イブ物語|判断寓話|ファンタジー小説|猫征|第十五話
王国領・ハイデン砦。
「突撃!!」
前線の帝国軍指揮官の号令が響く。
数千の兵が一斉に鬨の声を上げ、ハイデン砦へと押し寄せていった。
砦を守る王国軍から、無数の矢が降り注ぐ。
帝国軍の先頭では、兵士たちが盾を幾重にも重ね、まるで亀の甲羅のような陣形を組みながら、ゆっくりと前進していた。
踏み出した足に矢が突き刺さる。
兵士が叫び声を上げて倒れても、その歩みは止まらない。
やがて盾の塊が砦周辺の防護柵へ取り付く。
その中から大斧を構えた大男が飛び出し、柵を支える杭へ向けて勢いよく斧を振り下ろした。
鈍い音が響く。
だが、二撃目を振り下ろすことはなかった。
一本の矢が男の額を射抜く。
大男はその場で力を失い、崩れ落ちた。

猫から始まる世界征服 第十五話
「第一、第三連隊、砦外縁に到達」
「第二、第四、第五連隊、敵の抵抗激しく遅滞しています」
次々と届けられる報告を聞きながら、リスナは地図上の駒を見つめていた。
その口元が僅かに持ち上がる。
「獣人部隊を前へ出せ。本隊は後方で温存させろ!」
命令が飛ぶと、伝令兵たちが一斉に走り出した。
リスナは戦場へ目を向ける。
「せいぜい派手に暴れて、敵の矢を減らさせろよ……」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
*
「急報! 帝国軍がハイデン砦への攻勢を開始したとの報告あり!」
王国軍にその知らせが届いたのは、ヴェルゴ要塞を包囲し、攻城兵器の組み立てを始めようとしていた時だった。
しかし、報告を受けた参謀部の士官たちは驚かなかった。
むしろ、誰もが予想していた知らせだった。
一人の士官が、遠くに広がるスカム子爵領の方角へ視線を向ける。
そして静かに呟いた。
「ジャンス将軍……早くお戻りください」
*
時間は数日前に遡る。
ヴェルゴ要塞攻略のため進軍を続けていたジャンスのもとへ、一人の男が訪ねてきた。
進軍を急いでいたジャンスは、当初その申し出を取り合うつもりはなかった。
だが男が示した「自由商人の証」と、
――スカム子爵に関する重要な知らせがある。
その言葉が、ジャンスの判断を変えた。
急遽、会談の場が設けられる。
「いやぁ、えらいすんませんでした。お忙しいところ、無理言いまして」
男は柔らかな笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「近衛師団師団長、ジャンスだ。用件は手短に頼む」
ジャンスは天幕の中に置かれた椅子へ腰掛けると、話の続きを促した。
「モフ申します。見ての通り、商人をやらせてもろうてます。一応、自由商人いう立場も頂いております」
そう答えると、モフは胸元から自由商人の証を取り出し、ジャンスの前へ差し出した。
ジャンスはそれを傍らの副官へ渡す。
確認を終えた副官が、静かに頷いた。
「貴公の立場は理解した。それで、スカム子爵に関する重要な情報とは?」
ジャンスは運ばれてきた茶を一口啜ると、鋭い眼差しをモフへ向けた。
モフは肩をすくめる。
「将軍閣下には、少しばかり貴重な情報を買うてもらいたい思いまして」
両手を広げ、何も隠していないと言わんばかりの仕草を見せる。
「閣下がこれから攻められるヴェルゴ要塞。その攻略で、一番困ることはなんでしょう?」
ジャンスの眉が僅かに上がった。
「軍機ゆえ詳細は言えぬが……補給についての相談か?」
するとモフは頭へ手をやり、大きく首を振った。
「いやぁ、回りくどい言い方してすんません。ほな、単刀直入に聞きます」
笑みを浮かべたまま、モフは続ける。
「もし、その補給路が閉ざされたら……どないします?」
ジャンスの眉間に皺が寄った。
「ほう」
手にしていた茶器を静かに置く。
「貴公はいつから情報屋になった? それとも、帝国の諜報員か?」
声は落ち着いている。
だが、その視線は先ほどより明らかに鋭くなっていた。
「ちゃいます、ちゃいます。私はあくまで一商人ですわ」
モフは慌てたように両手を振る。
「ただ今回は、私にもえらい迷惑がかかる話でしてな……」
そこで一度、声を落とした。
「スカム子爵様が帝国と内通しとる」
ジャンスの目が細くなる。
モフは、その表情を確かめるように続けた。
「その証拠がある言うたら……どないです?」
ジャンスは何も答えなかった。
ただ、副官へ目配せをする。
