イブ物語|判断寓話|ファンタジー小説|猫征|第二十一話
鬱蒼と茂る森林を抜けると、湿地帯が広がっていた。
沼地のあちこちからカエルの低い鳴き声が響く中、帝国軍の獣人部隊がゆっくりと進んでいく。
彼らに与えられた任務は、最近ハイデン砦へ向かう補給部隊を相次いで襲っている、王国軍特殊部隊の発見と殲滅だった。
昼間だというのに木々が日差しを遮り、森の中は薄暗い。
兵士たちは泥濘に足を取られないよう、周囲を警戒しながら慎重に歩みを進めていた。
その時、先頭を歩いていた兵士が突然片手を上げた。
部隊が止まり、周囲の兵士たちも一斉に武器を構える。
木々の間へ視線を走らせた、その瞬間。
ヒュン――。
風を切る音とともに、一本の矢が部隊の中央へ突き刺さった。
兵士たちが驚いて顔を上げる。
すると、木々の間から次々と人影が現れた。
弓を構えた獣人たち。
その数は、ざっと見ただけでも帝国軍の倍近い。
いつの間に。
隊長は息を呑んだ。
完全に包囲されている。
やがて、その包囲の中から一人の男が姿を現した。
黒塗りの鎧を身につけ、腰には剣。
男は敵意がないことを示すように両手を上げながら、ゆっくりと前へ出る。

猫から始まる世界征服 第二十一話
「ここは俺たちの場所だ」
男――ワンが、帝国軍の獣人部隊へ向かって言った。
しばらくして、獣人部隊の中から隊長らしき男が一歩前へ出る。
「我々はマズール帝国軍第五方面軍所属、第一獣人部隊だ!」
隊長は周囲の兵士にも聞こえるよう、大きな声で名乗った。
「この森に潜伏している王国軍特殊部隊を捜索している!」
そう告げてから両手を上げ、戦う意志がないことを示す。
「お前たちの縄張りを荒らすつもりはない。王国軍について知っていることがあるなら教えてほしい。それなりの謝礼も払う」
ワンは少しだけ首を傾げた。
「王国軍?」
それから、口元を上げる。
「ここにはそんな奴らはいないさ」
そう言うと、ワンは片手を上げた。
その合図を待っていたように、後方に控えていた兵士たちが一斉に軍旗を掲げる。
深い色の布地に描かれているのは、白い狼。
森の中に、いくつもの狼の旗が並んだ。
「俺たちはニイアス」
ワンは帝国軍の兵士たちを見渡す。
「この森は、俺たちの領土だ」
ざわり、と帝国軍の獣人兵たちの間に動揺が走る。
縄張りでも、集落でもない。
領土。
はっきりと、そう言った。
しかも周囲に並ぶ兵士たちは、獣人だけではなかった。
獣人もいる。
ヒューマンもいる。
それぞれが武器を構え、統率された部隊として並んでいる。
胸には同じ狼の徽章。
背後には、同じ軍旗。
ただの寄せ集めには見えない。
ワンはそんな彼らを背にしながら、何でもないことのように続けた。
「それと、ニイアスでは新しい住人を歓迎している」
「……は?」
帝国軍の隊長が思わず聞き返した。
その時だった。
「ヒューイ!?」
帝国軍の中から突然声が上がる。
一人の獣人兵が目を見開き、包囲側の兵士を指差していた。
呼ばれた獣人兵は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに破顔する。
「ジャック!」
彼は武器を下ろし、大きく手を振った。
「久しぶりだな!」
帝国軍の兵士たちが一斉に彼を見る。
「お前……生きてたのか?」
ジャックと呼ばれた兵士が、呆然と呟いた。
ヒューイは笑う。
「ああ。今はここにいる」
そう言って、自分の胸につけられた狼の徽章を軽く叩いた。
「良かったら、お前たちも街に来ないか?」
「街……?」
その一言で、帝国軍の兵士たちの表情が変わる。
森の中に集落がある。
その程度なら理解できる。
だが、彼は街と言った。
ワンは何も言わず、帝国兵たちの反応を眺めていた。
やがて、帝国軍の隊長がゆっくりと兜を外す。
周囲の仲間たちを見回してから、ワンへ視線を戻した。
「説明を聞きたい」
少し間を置き、続ける。
「こちらに戦う意志はない」
ワンは頷き、右手を差し出した。
「腹減ってないか?」
隊長は一瞬、呆気に取られた。
それから小さく笑う。
「……減っている」
差し出された手を握り返すと、ワンは満足そうに笑った。
