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石版画から読み解く軍楽隊の実像

黒船の軍楽隊 その20

 1853年のアメリカ合衆国海軍東インド艦隊には軍楽隊が乗船しており、沖縄および日本各地において「コロンビア万歳(Hail, Columbia)」「星条旗(The Star-Spangled Banner)」「ヤンキー・ドゥードル(Yankee Doodle)」などの楽曲を演奏しました。さらに、横浜・函館・下田・那覇の4か所において演奏会が開催されており、これらのプログラムも現存しています。
 その編成の詳細については明確ではありませんが、軍楽隊の姿は6点の石版画に確認することができます。本稿では、これらの石版画をもとに検討を行います。

見出し画像 : 小田原湾の荒波の中を航行する、アメリカの外輪式蒸気フリゲート艦2隻と大型手漕ぎボート (AIによる彩色)
(ハイネによる自然描写、ウォークによる船舶描写;ニューヨーク、サロニー社製リトグラフ)


黒船とは

 16世紀後半から17世紀初頭にかけて日本に来航したポルトガルやスペインの大型帆船(カラック船やガレオン船)は、船体の腐食やフナクイムシによる被害を防ぐため、木材にピッチ(煤を混ぜたタール)を塗布して保護していました。そのため船体は黒く見え、日本人がこれを「黒い船」と認識し、一部の記録では「黒船」と記されましたが、この時期に「黒船」という呼称が現在のような「外来船の総称」として一般的に定着していたかについては、必ずしも明確ではありません。
 その後、19世紀半ばになると、蒸気機関を備え黒煙を上げて航行する欧米の軍艦が来航し、「黒船」という語はこうした外来船を指す呼称として広く定着していきます。とりわけ1853年に浦賀へ来航したアメリカのペリー提督率いる東インド艦隊は、その代表例として最も広く知られています。この「黒船来航」は当時の日本に大きな衝撃を与え、長く続いた鎖国体制が終わる契機となりました。

ペリー来航地図

マカオ 1853年 04月07日〜04月28日
上 海      05月04日〜05月17日 
琉 球      05月26日〜06月09日
小笠原      06月14日〜06月18日
琉 球      06月23日〜07月02日
久里浜(浦賀)    07月08日〜07月17日 米国大統領の親書を手渡し
琉 球      07月25日〜08月01日
マカオ 1853年 08月07日〜1854年 01月14日
琉 球 1854年 01月20日〜02月07日
横 浜      02月13日〜04月18日
         日米和親条約(3月31日 : 嘉永7年3月3日)
下 田      04月18日〜05月11日
箱 館      05月17日〜06月03日
下 田      06月07日〜06月28日
        下田条約(6月20日 : 嘉永7年5月25日)
琉 球      07月01日〜07月17日
         琉米修好条約(7月11日 : 咸豊4年・嘉永7年6月17日)

琉球王国

 ペリーは1853年5月26日、日本本土への来航に先立って琉球王国を訪れ、開国を促しました。また、琉球列島の測量・調査も行うなど、その後も琉球王国は日本遠征における中継地として活用されました。6月6日には、開国を求める文書を首里城に届けています。
 その様子をペリーが率いるアメリカの東インド艦隊の随行画家であるヴィルヘルム・ハイネ *1により描かれています。 図1画面中央部に約20人編成、左には10人編成ほどとみられる軍楽隊が2隊小さく描かれています。 図2
 ハイネの作品は、石版画・水彩画・油彩画として残されており、《図1》は彩色石版画にあたります。なお、この石版画は、同じく随行画家・写真家であったエリフアレット・ブラウン・ジュニア *2が制作監督を務めたものです。

「ペリー提督、士官および戦隊隊員の帰還」 《図1》
およそ20人編成と10人編成ほどの2隊の軍楽隊 《図2》

 画面中央部には、ドラム3台と、オーバー・ザ・ショルダー・サクソルンと思われる金管楽器奏者が複数名描かれており、全体として約20人編成の軍楽隊のように見受けられます。左10人編成にはドラム2台と、笛そして金管楽器奏者が複数名描かれているように見えます。
 ベイヤード・テイラー * 3の「インド・中国・日本への訪問記」 * 4第30章(琉球の首都訪問)によれば、ミシシッピ号の軍楽隊員約30名は、約1時間の行軍の間に交代で「陽気な音楽」(「ヤンキー・ドゥードゥル」などと考えられる)を演奏し、首里城入場の際には「コロンビア万歳」が奏されたと記されています。しかし、この約30名の編成の詳細については、《図2》から確認することは困難です。

