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規則的なものを最初から求めるのではなく目前の具象から、認識の「対象」を探り出していく… ア・プリオリに存在するものを、思考の繰り返しで抽出した… 超訳プロレゴメナ 118 読書会編83

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超訳プロレゴメナ読書会 第七回から
 
前島幸太郎の感想
 
 まだ明確に表現することができないが、ぼくの中で去来しているものがある。それは、認識確立の起源とは、どこに求めるものなのかということだった。カントが科学の三点の特徴として表したものも、その始原なのだろう。
 しかし、これは捉え方次第では曖昧なもので終わり兼ねないものだった。そして言葉や文章を明確なものにするために、ぼくたちに求めれているものを考えていた…
 
***** 開始 *****
 個々の対象は、概念としては漠然としたものであって、その存在は確立して捉えなければならない。
 漠然としたものが、存在として確立できるのだろうか?
 
 そこで上記を、下記のように変更する。
 
 個々の対象は、存在としては確かなものだが、その概念としてまだ的確に捉えられていない。
 
 上に掲げた二つの文章「個々の対象は」から始まるはものは、同じことを言っている。だが受け取る側からは、かなり印象が異なったものになるだろう。
 文章とは生活習慣の中で偶発的に生成されていくもので、最初から規則だって成立していくものではない。文法は現状にたいして後づけで確立され規則化したものあって、原始から存在するものではない。
***** 完了 *****
 
 こう考えていけば、規則的なものを最初から求めるのではなく目前の具象から、認識の「対象」を探り出していくこと、それが適切との確信が芽生えた。探り出した当初の、それはまだ漠然としたものかもしれない。しかし考察の始点であることは確かなのではないか。ここから認識の繰り返しが始まって、それが記憶の中で積層されかつ無駄なものは除去していく、それが一つの対象の概念を確立することを、疑うことはできない。
 これも認識なる行為を経て登場した言えるものだろう、しかし経験の結果として生まれたものではない。対象にア・プリオリに存在するものを、思考の繰り返しで抽出したと、捉えなければならない。これは形ではなく、理念と観るべきものなのだろう。
 
 プロレゴメナ第1節の後半では、形而上学の確立には経験が関与しないことが語られる。科学の三点の特徴は、その前提とみるものだと思う。まだ表現は適格にはなってはいないが…

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