「じゃあ、まず飯だな」
*
ワンたちに先導されながら、帝国軍の獣人部隊は森を進んでいた。
敵意がないとはいえ、ニイアスと名乗る武装集団に囲まれての移動である。
兵士たちの表情には、まだ緊張が残っている。
やがて先頭を歩いていたワンが足を止めた。
「着いたぜ。ここがニイアスだ」
深い森を抜けた瞬間、視界が大きく開ける。
「……なんだ、これは」
眼下に広がっていたのは、森を切り開いて造られた街だった。
街の周囲には木柵と土塁が築かれ、その一部では石造りの防壁の建設も進んでいる。
まだ完成には遠い。
それでも、そこには確かに街と呼べるものが存在していた。
家々が並び、その間を人々が行き交っている。
畑では作物が育てられ、市場にはいくつもの露店が並ぶ。
建築途中の家の前を、資材を積んだ荷車が通り過ぎる。その向こうでは職人たちが木材を組み上げ、街の至る所で新しい建物が造られていた。
そして。
ヒューマンの子供と獣人の子供が、一緒になって走り回っている。
「夢でも見ているのか……?」
獣人部隊の隊長が呟いた。
帝国では考えられない光景だった。
獣人とヒューマンが、当たり前のように同じ街で暮らしている。
その時、街の入口に立つ一人の大男が彼らの視界に入った。
帝国軍の軍装に似た装備。
逞しい体。
腕を組みながら、こちらを見ている。
獣人部隊の隊長は、その姿を見た瞬間に足を止めた。
「……ラビ隊長」
思わず言葉がこぼれる。
大男――ラビも彼の姿を確認した。
「ルーク」
その声に、隊長――ルークはさらに目を見開く。
「生きていたか」
ラビはゆっくりと歩み寄った。
ルークは信じられないというように首を振る。
「ラビ隊長……あんたは死んだって聞いていた」
その言葉を聞いたラビは、ニヤリと歯を見せた。
そして、自分の胸を軽く叩く。
「そうだな」
一度言葉を切り、胸につけられた狼の徽章を指で示した。
「お前の知ってる、帝国軍第十五獣人混成独立部隊隊長のラビは死んださ」
「今の俺は、ニイアス軍団長ラビだ」
「……軍団長?」
ルークの口が半ば開いたまま止まる。
周囲にいた帝国兵たちからも、ざわめきが起こった。
ラビはそんな反応を気にすることもなく、ルークの前まで歩み寄る。
そして、その胸を拳で軽く叩いた。
「どうだ。ウチに来ないか?」
「……は?」
「ニイアス軍は人手不足でな」
ラビはため息をつきながら肩をすくめる。
「軍団長だってのに、新兵訓練までやらされている」
そして、口元を上げた。
「経験者は大歓迎だぞ」
ルークは何も答えられなかった。
まだ状況を理解しきれていない。
だが、彼の後ろにいる獣人兵たちの表情は、森の中にいた時とは明らかに違っていた。
市場を見る者。
建築中の家を見る者。
楽しそうに走り回る子供たちを見る者。
そして何より、獣人とヒューマンが当たり前のように同じ場所で暮らしている。
その光景を、誰もが無言で見つめていた。
「まあ、話はあとでいいだろ」
ワンがそう言って、街の門へ向かって歩き出した。
振り返り、ルークたちを見る。
「立ち話もなんだ。まずは飯にしよう」
そう言うと、何事もなかったかのように門を潜っていく。
ルークは少しだけ迷ったあと、仲間たちを見た。
誰も反対する様子はない。
やがて彼らもまた、ワンの後を追った。
帝国軍の獣人兵たちは、その日初めて。
ニイアスという国へ足を踏み入れた。
*
日が暮れ、ニイアスの街に篝火が灯る。
等間隔に設置された松明にも火が入り、柔らかな明かりが夜の街を照らしていた。
ニイアス軍統合本部。
そう書かれた立派な看板とは裏腹に、建物はまだ半分ほどしか完成していない。
その一室で、ワンとラビ、そしてルークが食卓を囲んでいた。
ルークの部下たちは、外に張られた仮設テントで休んでいる。
「……と、いうわけで、俺はここで暮らすことを決めた」
ラビはニイアスへ来た経緯を説明しながら、杯に口をつけた。
ルークは出された料理を頬張りながら頷く。
美味い。
前線へ配属されてから口にした食事の中では、間違いなく一番のご馳走だった。
何より、温かい食事を食べたのはいつ以来だろう。
