ただ読むだけでなく、自分自身で考えてみる、それがたとえ間違いであったとしても、考え続けることが重要だと思う… 連載 超訳プロレゴメナ 188 読書会編130
超訳プロレゴメナ読書会 第十四回から
まとめ
今回は、第5節の後半を中心にした読書会だった。
参加者の多くが気づいてたが、ここでプロレゴメナのまえがきに相当する箇所が終わることになった。
と言っても、わたしがそれを確信していたわけじゃない。ただ、第6節の冒頭に下記が書かれているから、ここが始まりなのかって漠然と思っていたにすぎない。
第一章 純粋数学はどうすれば可能になるのか
でも、荒川ゼミを履修している人たちは、プロゴメナの真ん中あたりまで進んでいて、それを実感しいるらしい。
空間や時間が語られるのは、第10節辺りで、そこからカントの超越論的なものが登場するって聞いている。
荒川先生の学生時代のノートを借りて読んでいて、それは科学としても重要なことだと思い始めていた。空間や時間と、もの事との関係を、把握していくことが、哲学としても、科学として重要なことだと思う。
けれども、そこに突然入っていくのではなく、分析と総合の関係を理解し、純粋数学や純粋自然科学の論理を身に付けていることが、必要なんだと思っている。
序説から第5節までは、二時間もあれば読める分量だと思う。だけど読んだだけでは、身にはつかないものなんだとも思う、読んでる中で、いろんなことを考えて、自分の体験と照らしあわせたり、体験だけでは補えられないことも実感しなければならないのだろう。
カントが考えた純粋数学が、現代数学に通じるってこと、それも読書会のディスカションで、確信になったはずだ。ただ読むだけでなく、自分自身で考えてみる、それがたとえ間違いであったとしても、考え続けることが重要だと思う。そうすれば、間違っていたところは自然に淘汰されていくことも実感できたから… これはわたしだけでなく、参加者の全員がそうなんだろう。
第6節からの予告のような形で下記が書かれているけど、長い時間をかけてプロレゴメナに親しんだわたしたちには唐突なものではなかった。
1.純粋数学はどうすれば可能か?
2.純粋な自然科学はどうすれば可能か?
3.形而上学一般はどうすれば可能か?
4.科学としての形而上学はどうすれば可能か?
それは、第5節までに書かれたことと、その順序にカントの心配りがあったからだろう。
また、荒川先生がいうように、第2節後半は、アカデミック版に従って第4節の後半に、あったほうが自然に観える。分析と総合は言葉を知るだけなら第2節でもいいかもしれないが、深く考えるには、第2節では、準備ができていない段階で、早すぎるのだと思う。
これも、時間をかけて読んできたことの成果として、納得できたのだろうけど…
話が変わるけど、荒川先生は來々週から始まる学会の準備に勤しんでいるらしい。
この学会は、松山で開催されるらしくって、先生の長女の環さんも同行するって聞いた。それは環さん曰く「わたしが生を受けたのは、松山だから」ってことらしい。それは、先生と奥様の愛情が、松山で結実したってことを表わした言葉でもあった。わたしが、ここに書くことも気恥ずかしいことだけど…
最初は、奥様や長男の庸介ちゃんの同行も考えていたようだが、まだハイハイが始まったばかりの庸介ちゃんを連れて行くことに躊躇して環さんだけの同行となったようだ… でも、子猫のコトラちゃんを残していくわけにはいかなかったというのが、ほんとうのことのようだった…
(桐川夢見 記)
