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墓の魚ユニバース・オーケストラ:死のシミュラークとゴシック・パロディの学術的解剖Ⅱ

こんにちは。
海洋生物と死のオーケストラ
「墓の魚ユニバース・オーケストラ
(
Tomb Fish Universe Orchestra)」
作曲家です♪

今日は私の作ったオーケストラの紹介を
優しさなく(笑)
本の様に解説していく第二段です(笑)

今回は、
詩を交えて解説していきますよ。

第一弾はこちら↓↓

墓の魚ユニバース・オーケストラ
(Pez de Tumba Universe Orchestra)
は、
海洋生物の腐敗と、
キリスト教神学を交錯させ、
17世紀オランダの
ヴァニタス絵画(Vanitas)の無常観を
現代の詩的・音楽的パフォーマンスとして
再構築する事を特徴とする。

海洋生物学、細菌学を、
キリスト教音楽的に主題にした
クラシック音楽は、
世界的に見ても他に類のない事例である。

そのヴァニタス絵画的な
表現技法
とは何であろうか?

以下、[墓の魚]の二つの詩

「大量に打ち上げられた
ヒトデ達の死骸に幸いあれ(アルガエのファド)」

「メキシコハマグリと
ラッコの大量死における十字架の御業」

を例に、
[墓の魚]の特徴である
神学と海洋生物学の融合、
そしてヴァニタス絵画的表現
について解説する。

●ヴァニタス

16世紀のヴァニタス絵画は、
絵の中で
髑髏腐敗する果物砂時計を描き、
物質的栄華(果物)の無意味さ(骸骨)と、
死の不可避性(砂時計)を訴えた。

墓の魚ユニバースは、
この視覚的伝統を、
海洋生物学の中の記号に置き換え、
詩として再定義する特徴を持つ。

ヴァニタス絵画で提示される
存在の虚無は、
海洋生物の死骸を通じて風刺され、
時に人間社会への
アンチテーゼとして響く。

以下に、詩を例にあげる。


■■■■■■■■■■■■■■■■■

「大量に打ち上げられたヒトデ達の死骸に幸いあれ
(アルガエのファド)」
黒実 音子



やぁ、船乗りよ。
打ちひしがれた
ファディスタよ・・

世界の悲惨さを見たいのなら・・
海という
感情の無い深淵(アビスモ)の
無数の十字架の墓地を
見たいのなら・・
ある時、無人の海岸線を埋め尽くす
アステリアス・ブルガリス・ベリル達の
打ち上げられた山の様な
死骸(シャルニエ)を見るがいい。

北方の
棘皮類(ブルガリス)達の
裏返った臓物と、
それを啄む海鳥達の
限りない無感情な
欲望の尋常性を!!

そうだ、兄弟・・
これが楽譜なのだ!!
潮流により命が剥ぎ取られ、
叩きつけられる!!

ただ、ひたすら
荒波に呑まれ、
希望を持ちながらも
無意味に乾く。

我々はこの[斃死の荒野]で
託されたヨセフの骨を持ちながら、
理想の墓所を探し彷徨う。
追われる身で・・

そうだ!!
船乗りよ。
[アルガエのファド]を奏せよ!!
観客のいない、このファドは、
ファドの本質だけを
肋骨(コスタ)として捉え、
死者のみを慰めるのだから。

蔑みの言葉だけが歌詞となり、
罪人達の[逃れの町]でだけ
奏されるファド・・

ああ、兄弟・・
そのファドには、
アマランティナのギターなど必要なく、
棘皮類(ブルガリス)達の骸を喰らう
海蚤(タリトリ)達が歌手となる。
そのファドには、
ギターラの調律も必要なく、
我らの心臓の洞調律(ヒーチモ・シヌザオ)だけが
重い足取りのパルマとなる。

世界は鈍器の様に遅くなり、
眩暈のする
洞性徐脈の青い楽譜だけが
この冷たいファドを
記録するのだ。

浚渫船が掘り起こす
海底の砂の中の
名の知れぬ藻類(アルガエ)と、
ヒトデ達の死・・

ああ、
この世界は悲惨(ミゼリア)だ!!
聖性は常に痛みと置換され、
腐肉だけが
残存物として取り残される!!

