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ここでの対象としての表現は、考えて理解するようなものでない。感性的な直観が捉えた現象である。理解力と言われるものが認識するものを表現したものではないと、知らねばならない。そしてそれ自体は、ぼくたちが知らないあるものであって、ぼくたちの感性との関係で成りたった外観をもつ直観のある形式なのだ… 連載 超訳プロレゴメナ 224 本篇 39

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第13節(承前)

 しかし、ぼくは日常性のなから取り出されるものとして、明白な例をここに追加する。

 ぼくが鏡の前に立っているとしよう。そこに映っている像以上に、ぼくの手やぼくの耳に似た同じものが他にあるだろうか? それでも、鏡に映った手を、元の場所に置くことはできない。なぜなら、それが右手ならば鏡に映っているのは左手であり、右耳の像は左耳であって、決して元のものの代わりすることはできないからだ。
 ここに誰の頭でも思いつくような内部の違いはまったくない。しかし感覚が教えている、その違いは内部にあると。なぜなら、互にすべての点で等しく似ているが、その左手を右手と同じ境界線で囲むことはできない(どちらも互いに重ねられない)からだ。だから一方の手の手袋を、他方の手にはめて使うことさえできない。
 それではこの問題は解決できるのだろうか?
 ここでの対象としての表現は、考えて理解するようなものでない。そうではなくて感覚(感性的な直観)が捉えた現象である。純粋な知覚(いわゆる理解力と言われるもの)が認識するものを表現したものではないと、知らねばならない。そしてそれ自体は、ぼくたちが知らないあるものであって、ぼくたちの感性との関係で成りたった外観をもつ直観のある形式なのだ。
 これらのことから、空間は外的な直観の形式であるといえる。あらゆる空間の内的な規定は、全体の空間の一部分が全体に対する関係(外部の感覚との関係)での規定によって可能となる。すなわち部分は全体を通してのみ可能であって、それは純粋な知覚に対して起こり得ないが、単なる現象として起こり得るのだ。
 ぼくたちは、あらゆる相違を一つの概念で理解することはできないのだ。知覚に直接基づいているもの、たとえば右手と左手の関係のようなものを通じてだけ、相違を理解することになるのであり、この関係が感覚をもって空間を知ることに、つながるのである。

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