ある判断が対象と一致するとき、その対象のすべてに同様に一致しなければ、それ以上の表現が認識されることがなくて単なる知覚判断の域に止まっているとしか言えない… だからある判断が、経験判断と言えるのは、だれが観てもそこに普遍的に妥当と言えるものがあることが必要なのだ… 超訳プロレゴメナ 303 本編 50
第18節
まず、ぼくたちは注意しなければならない。
すべての経験判断は、(感覚認識に根拠をもって)経験的ではあるが、すべての経験的判断は経験判断ではない、と言わねばならいことを。
経験的であり、感覚的直観に与えられるもののほかに、まったくア・プリオリに特定に追加された概念を持たなければならないのだ。その下にあっての認識がまず包摂され、その概念を通して経験を取得する。これが本来の道筋にほかならない。
経験的判断は、客観的な妥当性があることを前提にした経験判断だ。しかし、それが主観的にだけ妥当するだけなら、ぼくはそれを単なる知覚判断と呼ぶ。
知覚判断は、理解するための純粋理解力概念を必要とせず、思考する主体での認識の論理的結合を必要とするだけだ。
それに対して経験的判断は、感覚的な直観の表象に加えて、理解のために生じた特定の概念を常に必要としている。ここでは概念が、経験判断に客観的に妥当していることが明らかにされている。
ぼくたちの判断は、すべて最初は単なる知覚判断にすぎない。それらはぼくたち(の主観)にとってのみ、妥当なものと言える。この後に初めてそれら対象に、新しい関係である客観への関係を与え、それらが常にぼくたちにとって、そして他のすべての人にとっても妥当と判断できる有益な結論を求めることになる。
これについて、もう少し考えてみる。
ある判断が対象と一致するとき、その対象のすべてに同様に一致しなければ、それ以上の表現が認識されることがなくて単なる知覚判断の域に止まっているとしか言えない。
だからある判断が、経験判断と言えるのは、だれが観てもそこに普遍的に妥当と言えるものがあることが必要なのだ。なぜなら、経験の判断の客観的妥当性は、その容認に必要な普遍性以外に得るのものは他にないからである。
ここで判断そのものに言えること(求めること)は、主観と知覚の関係ばかりでなく、対象そのものの生態を表現することもって判断が実質的になることだとだろう。
すべての判断が、対象に関係してその対象と一致し、その結果、再び互いに一致するのは、対象による統一があるからだ。もし対象によるこの統一がないとしたら、下記をいう必要なんかまったくない。
ぼくの判断と他(ほか)の多くの人たちとの判断が一致しなければならない…
統一がない時代には、これは焼却場で使われる言葉でしかない。
