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知覚ってわたしたちの五感が捉えたもの、そうとしか言えない… いつもわたしたちが、カントの通りに考えているわけじゃない!… 理性の思考は、日常的なものでなく、あることに集中して形成されいくものですから、ふだんは論理的な思考を基本的にするのではなく、思考結果で記憶に残ったものの一部を使っているにすぎない… 連載 超訳プロレゴメナ 319 読書会編 213

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 2019年7月13日(土)に第33回目の読書会を開催しました。Zoom利用の11回目の読書会です。
 
 今回、対象となるのは第20節ですが、第19節で掲げられた経験的判断の普遍的な妥当性の要因を、追求していくものとなっています。しかし、その話がいきなり始まるわけではありません。
 まず語られるのは、ぼくたちの感覚に関係する知覚を対象にしたものです。第19節で知覚判断と経験判断の相違を語って、経験判断にこそ、普遍的な妥当性があることを予測させながら、知覚から語ることは、一見して繰り返しのようにも観えます。しかし、そうではありません。なぜなら、すべての経験的判断は、ぼくたちの(五感と表現可能な)知覚からはじまるものだからなのです。その意味では、普遍的な妥当性についても、いったん忘れて、知覚そのものが何なのか、それを問うことが重要なことなのです。
 
 しかし20節の冒頭は、読書会参加者の戸惑いを誘うものになるのかも知れません。
 
 
須田隆雄:
 せっかく19節で、経験判断が、理解力で、普遍的に妥当であるって考えさせておきながら、20節の冒頭は、知覚の話から始まるんですね!
 
山際このみ:
 それって不満? そうじゃないんでしょ!
 
須田隆雄:
 ええ、初めて20節を読んだときには、なんでいまさら、知覚なんだって気もしたけど、今は少し違うね…
 
桐川夢見:
 考えてみたら、知覚ってわたしたちの五感が捉えたもの、そうとしか言えないものですね! カントの理屈は分かっても、いつもわたしたちが、カントの通りに考えているわけじゃない! そうだもの…・
 
牧野照邦:
 理性の思考は、日常的なものでなく、あることに集中して形成されいくものですから、ふだんは論理的な思考を基本的にするのではなく、思考結果で記憶に残ったものの一部を使っているにすぎないと言えるのでしょうね!
 
栗林雄太:
 だから対象の分析も、その集中的な過程で可能になるのではないでしょうか?
 
曽根康夫:
 そうだと思います。カントも、こう書いているではないですか。

 経験そのものを判断することが、どうしたら可能であるのかを。知るためには、経験を分析しなければならないことも当然だ。基礎となるのは、ぼくが意識する直観、すなわち感覚にのみ関係する知覚(perceptio)なのだ。

第318回本編52

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