おお、
それでも[逃れの町]で
闇夜を見つめ、
ラテン語で祈る孤独な罪人に
キリストは語り掛ける。

「無人の海岸で死んでいる
何万というヒトデ達の、
虚無の墓標に相応しい場所を
夜の恐ろしい轟音の中に
見出せる者は幸いである・・」

VESPERUM DEMORABITUR FLETUS,
ET AD MATUTINUM LÆTITIA.
(夜は嘆きに包まれ、
朝は喜びに明ける)

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「大量に打ち上げられた
ヒトデ達の死骸に幸いあれ(アルガエのファド)」

は、
無人の海岸に打ち上げられた
ヒトデ(アステリアス・ブルガリス)の死骸を
「無数の十字架の墓地」と呼び、
ファドの哀愁を通じて
死の平等と虚無を讃える詩である。

詩は、船乗りに語りかける口調で始まり、
「世界の悲惨さを見たいのなら」
「ヒトデ達の死骸の山を見るがいい」

と誘う。

海洋の深淵(アビスモ)を墓地として定義し、
ヒトデの腐敗を
キリスト教の終末論に重ねる。

すなわち、
大量のヒトデの死が物語っているものは、
人間自身の無慈悲な死である。

詩句
「棘皮類達の裏返った臓物」
「海鳥達の限りない無感情な欲望」

は、生物学的崩壊を神学的に風刺し、
計算された残酷さ・・・
つまり、
神によって世界に蔓延る死を提示する。

作曲家の飼育しているヒトデ

ヒトデの死骸は、救済されぬ魂として
「ヨセフの骨」を携え、
「逃れの町」を彷徨う
罪人のメタファーとなる
(ここで重要なのは、
罪人でない者などいない・・
という神学である)

詩篇30:5のラテン語引用
「VESPERUM DEMORABITUR FLETUS,
ET AD MATUTINUM LÆTITIA」

(夜は嘆きに包まれ、朝は喜びに明ける)
は、キリスト教の希望を微かに示唆するが、
詩はその希望を「蔑みの言葉だけが歌詞」と嘲笑い、
救済の不在を強調するかの様にも見える。

しかし、それは早計で、
そもそも[墓の魚]の哲学において、
救済とは、人の思考の及ばぬ
死と崩壊の先にあり、
全ては
調和としての(時として神の望んだ)死
が描かれているのである。

「蔑みの言葉だけが歌詞」とは、
常に人間の俗的な意識での旋律であり、
それらはファドで表現されている。

生者にとって死は、
常に己の魂の外部の出来事であり、
他者の受難であり、
すなわち恐れおののくべき自分の
孤独な試練である。

「海蚤達が歌手となり」
「我らの心臓の洞調律(ヒーチモ・シヌザオ)がパルマとなる」

は、エントロピーを音楽的メタファーに変換し、
腐敗を「アルガエのファド」として詩化するが、
それはつまり、
これらの死が、無秩序ではなく、
譜面に書かれた
神の指揮の下である事を意味している。

ヴァニタス絵画の視点では、
ヒトデの死骸が髑髏となり、
強欲な人間に訴えかける構図を示す。
[お前達の持つ
富や時間は永遠ではない・・]

と。

ファドの哀愁は、無常を美化しつつ、
希望の不在を滑稽に描くが、
決して神の不在は書かれる事はない。
それはむしろ、
死の平等を祝祭化し、
全ての帳尻合わせを神に委ねる
コメンダティオ・アニマエ(魂の委託)の行為である。

この詩は、ゴシックなユーモアで無常を讃え、
聴衆にカタルシスを提供している。

作曲家が飼育しているヒトデ


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「メキシコハマグリと
ラッコの大量死における十字架の御業」
黒実 音子


カリフォルニアの
荒波に叩きつけられながら
ピズモ貝達はじっと耐え忍ぶ。

その貝血漿は、
海岸に沿って点在する
不潔な川からやって来る
原虫サルコシスティス・ニューロナ達から
この旧口生物の臓物を守るのだ。

分厚い骨の中で痛みに耐える事は、
キリストの卑賤であり、
受肉した低い器の中で
十字架に架けられる事だ。

ああ!!
心臓は苦しみ抜く・・
打ち寄せる波は
不可逆的な損失を与える・・

脇腹を槍で突き刺され、
細胞壁が破れ、
液体腔の中に組織が漏れ出す
闇の中の攪拌の苦痛を
ピズモ貝達は知っている。

ああ!!
岸に打ち上げられた
大量のラッコ達の死骸(シャルニエ)・・
太陽によって乾いていく
海藻の毒(ドウモイ酸)の虚しさ・・

末期患者であるオポッサム達の糞尿は
川から海岸に流入し、
汽水域は、ある種の悍ましい
原虫達のロンドとなる。

ラテン語で[愚者(スルトルム)]と名付けられた
このハマグリ達は知っている。
誰もがいずれ死ぬのだ!!
朽ち果てる為に命は生まれて来た!!

