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原付で八王子から富山まで15時間走った日

18歳の春だった。

大学へ入って、まだ数か月。

東京での暮らしにも、少しずつ慣れ始めた頃だった。

その時、ふと思った。

自分の力で、富山へ帰ってみよう。

今なら、人には勧めない。

50ccの原付で、八王子から富山まで走るなんて。

距離もある。

峠もある。

天気が崩れれば、体は冷える。

道を間違えれば、時間も体力も削られる。

けれど、あの日の私は、それができると思っていた。

若さというものは、無謀さとよく似ている。

でも、ときどき、その無謀さが人を遠くまで連れて行く。


午前4時だった。

まだ暗い八王子の住宅街で、ハスラー50のキックペダルを踏んだ。

小さなエンジン音が、濡れたアスファルトに響いた。

近所の犬が1度だけ吠えた。

それだけだった。

荷物は少なかった。

着替え。

財布。

1枚の地図。

それで十分だと思っていた。

今思えば、ずいぶん簡単な準備だった。

でも、18歳の私は、それで世界を越えられると思っていた。

八王子の街灯が、少しずつ後ろへ流れていった。


地図では簡単だった。

東京から長野へ向かう。

山を越える。

日本海側へ抜ける。

そして富山へ行く。

指でなぞれば、一本の線だった。

けれど、実際の道は線ではなかった。

そこには坂があった。

風があった。

寒さがあった。

疲れがあった。

地図には書かれていないものが、たくさんあった。


碓氷峠に入ると、エンジンの音が変わった。

平地では軽く回っていた音が、苦しそうになった。

アクセルを開けても、速度は上がらない。

原付は正直だった。

小さな車体で、持っている力を全部使っていた。

後ろから車が来るたび、私は道の端へ寄った。

急ぐことはできなかった。

ただ、止まらないことだけを考えた。

何度か思った。

戻ったほうがいいのではないか。

まだ朝だった。

引き返すことはできた。

でも、戻ったところで富山には近づかない。

私は、そのまま進んだ。


峠というのは、不思議だと思う。

登っている間は、終わりが見えない。

目の前のカーブを1つ曲がる。

次の坂を登る。

また曲がる。

それを繰り返しているうちに、いつの間にか頂上に着いている。

人生も、少し似ているのかもしれない。

苦しい時間の中にいる時は、いつ終わるのか分からない。

でも、一歩ずつ進んでいると、ある瞬間、景色が変わる。


峠を越えた瞬間、空が広かった。

道は下りになった。

エンジンの音が少し軽くなった。

その時、初めて体の力が抜けた。

野尻湖で、原付を止めた。

理由は分からない。

ただ、止めたかった。

エンジンを切ると、急に静かになった。

湖は鏡のようだった。

山が映っていた。

空の青が、水の中にもあった。

グローブを外すと、指先が冷えていた。

長くアクセルを握っていた手には、しびれが残っていた。

しばらく、何も考えずに眺めていた。

富山までの距離も。

残りの時間も。

その瞬間だけは、遠くにあった。

旅は、目的地へ着くことだと思っていた。

でも、途中にも残るものがある。

その時、初めてそう思った。


私はまたヘルメットをかぶった。

キックペダルを踏んだ。

まだ先に、日本海があった。

日本海が見えたのは、午後だった。

山を抜けると、視界が急に広がった。

水平線が見えた。

海だった。

野尻湖とは違う、大きな水だった。

どこまでも続いていた。

風が強かった。

潮の匂いがした。

海沿いの道を走った。

エンジンの音と波の音が重なった。

八王子を出た時、私はただ富山へ帰ろうとしていた。

でも、その時には分かっていた。

思っていたより遠くまで来たのだと。

地図では一本の線だった道が、

山になり、

湖になり、

海になっていた。


富山に着いたのは19時だった。

15時間走っていた。

腰は痛かった。

手はしびれていた。

肩には力が残っていた。

エンジンを切った。

音が消えた。

長い間聞いていた小さな振動だけが、耳の奥に残っているようだった。

足を地面につける。

体が少し遅れて、到着したような気がした。

無事に着いた。

ただ、それだけだった。

でも、18歳の私には、それで十分だった。


4時の八王子。

19時の富山。

その間に、

碓氷峠があり、

野尻湖があり、

日本海があった。

地図の線は、記憶になった。

今なら、あの旅を人には勧めない。

危ないこともあった。

無謀だったと思う。

けれど、あの日の自分には、あの距離が必要だったのだと思う。

東京へ出てきたばかりの18歳の私は、まだ自分がどこまで行けるのか知らなかった。

だから走った。

遠くまで行けることを、確かめたかった。

あの朝、八王子で踏み込んだキックペダル。

小さなエンジン音。

あの音を、私は今でも覚えている。



あなたにも、なぜか忘れられない景色や言葉はありますか。
よければ、そっとコメントに置いていってください。


近い記憶の場所にある文章



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