ぼくたちが自然を理解することは、経験を分析するという意味だったのではないだろうか。たんに経験を体験するだけなら、何も生まれるはずはない。そして「経験の可能性」という言葉も登場した… これこそ経験をたんに体験しているだけの状態では、生まれるはずはないものだろう。経験にたいして、人間としてのぼくたちが能動的の取り組んだものだけが、「経験の可能性」を生み出すものだと、ぼくは確信している… 超訳プロレゴメナ 302 プロローグ編50
第14節から、プロレゴメナの第2章に入り、自然科学を対象に論究が進めれれてきた。とうぜんして自然科学そのもの論議するわけっでなく形而上学としての取り扱いを論議してきたわけになる。
それは、生きた人間から生まれる問いにたいする、答えでもあった。..ぼくたちが自然を理解することは、経験を分析するという意味だったのではないだろうか。たんに経験を体験するだけなら、何も生まれるはずはない。そして17節では、「経験の可能性」という言葉も登場した。
これこそ経験をたんに体験しているだけの状態では、生まれるはずはないものだろう。経験にたいして、人間としてのぼくたちが能動的の取り組んだものだけが、「経験の可能性」を生み出すものだと、ぼくは確信している。
カントの言葉は、以上のような直截的な表現は取ってはいないが、それでもぼくは、同等のものをカントから読みとることができる。18節の初めにある下記からも、ぼくはそれを読みとっている。
すべての経験判断は、(感覚認識に根拠をもって)経験的ではあるが、すべての経験的判断は経験判断ではない、と言わねばならいことを。
経験的であり、感覚的直観に与えられるもののほかに、まったくア・プリオリに特定に追加された概念を持たなければならないのだ。その下にあっての認識がまず包摂され、その概念を通して経験を取得する。これが本来の道筋にほかならない。
感覚的直観に与えられるものだけに止まっているだけなら、「経験の可能性」なんか生まれてくはずもない。理念が産み出す「ア・プリオリに特定に追加された概念を持」つこと、それこそが、「経験の可能性」を育んでいると、ぼくには読みとれるのだ。
さらに、経験的判断を語る段階に来ると、知覚判断が、対象的に語られ始められる。
直観の段階に止まりかねない知覚判断では、理解力を必要とする判断の領域が登場することは考えにくい。
ぼくたちは理解力の行使で、高い領域に進むことができ、真に必要な理念を生みだしたと、捉えなければならない
ここにも自然の法則を人間のものとした思考領域が存在している。これも、「コペルニクス的転回」の領域に通じる話題と言っていいだろう。
18節については、まだ書かなければならないことが残っている。それは、時間をおいて新たに書いてみたいと、いまは思うだけに止まっている。
