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ぼくたち人間は、役立たない経験も体験することになる。そこから、無駄と思われたものは、捨てていくしかない。ここに捨象的な対処が求められている…  捨象の速度が早ければ、早いほど、役立つ経験の多く身に付けることになるのは疑いないが、その速度は、人が代れば、また異なったものとなるのも事実なのだ… そこには生得的なものもあるだろうが、周りの影響も考えなければならない… 連載 超訳プロレゴメナ 317 プロローグ編 53

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 第19節では、いろんな経験で得たものすべてが、人間にとって重要になるとは限らないことが明かされた。なかには経験の結果が、人間にとっていっさい役立たないものある。
 
 しかし、それは経験以前に判ることでもない。だから、ぼくたち人間は、役立たない経験も体験することになる。そこから、無駄と思われたものは、捨てていくしかない。ここに捨象的な対処が求められているとも言っていいだろう。
 
 この捨象の速度が早ければ、早いほど、役立つ経験の多く身に付けることになるのは疑いないが、その速度は、人が代れば、また異なったものとなるのも事実なのだ。そこには生得的なものもあるだろうが、周りの影響も考えなければならない。
 国の為政者を観ていると、この速度がかなり遅く、無駄なものを拾い上げて、重要なものを後まわしにしているとしか思われない。それどころか重要なものを忘れてしまって、国の傾城に邁進しているだけでしない。これは、悪い環境に居ることじたいを本人が気づいていない結果なのだろう。
 
 閑話休題
 
 人間とは無駄とも思える事象を体験しながらも、その中から重要なものを抽出する能力を持っているものなのだ。
 19節では、その能力を、理解力として表現している。
 
 第32回読書会のデイスカッションでは、理解力を、「考えて考えて自分を納得させる行為」として受容したのではないのか…
 たとえば、こんな会話も弾んでいた。

前島幸太郎:
 ぼくたちは生きているってことだけでも、周りの状態やその変化を体験、いや… 今は味わっているって言ったほうがいいかもしれませんね… その味わいってのが、すべて経験になるわけでないのは、いうまでもないでしょう…
 
山際このみ:
 幸太郎が、体験って言いかけて、味わいって言いなおしたけど、それは体験って言葉に潜む紛らわしさを懸念したからなんだよね…
 
須田隆雄:
 体験って、経験っていうよりも、たんに味わっているのにすぎないのに、普遍的な妥当性を持っているように考えている人もいますからね…
 
栗林雄太:
 観ただけでは、それが今後も役立つものになるのか、それは判らないってことなんですね。だからその段階のぼくたちの判断を、カントは知覚判断と命名したわけでしょうね。

第313回 読書会編 209

 そして最初は知覚判断にすぎないものも理解力を通して、普遍的で妥当なものを確立していくことになる。その結果として経験判断と呼ばれるもの登場する。その過程についても前回の読書会ではディスカッションされている。ただ、そこでは理解力の機能が重要視されているだけだった。
 ところが、第20節では下記が語られる。

 知覚が経験になる前に、まったく異なった判断が必要だ。ここに与えられた直観は、直観に対して相対的に判断なるもの形を決定している、そしてそこでの経験的な意識を単なる意識に結び付ける、こうして直観は経験的判断の普遍的な妥当性を確保する概念の下に含めなければいけないのだ。この概念は、理解のための純粋なア・プリオリな概念であって、直観が対象の判断に使うことができる日常の方法を決定するだけなのだ。

第318回本編52

 これについて、第33回読書会で、奥深いディスカッションが実現することを期待している…

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