イブ物語|判断寓話|ファンタジー小説|猫征|第十話
ライカーンの街に朝日が昇る。
街の入口には、ヤークが引く荷車が何台も並んでいた。
そこへ、眠そうに目を擦りながら体を伸ばして歩いてくるワンの姿があった。
モフはそれを見つけると、軽く手を上げて声をかけた。
「黒獅子の旦那。昨日はゆっくり休めなかったご様子で……」
ニヤリと笑い、何やら良からぬ想像をしているモフを横目に、ワンは真剣な表情を浮かべる。
「なあ、モフ。昨日もらったブラシだけど、女性には少し重く感じる。改良の余地ありだな」
淡々と話すワンの顔を見て、モフは大声で笑った。
「いやはや、どなたに使ってたんでっか?」
興味津々といった様子で、モフが尋ねる。
「猫だ」
ワンは当然のように答えた。
モフは口元を上げる。
「ほう。可愛らしい猫ちゃんでっか?」
「いや、太った野良猫だ」
モフはうんうんと頷いた。
「なるほど。黒獅子の旦那は、ぽっちゃりがお好みと……」
「いや、俺の好みはニアさんだけだ」
どうにも話が噛み合わない二人である。

猫から始まる世界征服 第十話
獣人たちが御者台に乗り、出発の準備を整えていた。
ワンも荷車に乗り込もうとしたところで、モフが呼び止める。
「黒獅子の旦那。今回は初めての取引です。ウチからも一人、優秀な人材を派遣させてもらいます」
そう言うと、御者台から一人の女性が姿を現した。
朝日に照らされたブラウンの長い髪を、片側で結っている。
目鼻立ちのはっきりした、美しい女性だった。
女性はワンに微笑みかけながら御者台を降りると、その前でスカートの端を小さく摘み、上品に頭を下げた。
「イ・タヌキ・フと申します。イフとお呼びください」
名前を聞いたワンは眉を上げ、モフを見る。
「お察しの通り、イフは私の身内です。まあ、一人娘なんですが、商売のイロハは子供のころから叩き込んでありますんで、よろしゅうしてやってください」
モフは自慢げに娘を紹介した。
「変体か?」
ワンが尋ねると、イフは口元に手を当て、クスクスと笑った。
「ワン様。その聞き方ですと、誤解されます」
隣でモフも肩を揺らしている。
「まあ、変体の魔法は使えます。ただ、ちょっと事情がありましてな」
モフがそう言うと、イフがゆっくりと口を開いた。
「私の母はヒューマンなんです。父は獣人。本来なら獣人の血が強く出るのですが、私は母の血が強く出まして、普段はこの姿なんです」
イフは自分の体を軽く見下ろした。
「変体の魔法を使うと、獣人の姿になります」
ワンの目が大きく見開かれた。
次の瞬間、イフの両肩を掴む。
「獣人とヒューマンの間でも子供ができるのか!」
「えっ?」
ワンは顔を緩めながら、何度もイフの体を揺らした。
「できるんだな!?」
「は、はい。できますけど……」
勢いに押されながら、イフが答える。
その横でモフは、何かを察したようにニヤリと笑っていた。
*
街道を離れ、ヒーバ大森林へ脇道に入ると、獣人たちが迎えに現れた。
武器を携えた獣人たちはワンの前に膝をつき、それを見て荷馬車が止まる。
ワンが顔を出すと、獣人たちは笑顔を見せた。
「そういうのいいから」
ワンは困ったように頭を掻く。
しかし、獣人たちは真剣な顔でワンを見つめていた。
「ワン様、お待ちしておりました。首尾は上々のようで。ここからは我らが護衛しますので、ごゆるりとお過ごしください」
仰々しい物言いに、ワンは困った表情を浮かべる。
イフはその姿を見て、クスリと笑った。
「ワン様。素晴らしい人望ですね」
ワンは大きく息を吐くと、荷馬車を進めるように指示を出した。
*
ヤークの逞しい足が森を進む。
ニイアスの村が近づくにつれて、ワンはソワソワと落ち着きがなくなっていた。
見慣れた景色が目に入ると、ワンは御者台から身を乗り出し、村に目を凝らす。
村の入口に立ち、手を振るニアの姿を見つけた。
その瞬間、ぐらりと荷馬車が揺れる。
バランスを崩したワンは、そのまま隣にいたイフの胸へ顔を埋めるように倒れ込んだ。
「うわっ!」
慌てて起き上がろうと、ワンが手を伸ばす。
ぽにゅん。
何か柔らかいものが、ワンの手を包んだ。
「あん……」
イフの艶やかな声が漏れる。
「おかえりなさい……ワン」
口元だけがやけに不自然に笑うニアが、ワンを見つめていた。
世の男にとっては幸運である。
ワンにとっては悲劇である。
*
ニイアスの村に着いたイフたちは、早速荷物を下ろし、それを村人たちが運んでいく。
「ニアさん。誤解だ。事故だ。陰謀だ」
ワンはしきりにニアへ頭を下げる。
しかし、頬を膨らませたニアは腕を組み、そっぽを向いていた。
「判決。有罪」
アトラがからかうように言った。
「テイル。お前もなんとか言ってくれ!」
ワンはテイルを見ると、泣きそうな声を上げる。
「ワンさん。商人を連れて来いとは言いましたが、女性まで連れて来いとは言ってませんよ」
テイルも口元を上げながら答えた。
「お前らもグルか? クーデターか?」
ワンもヤケになり、訳の分からないことを口にしている。
そこへ、クスクスと笑いながらイフが現れた。
「皆さん、仲が良いようで羨ましいです。申し遅れました。モヌキフ商会のイフです。以後、お見知りおきを」
そう言うと、イフは上品に頭を下げた。
テイルの目が一瞬鋭くなり、視線がイフへ向く。
不思議そうな顔をするイフを上から順番に眺めると、テイルは顎に手をやって口を開いた。
「あなた、獣人ですね……しかも、混血の」
イフの肩が小さく揺れた。
「どうして、そう思われたんですか?」
テイルは口元を緩めながら答える。
「他の方は騙せても、私の目は騙せません!」
勝ち誇ったように言うと、イフの腰あたりを指さして続けた。
「どんなに隠しても、私の前では尻尾は隠せません!」
何を言っているのだ、この男は。
いつもと変わらないテイルの姿に一同は頭を抱えた。
「すまない。イフ。こいつは変態だ。あと、テイルって名前が一応ついているらしい」
ワンはそう言うと何かを思い出したように、イフに目配せした。
それを察したイフは鞄からブラシを取り出して、ニアに語りかけた。
「ワン様から、ご依頼いただいた最高級のブラシです。これで髪をとかせば、少しは気持ちが安らぐかと」
目の前に差し出されたブラシをニアは横目で見る。
「ワンのバカ……」
周りに聞き取れない小さな声で呟くと、ブラシを手にした。
ワンの顔が明るくなる。
「何を探しに行ったんだか」
アトラが呆れたように言うと、小さな笑いが広がった。

この日から獣人の隠れ里は正式に、ニイアスと呼ばれるようになった。
歴史書にはこうある。
幸運と祝福の場所『ニイアス』
美しき髪を持つ聖女と英雄の約束の地。
