夢見ちゃんは、想像力もかなり大きいから、じぶんで結論までも、早く描いてしまうんだね!… それが、悪いことじゃないって、ぼく思う… たとえ間違っていても、自分の想定で結論を描くのは、論理思考の前提だと、ぼくには思えますから… いまは、間違っている可能性があっても、自分じしんで何が想定できるのかを、大事にしたいって、ぼくは強く思っています… 連載 超訳プロレゴメナ 320 読書会編 214
第33回読書会(つづき)
前島幸太郎:
たしかに20節の冒頭は、19節と同様に知覚に注目しています。けれども、それにたいする観点までが、19節と同じものって言えるでしょうか? そこからさらに、客観的に妥当なものしての経験につながる過程、それを導き出していると、ぼくには思えてなりません!
さっき曽根君が引用した先は、つぎのようになっていますから…
そして次には、(理解にのみ属して)判断する行為がある。だが、この判断には二つの要素がある。ぼくは単に認識を比較し、それらを自分の意識の特定の状態に結び付けるだけなのかもしれない。あるいは、第二に、それらを意識全体で結びつけるかもしれない。始めの判断は、単なる知覚の判断であり、主観的妥当性のみの判断なのだ。それは、対象とは関係なく、単にぼくの精神状態における認識のつながりにすぎないのだ。だから、一般に想像されているように、経験が認識を比較し、判断を通じて認識を意識に結び付けるだけでは、十分ではない。そこには普遍性も必然性も生まれることもないが、ここでの判断のみが客観的に妥当なもので、経験と呼ぶこと事ができるのだ。
桐川夢見:
ここでようやく明確に、知覚の判断と、経験に値するもが比較されているって言っていいのでしょうか? また経験って一言で言っていますが、それは経験判断から導かれたものでは、ないのでしょうか?
牧野照邦:
その通りかもしれませんが、いまの時点では結論を急ぐことはないって、ぼくは考えています。
山際このみ:
夢見ちゃんは、想像力もかなり大きいから、じぶんで結論までも、早く描いてしまうんだね!
須田隆雄:
それが、悪いことじゃないって、ぼく思う… たとえ間違っていても、自分の想定で結論を描くのは、論理思考の前提だと、ぼくには思えますから…
池田幸男:
たしかに論理思考の大前提は、想定から成り立ちものであって、それを受け継ぐ第二前提が、曖昧なものを除去する方向で進んで行けばいいわけですからね…
曽根康夫:
しかしカントの論理思考の例では、その第二前提に曖昧なものが多いことも喚起していますね!
前島幸太郎:
それは、三段論法を語る時点で、触れることにしましょう。いまは、間違っている可能性があっても、自分じしんで何が想定できるのかを、大事にしたいって、ぼくは強く思っています…