それだけで意図を察した副官が動き、すぐに天幕の中から人が払われていった。
周囲に誰もいなくなったことを確認すると、ジャンスは改めてモフへ視線を向ける。
「……さて」
椅子へ深く腰を沈める。
「詳しく話を聞こうか」
その言葉を聞いたモフは、ゆっくりと口元を上げた。
*
モフがジャンスに見せたのは、スカム子爵とマズール帝国との内通を示す血判状だった。
そこには、スカム子爵の署名と血判。
そして、マズール皇帝の玉印が押されていた。
ジャンスはすぐさま副官に確認を命じる。
過去に王国軍が入手した帝国の公文書と照合が行われ、しばらくして副官が戻ってきた。
その表情には、先ほどまでなかった緊張が浮かんでいる。
「将軍。少なくとも玉印については、過去に確認されたものと一致しています」
ジャンスの目が細くなった。
「……そうか」
短く答えると、すぐに命令を飛ばす。
「参謀を集めろ」
副官が天幕を出ていくのを見届けると、ジャンスは再びモフへ視線を向けた。
「それで、これを幾らで売りたい?」
問いかけられたモフは、頬を緩める。
「お金はいりません」
「ほう?」
「そうですなぁ……この戦さの補給に関して、いくらか都合を付けていただければ」
ジャンスも僅かに目元を緩めた。
「欲のない商人だな」
「とんでもない。商人なんて欲の塊ですわ」
モフが笑う。
ジャンスも小さく息を吐くと、副官が用意していた命令書を手元へ引き寄せた。
「良かろう。今回の戦さが終わるまで、貴公の商会から優先して糧食を買い付けるよう触れを出す」
そう言うと、命令書へ署名を入れる。
モフは差し出された書面を確認すると、満足そうに頷いた。
そして血判状をジャンスへ差し出しながら、声を落とす。
「くれぐれも、このことは内密に」
ジャンスが視線を上げる。
モフは柔らかな笑みを浮かべた。
「商人は信用第一ですから」
差し出された手を、ジャンスは黙って握り返した。
モフが天幕を出ていく。
その姿が見えなくなると同時に、ジャンスは立ち上がった。
すでに参謀たちが集まり始めている別の天幕へ、足早に向かう。
「至急、王都に使いを送れ」
集まった参謀たちへ向け、ジャンスは言い放った。
「スカムの捕縛は私が直接指揮を執る!」
参謀の一人がすぐに問い返す。
「ヴェルゴ要塞の攻略は、どうなされます?」
ジャンスは僅かに視線を落とした。
考え込んだのは、ほんの一瞬だった。
「要塞攻略は継続する」
顔を上げる。
「足の速い馬を集めろ。近衛の精鋭千騎のみで向かう!」
「はっ!」
命令を受けた参謀たちが、一斉に動き始めた。
*
近衛師団の隊列から少し離れた場所。
モフは手にした命令書を、ひらひらとイフへ見せていた。
その様子を見て、イフは小さく笑みを浮かべる。
「いやぁ、黒獅子の旦那も人使いが荒いお人や」
モフは肩をすくめた。
「しかも、ジャンス将軍に会うタイミングまで細かく指示されてな。こっちは冷や冷ややったで」
イフは小さく頭を下げる。
「父上様には、ご迷惑をおかけしました」
少し申し訳なさそうに微笑む。
「ラ・イフの初仕事で、些か気合が入り過ぎました」
「まあ、ええわ」
モフは命令書を懐へしまう。
それから、ふと表情を変えた。
「イフ」
「はい?」
「黒獅子の旦那。どう見る?」
思いがけない問いに、イフの眉が僅かに動く。
少し考えてから答えた。
「あの方は英雄の器かと」
遠く、ヒーバ大森林の方角へ視線を向ける。
「森の中から一歩も出ずに、盤面そのものを塗り替えようとしています」
モフは口元へ手をやると、小さく首を振った。
「ちゃうちゃう」
「……?」
モフは娘の顔を覗き込む。
「一人の男としてや」
「っ……」
実の父から飛んできた思わぬ問いに、イフは目を見開いた。
やがて少しだけ俯く。
頬が、僅かに赤く染まった。
「……たぬき族の繁栄には、欠かせない方と」
モフはしばらく黙って娘の顔を見つめていた。
やがて、ニヤリと笑う。
「なるほどなぁ」
「父上様?」
モフは答えなかった。
ただ、遥か彼方に広がるヒーバ大森林へ視線を向ける。
そして小さく呟いた。
「聖女様が相手やと、こっちも分が悪いな」
「父上様!」
モフの笑い声が、街道に響いた。

こうして、後に「北部争乱」と呼ばれる戦いの火蓋は切られた。
両国にとって「勝者なき戦争」と記録されたこの戦いが、ニイアスにとってどのような意味を持ったのか。
それは後世においても、多くの歴史家たちが研究を続ける題材となっている。
🔙第十四話 第十六話🔜

