自己尊重と自己防衛は、よく似ている。私は「揺れないこと」を、回復だと思っていた。
私が三十代を目前にしていた頃。精神疾患が寛解に向かい、少しずつ自分を取り戻していく中で、私は「心が揺らぐこと」を過度に恐れるようになった。
たとえば、新しい仕事を探すとき、私が最初に確かめるのは、「ここで自分の力を発揮できるだろうか」よりも、「ここは自分のペースを乱さないだろうか」ということだった。
長時間の拘束はないか。時間外の打ち合わせはないか。残業はあるのか。夫と遊びに出かけるときでさえ、「二人で楽しめるか」よりも、「仮眠の時間を確保できるか」を基準に予定を立てていた。
その頃には、病気だった頃の自分や、自分の認知の癖についても理解が深まっていて、自分はどんなことが苦手なのか、どんな状況に置かれると消耗するのかについても、以前よりわかるようになっていた。だからこそ、なおさら私は、自分を消耗させる刺激に対して潔癖になっていたのだ。
当時の私はそれを「自己尊重」だと思っていた。
「自分の心地良いものを選びましょう」「自分をご機嫌にすることを大切にしましょう」。SNSには、そんな言葉がたびたび流れていて、私はそれらをすっかり鵜呑みにしていた。少しでも疲れると、「息抜き」「体力温存」と称して部屋へこもることもあった。
もちろん、自分を労ることは大切だ。嫌なことを断ってもいいし、合わない人から離れてもいい。自分が消耗するものを知り、それを選ばないことも、自分を尊重することの一つだと思う。ただ、当時の私は、その境界を越えていた。
そんな私を見て、あるとき夫が言った。
「なっちゃんは、そうやってセーブしながら、何かを恐れながら選ぶの? 人生で傷つかないなんて無理なんだよ」
その瞬間、私は何も言えなかった。
夫のその言葉の意味に気づいたのは、しばらく経ってからだった。
私は「自分を大切にしている」と思っていた。でも、本当にそうだったのだろうか。今振り返ってみると、あれは自己尊重というよりも、自己防衛の一つだったのかもしれない。
自分を守るために避けていたものや条件は、いつの間にか、自分自身を無菌室に閉じ込めるための壁にもなっていた。
無菌室にいれば、傷つく可能性は減る。自分のペースを乱されることも、予想外の出来事に心を揺さぶられることも少ない。でも、外から入ってくるものを遮断すればするほど、傷だけでなく、新しいものまで入ってこなくなる。
自分とは異なる価値観に触れることも、予想もしなかった出来事に感動することも、挑戦することで感じられる高鳴りもないだろう。
傷から自分を守ってくれる壁は、同時に、世界から自分を隔てる壁にもなっていたのだ。
そしてふと思った。自己尊重と自己防衛は、見た目がよく似ている。
「嫌なことはしない」「合わない人とは離れる」「疲れたから休む」。行動だけを見れば、どちらなのかはわからない。違うのは、その選択をどこからしているのか、ということなのだと思う。
「私はこれを望んでいないから、選ばない」のか。それとも、「傷つくのが怖いから、選ばない」のか。自分を大切にする気持ちから「いいえ」と言っているのか。それとも、恐れから「いいえ」と言っているのか。両者は、見た目だけではほとんど区別がつかない。
そしてもう一つ、気をつけたいのは、「私を不快にさせるもの=私にとって有害なもの」と捉えてしまうことだと思う。そうすると、他人から傷つけられる人生をやめたはずが、今度は傷つく可能性そのものを排除する人生になってしまう。
けれど夫の言うように、生きていれば心は揺れる。恋愛をすれば不安になるし、人と深く関われば、誤解されることもある。新しい仕事を始めれば、自信を失う瞬間だってある。
それらをすべて「自分を大切にする」という名目で避けていたら、確かに傷は減るだろう。ただ同時に、人生そのものとの接触面積まで小さくなってしまう。
私はそこから、自分ではキャパオーバーだと思い込んでいた領域にも、少しずつ足を踏み入れるようになった。仕事で任されたことを引き受けてみたり、自分が目指したい資格を取ってみたりした。
それは、嫌なことをやって忍耐力をつけるためではない。自分のやりたいことにまで制限をかけないためでもあったし、自分が信じている「ここまでやったら壊れてしまう」という境界線は、本当に今の自分にも当てはまるのかを確かめるためでもあった。
その過程で、実際に疲れてしまうこともあれば、心を乱すこともあった。けれど、疲れたり不安になったりするたびに自分を疑い、見くびることは少しずつ減っていった。
それよりも、「それでも私は戻ってこられる」という経験が、一つずつ積み重なっていった。
それはいつしか、自分に対する小さな信頼へと変わっていった。
以前の私は、回復するということを、どこかで「二度と大きく揺れない自分になること」のように考えていた。でも、本当は逆だった。揺れない自分を作ることではなく、揺れても戻ってこられる自分を育てていく。それは、自分を尊重することから、自分を信頼することへ移っていくことでもあるのだと思う。
かつては精神疾患を抱え、日常生活まで脅かされていた私だった。だから、自分の苦手なものや限界を知ることは、確かに必要だったのだと思う。でも、いつしか「私はこういう人間だから」という決めつけによって、行動範囲まで狭めるようになっていた。
それは自己理解に見えて、実は自分を閉じ込める壁になっていたのかもしれない。
夫の言葉の真意は、「もっと傷つけ」ということではなかった。「リスクをゼロにしようとすると、生きることそのものが縮んでしまう」。その現実を、ただ伝えていたのだと思う。
「すべてが思い通り」という人生は、きっとない。
私たちが自分自身に求めるべきなのは、自分に戻ってこられる安心であって、傷つかない完璧さではない。夫の言葉は、どこか頑なになっていた私の心をゆるめた。
生きることとは、きっと揺れることなのだ。誰かを好きになって揺れる。知らない世界に触れて揺れる。失敗して揺れる。予想外の喜びに出会って揺れる。心が動くということは、それだけ世界と触れ合っているということでもある。
私はようやく、「真っ当に揺れること」を、自分に許せるようになった気がした。
