イブ物語|判断寓話|ファンタジー小説|猫征|第二話
「ニア。私の名前はニア」
少女はそう言うと、ワンを見つめ返した。
「ニア様?」
「ニアでいいです」
「それじゃ、困る……ニア殿?」
ワンは少し照れたように頭を掻いた。
「好きに呼んで下さい」
ニアは呆れたように返す。
「じゃあ、女神で」
「それはやめて!」
ニアは額に手をやると、小さく首を横に振った。
「ニア……さん」
そう呼んだワンはすぐに顔を伏せた。
耳まで真っ赤にしている。
これが聖女ニアと英雄ワンとの出会いであった。

猫から始まる世界征服 第二話
「なんで追われてたんだ?」
ニアを背負いながら歩くワンが尋ねた。
「あいつらは奴隷商の手下です。街に行く途中で、私が獣人だとわかってしまって追われていました」
ワンは黙って話を聞いている。
アルカン王国とマズール帝国の戦争は百年続いていた。
長期化する戦争によって疲弊した国民の不満を逸らすため、アルカン王国では奴隷制度が導入され、その中でも一番立場の弱かった獣人たちが迫害されている。
戦場で聞いたそんな話を、ワンは思い出していた。
「ニア……さん。どうして、ヒューマンの多い街に近づくなんてことをしたんだ?」
全ての獣人が奴隷というわけではない。
ただ、ヒューマンから逃れて暮らす獣人たちが、危険を冒してまで街を目指す理由がワンには浮かばなかった。
「村で病気が流行って……」
ニアはその時のことを思い出すように語り始めた。
「病気に効く薬は街でしか手に入らないから、変体の魔法が使える私が街に向かったんです」
「変態の魔法?」
違う。それでは単なる異常者である。
「変体の魔法というのは、獣人の中でも使える人が限られた魔法です。姿を動物に変えることができます」
「あぁ、それで猫姿だったんだ」
ワンは納得したように頷き、肉球の感触を思い出すように頬を触った。
「うん。でも、集中してないとすぐ解けてしまうから」
ニアの声が重く沈んだ。
「じゃあ、結局、薬は手に入らなかったんだ」
「……」
ワンの背中を掴むニアの手に力が入る。
「ワンはどうして、あそこにいたの?」
「あぁ、こないだの戦いで雇い主が死んでしまって、次の雇い主を探していたんだ」
「戦争ですか……」
ワンたちが進む方向の遥か先には、狼煙のような煙が上がっている。
何かを知らせるためのものなのか、それとも焼かれた街から上がっている煙なのかはわからない。
ワンはニアと話しながら考えていた。
ニアの村を救う薬を手に入れれば、もしかしたらもう一度踏んでもらえるかもしれない。
相変わらずブレない男である。
二人が歩いているのは、アルカン王国とマズール帝国の国境が隣接する街道の紛争地帯だった。
すぐ近くに広がる大森林には、ニアたち獣人がヒューマンから隠れて暮らす村があるそうだ。
足を痛めてしまったニアを休ませるため、ワンは軍の宿営地跡を見つけ、そこで一晩を明かすことにした。
いつの紛争で使われたのだろうか。
木で作られた小さな小屋は傷んではいるものの、まだ雨風を凌げる程度には原型を留めていた。
足に包帯を巻かれたニアは、疲れ切ったのか静かな寝息をたてていた。
その姿をしばらく見つめていたワンは一人立ち上がると、小屋を出て闇夜の中へ姿を消した。
*
「やっ、やめてくれ」
犬のような耳をした獣人の男が叫んでいる。
その近くに停められた檻付きの馬車には、疲れた表情を浮かべた獣人たちが首を鎖に繋がれたまま押し込まれていた。
武装した男たちは、獣人たちの姿を眺めながら薄ら笑いを浮かべている。
杯に注がれた酒を一飲みすると、口元を拭った中年の男が下品に笑った。
「おい、お前。動くなよ」
そう言うと、木に縛りつけられた獣人に向かってナイフを投げる。
怯える獣人の顔を掠めるようにナイフが突き刺さった。
「ヒェ……」
小さな悲鳴が漏れたが、男たちはまるで気にしていない。
「よし! ほら、お前の番だ」
中年の男は赤ら顔を浮かべながら、隣にいた男へナイフを渡した。
「なんだよ。つまらねえな。当てちまえば俺の勝ちだったのに」
不満そうに顔を歪めた男が、獣人へ向けてナイフを振りかぶる。
次の瞬間、男が苦しそうな声を漏らした。
ワンの投げたナイフが男の胸に深く突き刺さっている。
周囲が状況を理解するより先に、ワンは中年男の肩を掴み、その首を剣で切り裂いた。
「楽しそうだな?」
ワンはそう言うと、馬車の檻に閉じ込められている獣人たちに目をやった。
獣人たちはボロ布と変わらない衣服を纏い、排泄すら自由にできない不衛生な環境の中で黙って俯いている。
