旬に稼働中の火葬溝が示されている)、
火葬場5の1日あたり1000体の遺体処理能力、
火葬場5の庭での犠牲者の脱衣、
赤十字の車両がガスを積んで到着するまで、犠牲者が大きなホール(火葬場の建設図面で炉室とガス室の間に示されている)で待っていたこと(ゾンダーコマンドの匿名の著者による手書きの記録[1943-1944年に書かれ、1952年に火葬場3の近くで掘り出された]、Inmitten des grauenvollen Verbrechens、179ページ以降、およびサルメン・レヴェンタール[1944年10月以前に書かれ、1961年に火葬場3の近くで掘り出された]、Inmitten des grauenvollen Verbrechens、220ページで確認)、
ガス室の低い屋根、
髪の毛の切断(ヘンリク・タウバーが1945年5月にポーランドで確認)と金歯の除去(スタニスワフ・ヤンコフスキが1945年4月にポーランドで、ペリー・ブロードが1945年7月にドイツで確認)、
火葬溝での人々の射殺、
ビルケナウの司令官としてのクラーマー、
1944年10月7日のゾンダーコマンドの反乱(反乱は1944年10月12日の駐屯地命令で裏付けられている[1944年10月7日にSS隊員3人が殺害された])、
300人のゾンダーコマンドが移送される予定だったため(サルメン・レヴェンタールの手書きの記録で確認。「翌日、すなわち1944年10月7日、私たちは300人が正午までに移送される予定だと知った」、Inmitten des grauenvollen Verbrechens、241ページ)、
500人のゾンダーコマンドが死亡したこと(1944年10月8日と9日の労働力報告で火葬場労働者が661人から212人に減少したことで裏付けられている)、
火葬場4が放火されたこと(労働力報告における労働力不足で裏付けられている。Mattogno, Auschwitz: Open Air Incinerations、73ページ参照)、
ユニオン弾薬工場からの少女たちによるゾンダーコマンドへのダイナマイトの供給(サルメン・レヴェンタールの手書きの記録、Inmitten des grauenvollen Verbrechens、230ページ、およびペリー・ブロードが1945年7月にドイツで確認)、
そして1944年12月に4人の少女が絞首刑にされたこと(スタニスワフ・ヤンコフスキが1945年4月にポーランドで確認、Inmitten des grauenvollen Verbrechens、56ページ。チェコ、カレンダリウム、957ページによると処刑は1945年1月6日に行われた)、
ビルケナウには4つの火葬場とガス室のみだったバンカーがあったこと
否定派は、「ムジュン」にはうるさいのに、合っている部分を無視する傾向があります。というか、一致している点については完全に無視です。しかし前述した通り、証言を扱う場合、人間が間違う可能性を当然考慮した上で、他の証拠と照らし合わせて慎重に判断されなければなりません。その上で、その証言のどこまでが信頼できるか、あるいはできないかが判断されなければならないのです。
中でもベンデルの場合、彼はゾンダーコマンド囚人らに対する囚人医師であり、その人数を900人と述べている点を無視することはできません。この900人という数は、当時火葬場の作業員の数を記録した文書が残っており、極めて正確であることがわかります。これは、ベンデルがそれら囚人を本当に担当していたことを強力に示唆しています。
従って、ベンデルの証言は、部分的には信頼できない部分もあるが、全面的に信頼できない証人であるとすることはできません。
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