黒船の軍楽隊 その2

* 1 ヴィルヘルム・ハイネ(Wilhelm Heine 1827-1885)
* 2 エリフアレット・ブラウンJr.(Eliphalet Brown Jr.1816-1886)
* 3 ベイヤード・テイラー(Bayard Taylor, 1825 - 1878)は、アメリカの詩人、文芸評論家、翻訳家、旅行記作家、外交官。
* 4 A VISIT TO INDIA CHINA AND JAPAN IN THE YEAR 1853 by BAYARD TAYLOR NEW YORK : G.P.PUTNAM & CO., l0 PARK PLACE. LONDON: SMPSON LOW,SON & CO.1855.は、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊(黒船)に合流し、日本への最初の来航(浦賀来航)の様子などを記録した資料

久里浜 (Gori-hama)

 久里浜はペリー上陸の地として知られ、 現在はペリー上陸記念碑やペリー記念館があります。ここでペリーは米国大統領の親書を幕府側に手渡しました。

1853年7月14日

 テイラーの『インド・中国・日本への訪問記』第34章には、日本への最初の上陸の様子が記されており、その情景は二枚の石版画としても残されています。《図3》は、琉球を描いた《図1》と同様に、ハイネが原画を描き、ブラウンが制作監督を務めた彩色石版画です。

「日本への最初の上陸」 《図3》
10数人の軍楽隊 《図4》

 ここには、大太鼓・小太鼓に加え、木管楽器奏者と思われる人物、さらにその背後には複数の金管楽器奏者が描かれており、全体としてはおよそ十数名規模の軍楽隊として表現されています。ただし、この場面における具体的な編成の詳細については、《図4》のみから判断することは難しいと言えます。

セヴェリンによる石版画

 1853年7月14日久里浜上陸の様子を描いたもう一枚は、チャールズ・セヴェリン 5による彩色石版画 図5です。 
 作者のセヴェリン自身は来日しておらず、随行記者テイラーによる報道記事などを基にしてこの絵を制作しました。そのため、画面右下に描かれた見物人 図6をはじめ、背景の建造物、さらには日本兵の軍装や船舶の形状にいたるまで、ペリー一行以外の描写には清朝(中国)の風俗が強く反映されています。
 これは、当時まだ未知の国であった日本の実情を、アメリカ国内で入手可能であった中国関連資料によって補い、不足する情報を想像で補完成したためと考えられます。

「日本への最初の上陸」 《図5》
ペリー上陸の様子を見物する弁髪姿の人物《図6》

 砂袋を積み上げて急ごしらえした桟橋が、湾奥の三日月形の浜の中央付近に設けられていた。上陸隊を率いるブキャナン艦長が、真っ先に浜へ飛び降りた。続くボートは次々と桟橋の脇に寄せ、上陸護衛に割り当てられた乗員を手早く降ろすと、すぐに沖合へ五十ヤードほど漕ぎ戻った。
 上陸した水兵と海兵隊員はすぐに整列し、浜辺に堂々とした隊列を形づくった。各分隊を率いたのは、ブキャナン艦長とウォーカー艦長、ギリス中尉、テイラー中尉であった。水兵隊の指揮は、サスケハナ号のデューア中尉、ミシシッピ号のモリス中尉、プリマス号のマシューズ中尉、そしてサラトガ号のスコット航海士が担当した。
 その他の将校を含め、上陸したアメリカ側は総勢320名を超えていた。一方、日本側の兵力は、彼ら自身の説明によれば五千名に達していた。こちらの内訳は、海兵隊112名、水兵約120名、将校50名、そして30〜40名の楽隊員であった。
 浜から百ヤードほど離れた場所には、日本側の先頭部隊がやや緩い隊形で並んでいた。彼らの前列は浜全体に広がり、右側は「ゴリハマ」の村に接し、左側は湾の北側を囲む急斜面に寄り添っていた。大部分の兵は幕の後方に配置され、後方に密集する人数から、一部の将校はその兵力を五千よりむしろ一万に近いと見積もった。
 前列の兵は刀、槍、火縄銃で武装しており、服装は一般的な日本の衣装と大きくは変わらなかった。また、中国の馬よりも大柄で優れた馬が多数見られ、後方には騎兵隊の姿も確認できた。村の近くの斜面には、女性を含む多くの住民が集まり、この出来事を一目見ようと見物していた。
 サスケハナ号から礼砲が放たれ、ペリー提督はアダムズ艦長や補佐官コンティ中尉ら幕僚を伴って上陸に向かった。兵たちが整列を終えるか終えないうちに、提督の乗った将官艇が岸へと近づいてきた。
 提督の護衛を務める将校たちは桟橋から二列に並び、提督がその間を進むと、列の後方へと整然と続いた。提督は定められた儀礼に従って迎えられ、一行はすぐに応接の場へ向けて行進を開始した。
 提督の将旗を掲げる役には、屈強な上等水兵が選ばれ、完全武装した背の高い黒人水兵二名がその両側を固めた。その後ろには、大統領の書簡と提督の信任状を、緋色の布で包まれた豪華な箱に収めて運ぶ二人の少年水兵が続いた。
 その後に、提督自身が幕僚と護衛の将校たちを従えて進んだ。行列の先頭を務めたのは、ゼイリン少佐の指揮する精鋭の海兵隊で、ミシシッピ号から派遣されたスラック大尉率いる分遣隊も加わっていた。最後尾には、各艦から選抜された水兵隊が続き、行列の殿を固めた。

