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知覚が経験になる前に、まったく異なった判断が必要だ。ここに与えられた直観は、直観に対して相対的な判断になる形を決定している、そしてそこでの経験的な意識を単なる意識に結び付ける、こうして直観は経験的判断の普遍的な妥当性を確保する概念の下に含めなければいけないのだ。この概念は、理解のための純粋なア・プリオリな概念で… 連載 超訳プロレゴメナ 318 本編52

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第20節

 ここまでやってきて、ぼくたちは、この感覚とそれを理解しようして生み出したものに、何が含まれているのかを、知ることが必要となった。経験そのものを判断することが、どうしたら可能であるのかを。知るためには、経験を分析しなければならないことも当然だ。基礎となるのは、ぼくが意識する直観、すなわち感覚にのみ関係する知覚(perceptio)なのだ。そして次には、(理解にのみ属して)判断する行為がある。だが、この判断には二つの要素がある。ぼくは単に認識を比較し、それらを自分の意識の特定の状態に結び付けるだけなのかもしれない。あるいは、第二に、それらを意識全体で結びつけるかもしれない。始めの判断は、単なる知覚の判断であり、主観的妥当性のみの判断なのだ。それは、対象とは関係なく、単にぼくの精神状態における認識のつながりにすぎないのだ。だから、一般に想像されているように、経験が認識を比較し、判断を通じて認識を意識に結び付けるだけでは、十分ではない。そこには普遍性も必然性も生まれることもないが、ここでの判断のみが客観的に妥当なもので、経験と呼ぶこと事ができるのだ。
 
 だから・知覚が経験になる前に、まったく異なった判断が必要だ。ここに与えられた直観は、直観に対して相対的な判断になる形を決定している、そしてそこでの経験的な意識を単なる意識に結び付ける、こうして直観は経験的判断の普遍的な妥当性を確保する概念の下に含めなければいけないのだ。この概念は、理解のための純粋なア・プリオリな概念であって、直観が対象の判断に使うことができる日常の方法を決定するだけなのだ。概念を原因の概念とすると、そのなかに含まれる直観、たとえば空気の概念が日常の判断に関連して決定される、すなわち、空気の概念は仮定の判定の結果として、最初の言葉とそれとの関係で拡張することで機能するわけだ。だから原因の概念は純粋な理解の概念であり、考えられるすべての認識とはまったく異なり、その下に含まれる表象を判断一般に相対的に決定し、普遍的に正当な判断を可能にするためにのみ機能するのだ。
*もう少し解かりやすい例をあげてみよう。
 太陽が石を照らすと、石は熱くなる
この判断は単なる知覚判断であり、この現象をぼくが何度も知覚し、またほかの人達が何度も知覚したとしても、決して必然性は持つことはない、ただ知覚と知覚とがいつでもこんな形で結合しているというだけでしかない。
 だがぼくが「太陽は石を熟する」と言えば、原因という理解力概念が、この知覚を超えて付け加って、太陽の照射という概念と熱という概念とを必然的に連結することになる、そしてこの総合的な判断は必然的普遍妥当的判断に転じることになる。そうしてこの判断は客観的なものとなって、知覚から経験に転化するのである。
 
 それだから、知覚が判断したものが経験の判断になる前に、その認識がそのような理解の概念の中に含まれていなければならないのだ。たとえば、空気の存在と役割について未知であっても、ある概念を仮説として提示して拡大していけば、ぼくたちの判断は、方向づけがなされるのだ。そうすることで、空気の膨張は、単にぼくの現在の状態や、ぼくのいくつかの状態での空気となるものから得た知覚として、ほかの者の知覚に属するものではなくて、必然的にぼくの知覚に属するものとして明らかに表されるのは当然なのだ。「空気に弾力性がある」という判断は、空気の直観を原因と結果の概念に含まれる、それに先行する特定の判断があったからこそ、普遍的なものとして有効となり、ぼくたちの経験の判断となる。こうして獲得していった、それらの判断は、単なる認識ではなく、認識を確信として決定する。経験の結果を不変とするぼくたちの関係は、ぼくたちそれぞれが互いを考慮することで成り立つものだ。すなわち互いの考慮とは以下のものである。ここで仮説としたものは般的な判断の形式に相対的に関係しているもので、それが明らかになることを知ることで、ぼくたちは経験的な判断を普遍的に有効なものと確定する。

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