かなり抽象化された言葉も見えてはいる。だがそれは、これから進んでいく考察に関しては、不要な脇道を閉ざしたものと観るべきだろう… 連載 超訳プロレゴメナ 189 プロローグ編 28
これから第6節に入ることになる。この第6節では、「真理」という言葉が登場している。『純粋理性批判』では「真理」が主題となるのは、「超越論的論理学」が語られる段階からとなっている。そこでは「真理」を経験とは切り離して捉えられていた。
『プロレゴメナ』の第6節でも、「真理」は、経験から得られないことを明確にする主旨をもっている。それは、下記からも明らかなことと言っていい。
この認識の最大の特徴は、どんな経験にも依存することないことである。独立したものでありながらも、絶対的な確実性と必然性を持った認識なのだ。
したがってそれは純粋な理性から生まれたものであって、総合的な認識と憚ることなく主張できる。
しかし、第6節の冒頭では「真理」は主語ではない。カントが考えた認識の考察を、進めていく過程で得られるものを「真理」と称している。そいうわけで、ここを安易に読んでしまうなら「真理」が見えなくなることも考えられる。
カントの主意をくみ取るのは、やはり『純粋理性批判』を、最低でも「超越論的論理学」の個所を読んでいなければならないのだろうか? だが、ぼくはそう考えない。上に書いたように安易ではなく、考えながら読んでいく読者なら、「真理」が、経験とは無縁なものと気づき、そこにもア・プリオリの存在を確実に発見することになるだろう。
第6節はこれから進んで行く際に、道に迷わないための、注意ともみられるが、第7節ではそれを踏まえた形で、認識の最初の試み語られ始められる。それは、第5節の後半に書かれていた四つの問いの第一にあたる「純粋数学」での認識を対象としたものとなっている。
かなり抽象化された言葉も見えてはいる。だがそれは、これから進んでいく考察に関しては、不要な脇道を閉ざしたものと観るべきだろう。
そして、純粋な直観の可能性の発見で、純粋数学からア・プリオリに総合が可能なことを予測させる記述があることにも、読者は関心を持ってもらいたい。
数学の特性に関するこの観察結果は、数学の可能性に関して、最初でしかも最高の条件を示唆している。それは、純粋な直観(あるいはビューと呼んでもいい)がその基礎を形成してなければならないもので、そこで数学のすべての概念が構成される。それは具体的に数学の概念がア・プリオリに構築されることを示している。
ぼくたちがもしこの純粋な直観とその可能性を発見できれば、純粋数学からア・プリオリに総合な命題がどう可能であるか、さらにはこの科学自体がどのように可能であるのかを具体的に説明できる可能性が必ず生まれるに違いない。
以上のような意味で、読書会では第6節と第7節を同時に扱うことになるに違いない。そうして形而上学の発端がどうあるべきかをも、体感していくことになるのではないだろうか? たとえ言葉にすることはできないにしても…