 ベイヤード・テイラー『インド・中国・日本への訪問記』第 34 章  P.427-429
1853年7月14日(嘉永六年六月九日) 《図7》

 《図7》に描かれた軍楽隊は約20名規模で、オーバー・ザ・ショルダー式サクソルンと複数の打楽器から構成されることが確認できます。これは、ベイヤード・テイラーの記述する「30名規模の軍楽隊が交代で演奏した」という証言を、当時一般的であった軍楽隊の編成として視覚化したものと解釈するのが妥当です。

 なお、船への帰還の際、軍楽隊は、「ヘイル・コロンビア」および「ヤンキー・ドゥードゥル」をこれまで以上に熱心に演奏したと記されています。また、テイラーの書籍全体を通じて確認できる具体的楽曲名としては、他に「星条旗(The Star-Spangled Banner)」があります。

黒船の軍楽隊 その1

* 5 チャールズ・セヴェリン(Charles Severyn, 1820頃 - 没年不詳)は、19世紀半ばにアメリカ・ニューヨークを拠点に活動したポーランド系アメリカ人のリトグラフ(石版画)家・画家とされるが、その詳細は不明です。

江戸湾ペリー関連地図

横浜

 1854年3月8日、ペリー艦隊要員総勢446人が横浜に上陸し、横浜応接所で最初の日米の会談が行われました。 図8
 その上陸の様子が描かれたハイネ作の石版画には、軍楽隊が確認できませんが、ここでも軍楽隊が「ヘイル・コロンビア」「ヤンキー・ドゥードゥル」「星条旗」などを演奏したと考えられます。

1854年3月8日上陸の様子《図8》

黒船の軍楽隊 その3

ポータハン号

 ペリー提督が横浜に上陸してから19日後の3月27日(嘉永7年2月29日)、ポーハタン号では日本側交渉人とその随行員を招いた歓迎夕食会が開催されました。
 その後甲板こうかんぱんの様子が、ハイネが原画を描きブラウンが制作監督を務めた彩色石版画 図9に残されています。

ポーハタン号甲板での日本交渉委員歓迎夕食会 《図9》
15人編成ほどの軍楽隊 《図10》

 ここには、大太鼓・小太鼓に加え、複数の金管楽器奏者が描かれており、全体としてはおよそ15名ほどの軍楽隊が描かれています。
 ただし、具体的な編成の詳細については、《図10》のみから判断することは難しいと言えます。なお、この歓迎夕食会でのプログラム 図11も残されています。

歓迎夕食会プログラム 《図11》

黒船の軍楽隊 その4

下 田

 箱館滞在後の1954年6月8日(嘉永七年5月10日)、2回目の下田訪問の様子がハイネ作の石版画に描かれています。

「ペリー提督、将校および兵士の上陸」 《図12》
1954年6月8日(嘉永七年5月10日)  《図13》

 この絵の中心部分を見ると10人編成ほどの軍楽隊 図13が描かれています。ドラム奏者がおそらく2名おり、ここでもオーバー・ザ・ショルダー・サクソルンと思われる金管楽器やホルン奏者も描かれているように見えます。