ワンを囲むように武装した男たちが集まると、その間を分け入るように小太りの商人が前へ出た。
「何してくれたんだ。傭兵だってタダじゃないんだぞ。どっちの国の兵隊だ?」
尊大な態度の男は口髭を撫でながら、苛立った様子でワンを睨みつけた。
「王国にも帝国にも、たんまり金は渡してある。お前の部隊の隊長に会わせろ!」
商人は苛立ちを抑えきれず、怒鳴るように叫んだ。
「俺の上司は女神だ。てめぇみたいな豚が会えるわけないだろ」
ワンの表情は変わらない。
ただ、その目だけが深い黒色に染まっていく。
「なんだ? 逃亡兵か? なら殺しても問題ないだろ」
商人は吐き捨てるようにそう言うと、ワンを囲む兵たちに目配せした。
合図を受けた兵たちが一斉に槍を突き出す。
しかし、その穂先がワンに届くより先に槍の柄が一太刀で切り落とされ、兵たちから悲鳴が上がった。
「お前たち、早くなんとかしろ!」
商人は怯えた表情を浮かべ、兵たちを盾にして逃げようとした。
だが慌てたせいで足をもつれさせ、その場に倒れ込んでしまう。
そんな商人を見つめながら、ワンはゆっくりと歩いていく。
進路を塞ごうと前に立つ兵たちは、ワンの一振りを受けるたびに地面へ崩れ落ちていった。
やがて商人の前まで来たワンは、その場にしゃがみ込み、震える男の顔を覗き込む。
「なあ? 流行病に効く薬、知らないか?」
ワンは笑顔を浮かべながら商人を見つめた。
「金なら――」
バシッ。
「なら、好きな奴隷――」
バシッ。
商人が口を開くたびに、ワンはその頬を叩いた。
「く。す。り。」
一文字ずつ聞かせるように、ワンはゆっくりと口を動かす。
商人は目に涙を浮かべながら、腫れた頬を押さえた。
「薬なら、いくらでも買って来るから、これ以上は……」
「良くできました」
ワンは商人の腰に下がっていた鍵の束を、剣先に引っかけて手に取った。
「明日の朝一までに戻らなきゃ、わかってるね?」
商人は何度も黙って頷いた。
「あと、獣人は解放だ。文句ないだろ?」
もはやワンと目を合わせることすらできず、商人は小刻みに震えるしかなかった。
*
朝になり、顔に当たる日差しでニアは目を覚ました。
いつの間にか眠ってしまったことに気づき、慌てて体を起こす。
痛めた足首を見ると、丁寧に巻かれた包帯が目に入った。
包帯に手を当てながら、なぜか口元が緩んでいる自分に気づき、ニアは少し不思議な気持ちになった。
姿の見えないワンを探すように辺りを見回すと、少し離れた場所で壁に寄りかかり、剣を肩に当てたまま眠っている姿を見つけた。
その姿を見て安心した自分に、ニアは少し驚く。
ワンの黒い髪に葉っぱがついていた。
それを取ろうと自然に手を伸ばした時だった。
「うーーん」
ニアの気配に気づいたのか、ワンが大きく伸びをしながら目を覚ました。
「うわぁ! 近い!!」
目を開けたすぐ近くにニアがいたことに驚き、ワンは身をのけぞらせた。
「違います。髪に葉っぱが……」
ニアも慌てて説明する。
途中で言葉を止めると、誤魔化すように銀色の髪の先を指で弄った。
二人の間に気まずい沈黙が流れる。
「おっ! 約束通り来たか!」
その沈黙を破るようにワンが声を上げた。
ワンの視線の先を見ると、一台の馬車がこちらへ向かって近づいて来ている。
「だれ?」
ニアの言葉に笑顔を浮かべたワンは、馬車に向かって大きく手を振った。
馬車の荷台には大きな箱が積まれ、中からガチャガチャと音がしている。
「約束の薬です」
馬車から降りてきたのは、腫れ上がった顔の商人だった。
商人は怯えたようにワンを見ている。
「ご苦労さん」
荷台の中身を確認したワンは満足げに頷くと、腰の剣に手をやった。
「約束と違うじゃないか! 薬を届けたら命だけは助けるって……」
逃げ出そうとする商人の服を掴み、ワンが剣を抜こうとした時だった。
「ワン。やめて」
ニアの声が響く。
その一言で、ワンの手から力が抜けた。
商人は服を振りほどくと、一目散にその場から走り去っていく。
その後ろ姿を黙って見送ったワンを、ニアは目を丸くして見つめていた。
「薬、手に入れたので……」
ワンは頭を掻きながら、次の言葉を探している。
しばらく迷ったあと、意を決したように口を開いた。
「頭、撫でていいですか?」
ブレない男である。

後の歴史家は語る。
この事件をきっかけに、女神に選ばれた聖女ニアの名前が広がり始めた。
ただ、その判断が後の惨劇へ繋がることを、この時はまだ誰も知らなかった。