そんなことを考えながら、ルークはもう一口料理を口へ運ぶ。
「まあ、無理にとは言わない」
ワンも串焼きを噛み切りながら口を開いた。
「帰りたければ帰ればいい」
ルークが顔を上げる。
ワンは特に表情を変えることなく続けた。
「ただし、次に会う時は敵だ」
ラビの視線が、一瞬だけ鋭くなる。
ルークは呆れたように笑った。
「本当に俺たちを解放するつもりか?」
ワンを見る。
「ここの情報を帝国へ持ち帰れば、報奨金くらいはもらえるかもしれないぞ」
その言葉にラビも笑う。
「その金を使える場所まで帰れればいいがな?」
ルークは苦笑した。
ラビの皮肉はもっともだった。
帝国軍において、獣人部隊は使い捨ての駒に近い。
たとえここを無事に出たとしても、その先に待っているものなど想像がつく。
再び前線へ送られるだけだ。
ルークはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと肩をすくめた。
「俺は決めた」
ワンとラビが彼を見る。
「ここに残る」
その声に迷いはなかった。
「部隊の連中にも話す。まあ……帰りたいなんて言う奴はいないだろうけどな」
ワンは一度だけ頷いた。
そしてラビの肩を叩き、立ち上がる。
「じゃあ、軍団長」
ラビが嫌な予感を覚えたように眉をひそめた。
「あとはよろしく」
「おい、ちょ――」
ラビが何か言うより早く、ワンは部屋を出ていった。
扉が閉まり、しばらく沈黙が続く。
ルークはその扉を見つめながら口を開いた。
「……あいつ、黒獅子だよな?」
「ああ」
「なんで、そんな奴がここにいるんだ?」
ラビは杯を傾ける。
少し考えたあと、諦めたように答えた。
「女神に会ったんだと」
「……は?」
「それで気づいたら、国を作ってた」
ルークが黙る。
ラビ自身、自分の説明が突拍子もないことは理解している。
だが、それ以外に説明する方法を彼は思いつかなかった。
*
ニイアス・黒の館。
「また、増えましたよ」
テイルは報告書を片手に、呆れたような声を出した。
ワンが持ち込んでくる結果には、いい加減慣れたつもりだった。
だが今回ばかりは、さすがに数字が大きい。
「兵士が増えることはいいことだ」
ワンは、いつもの調子で答える。
テイルは報告書へ視線を落とした。
「百八十四人です」
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「増えすぎです」
「しばらくはテント暮らししてもらうさ」
ワンは窓の外へ視線を向けた。
街の一角には、新たにいくつもの軍用テントが並び始めている。
テイルは額に手を当てた。
「帝国軍が知ったら、激怒するでしょうね……」
「そうか?」
「次はヒューマンが相手になりそうです」
「迎えは必要なさそうだな」
「そう言う意味じゃありません」
ワンが首を傾げる。
テイルは何も言わなかった。
補給部隊を襲われ。
討伐に送り出した獣人部隊が。
今度は百八十四人まとめて、ニイアス軍に加わった。
帝国第五方面軍にとっては、笑い話では済まない。
だが、その原因を作った本人だけが、まるで分かっていなかった。

ヒーバ大森林には、不思議な逸話がいくつも残されている。
深い森の奥へ分け入った者は、二度と戻ってこない。
森の妖精に歓迎され、美味しい食事にありついた旅人は、そのまま森に魅せられ、気づけばそこで一生を終える――。
そんな古い寓話があった。
もちろん、それが本当なのかは誰にも分からない。
ただ、この頃から帝国軍の兵士たちの間では、ひとつの噂が囁かれるようになる。
――ヒーバ大森林へ入った獣人部隊は、帰ってこない。
その寓話は今。
少しずつ、現実になりつつあった。
🔙第二十話 第二十二話🔜


二十一話の現在の国力
領土 ヒーバ大森林全域 中心都市ニイアス
人口 3946人【獣人3082人+人間864人】
兵力 844人
指揮官 黒獅子ワン、ラビ、アトラ、セレナ、ルーク
主要人物
黒獅子ワン、テイル、ラビ
ニア、アトラ、長老ロウ
モフ、イフ、ライ
聖女騎士団 セレナ、リーネ、エルナ、ミア、クロエ