毒化した二枚貝を食べ、
心嚢液貯留で心臓(カルディエ)に水が溜まり、
危険な汽水的で
腐乱した惨めな死体を
神に御前に曝け出すラッコ達の様に!!

そして、美しい礼拝堂ではなく、
その蠅の集る[悲惨]にこそ
ミサ・ソレムニスの旋律が
必要とされるのだろう。

荒い波打つ砂の中の二枚貝は
我々の心臓であり、
キリストの心臓でもある。

ああ!!
大事なのは生き抜く事ではない!!
響く骨の音のままに
ただじっと・・
ただじっと砂地でうずくまり、
その時が来るのを待ち続ける事だ!!

諸君・・
確かに
人生はお気に召すままであり、
貝の骨の様に虚しい。

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「メキシコハマグリとラッコの
大量死における十字架の御業」

は、
カリフォルニアのピズモ貝(メキシコハマグリ)と、
ラッコの大量死を、
キリストの受難に重ね、
毒(ドウモイ酸)と、
原虫(サルコシスティス・ニューロナ)を
神の審判として描く。

詩は、
ピズモ貝の「貝血漿」をキリストの血に、
「分厚い骨の中で痛みに耐える事」
十字架の「卑賤」に重ね、
受難神学を海洋生物に投影する。

詩句
「脇腹を槍で突き刺され、細胞壁が破れ」
「液体腔の中に組織が漏れ出す」

は、
生物学的破壊を
キリストの槍傷に結びつけ、
物質の崩壊を神聖化する。

ラッコの「惨めな死体」や
「毒化した二枚貝」は、
罪の意識を生物学的必然(腐敗)に置き換え、
「誰もがいずれ死ぬ」
「朽ち果てる為に命は生まれて来た」
と、キリスト教の罪の意識を
神の楽譜という希望に還元する。

「汽水域は原虫達のロンド」は、
食物連鎖の崩壊を
ここでもまた
音楽的メタファーで詩化し、
腐敗を「ミサ・ソレムニスの旋律」として祝う。

ヴァニタス絵画の視点では、
ラッコの死骸や、
貝の骨が髑髏となり、
この世界の虚しさと、
その先にある救済を歌っている。

ヴァニタス絵画そのものに
キリスト教的な救済があったのか?

という点を語るのなら、
ヴァニタスはメメントモリの一種であり、
この
[富も栄誉も、長い時間の果てには
虚しい骨と化す]

というヴァニタスの哲学を、
キリスト教は取り込み、
[だからこそ地上の富に縋らず、
清貧を貫き、
死後の神の王国での豊かさを目指せ・・]

という神学思想に昇華した事が証となる。
それは14世紀フランスを中心に流行した
トランシと呼ばれる
腐乱死体の彫像にも関連している。
醜い腐乱死体の像を大衆に見せる事で、
この地上で生きる虚しさを説いた・・
という意味では、
トランシもまた
キリスト教的な救済を見せる
ヴァニタスである。

詩の最後を締めくくる詩句
「人生はお気に召すまま、
貝の骨の様に虚しい」

は、シェイクスピアの
【お気に召すまま】を引用し、
神学における人間の自由選択をほのめかし、
人生の無意味さはあれど、
されどユーモラスで笑える素晴らしき人生・・

というフランスの楽観主義的な
エスプリも込められている。

この
医学的(数式的)冷徹さ【ヴァニタス】

神学的な葛藤を加え【コメンダティオ・アニマエ】
そこに
フランス的な楽観の喜劇性【エスプリ】
をぶつけて破壊するのが
[墓の魚]作品の全般的な特徴である事も
忘れてはならない。

絶対的な残酷さの中に生きながら、
そこに滑稽な笑いと、ユーモアを見出す事
こそが
我々の人生だからである・・・






「墓の魚」のラテン詩と、
メメントモリ曲の融合した楽曲
こちらで公開中です↓↓↓

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