了仙寺

 1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に、日米和親条約が締結により開港された下田の了仙寺は、その細目を定めた下田条約の締結会場となりました。
 この下田了仙寺における軍事調練の様子が、ハイネ作の石版画 図14に描かれています。

了仙寺境内での軍事訓練 《図14》
17人程の楽隊員《図15》

 ここには、大太鼓・小太鼓を含め、およそ17名ほどの軍楽隊が描かれています。具体的な編成の詳細については、《図15》のみから判断することは難しいものの、少なくとも4種の金管楽器 図16が確認できます。

4種と思われる金管楽器 《図16》

 なお、ここに描かれた大太鼓は、大英博物館所蔵の「ペリー絵巻」に含まれる「楽器鳴物兵糧入銀銭銅銭ボタン仐ノ図がっき なりもの ひょうろういれ ぎんせん どうせん ボタン かさのず 図16に描かれているもの 図17と同一の図柄だと考えられ、日米双方の画家が忠実に描写していることがわかります。
 また、この図に描かれている金管楽器も、了仙寺境内のものと同種である可能性が考えられます。

楽器鳴物兵糧入銀銭銅銭ボタン仐ノ図  《図16》
「楽器鳴物兵糧入銀銭銅銭ボタン仐ノ図」の大太鼓と小太鼓《図17》

黒船の軍楽隊 その6

黒船来航と「音の可視化」―軍楽隊の実像に迫る

  本稿では、1853年から1854年にかけてのペリー艦隊の行動を対象に、記録文献と石版画という二種の史料を突き合わせることで、軍楽隊の実像に迫ってきました。
 文献史料からは、「コロンビア万歳」「星条旗」「ヤンキー・ドゥードゥル」といった具体的な演奏曲目や、約30名規模で交代演奏が行われていた実態が明らかになります。一方、石版画には、琉球・久里浜・横浜・下田といった各地において、10名から20名規模の軍楽隊が繰り返し描かれており、打楽器と金管楽器を中心とする編成の存在が視覚的に確認できます。
 これら両者を照合すると、軍楽隊は状況に応じて複数隊に分かれて運用され、行進・儀礼・演奏といった機能ごとに編成規模が変化していたことがわかります。すなわち、石版画に描かれた「10〜20名規模の楽隊」は、30名規模の軍楽隊の一部を切り取った姿と考えることができます。
 さらに注目すべきは、日米双方の図像資料において、楽器の形状や細部表現が高い一致を示している点です。これは、当時の軍楽隊の実態が比較的忠実に記録されていたことを示すと同時に、石版画が単なる想像図ではなく、一次史料としての価値を持つことを裏付けています。
 こうした軍楽隊は、単なる娯楽や儀礼の付属物ではありませんでした。上陸、行進、会談、饗応といったあらゆる場面において音楽は用いられ、視覚的威容と結びつくことで、異文化間の接触を演出する重要な役割を担っていました。軍楽隊とは、「音による外交装置」であったと言えるでしょう。

 黒船来航は、日本に近代への扉を開いた出来事として語られますが、その場に響いていた音に目を向けると、そこには近代音楽受容の萌芽とも言うべき、もう一つの歴史が存在していたことが見えてきます。横浜・箱館・下田・那覇で開催された音楽会や、それぞれの地における上陸や移動の際の演奏を通して、多くの日本人が吹奏楽と接する機会を得たと考えられます。
 ペリーの軍楽隊は、その活動に関する記録が多数残されていることからも、音楽活動に重要な役割が与えられていたことがうかがえます。そして、その音楽は多くの日本人の耳と心に届いていたに違いありません。
 誤解をおそれずに言えば、「黒船の軍楽隊は日本の吹奏楽の始まり」と位置づけることもできるのではないでしょうか。

HIRAIDE HISASHI


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黒船の軍楽隊 その00ゼロ  【改訂版】
 
日本の吹奏楽はどこから始まったのか?
黒船の軍楽隊 その1
 
黒船とペリー来航

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黒船の軍楽隊 その5 オラトリオ「サウル」HWV 53 箱館での演奏会
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黒船の軍楽隊 その7 下田そして那覇での音楽会開催
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黒船の軍楽隊 その12 ペリー以外の記録 – 2 (阿蘭陀の2) 
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黒船の軍楽隊 その20
  石版画から読み解く軍楽隊の実像


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