経験を経るだけでなく、これから先の経験までをも考えていく… なんて、創造的な試みなんだ! ここには人間の生命(いのち)が謳う詩が観える… 超訳プロレゴメナ 301 読書会編 202
第30回読書会(まとめ)
最近、よく思うことは、哲学と人間との関りだ。
哲学なんてなくたって生きていけるって言う人もいる。以前は、ぼくもそう思うことが多かった。
しかし今は、そうじゃない…
人間は哲学をしなければ生きていけない。
今のぼくは、これを確信を持って言うことができる。
哲学とはたとえ意識しなくっても、
なぜ、自分はここに存在しているのか?
そう考えたことがある人は多いはずだ。
哲学の創世記時代ともいえるころ、パルメニデスは、こんなことを言っている。
有るものは有り、無いものは無い。
有るものは、ただ、不動・不変であり、
理性だけが認識し、探究を可能にする、
当時、こんな考えを持ったのは、パルメニデスだけではなかったのではないだろうか。ただ、記録が残っていないだけではないのではないか?
そう思うのは、こうした思考は、だれもが抱くものだと、ぼくには思えるからだ。
二年近く前のことになるが、荒川ゼミの履修を始めたことろだった。「哲学は暇人がやるもの」ってことが話題になったこことがある。
そのとき先生は、哲学をやることができたのは貴族という立場のひとであって、奴隷からは哲学は生まれていないことを指摘してくれた。たしかにその通りだが、奴隷だって同じことを考えていたのではないかって今のぼくは思う。ただ、書き残す手段がなかっただけなんじゃないのかって…
その時代には自然の法則も、人間の慣習の中に息づいていた… それを思えば、人間の多くが自然を理念で把握することも可能になっていたはずだ。そこには、貴族や奴隷って区別なんかない。人間として共通の理念が、自然を客観的に観察するようになっていたんだと思う…
ここまでに書いたことが、ぼくの中で湧き出してきたのは、読書会のなかで、下記が話題になったときだった。
こうして、ぼくたちは経験と経験の可能性、そしてア・プリオリに与えられる 制約だけに関りを持つことになる。そうして、ぼくたちは自然をあらゆる可能な経験の全対象として決定することになる。
経験を経るだけでなく、これから先の経験までをも考えていく… なんて、創造的な試みなんだ! ここには人間の生命(いのち)が謳う詩が観える…
「経験の可能性」に、ロマンを感じるって言った人もいたけど、その通りだと思う… そしてさらには、そこから生命(いのち)を讃えて謳う人間の存在があるってこと… その存在をぼくは強く確信している。
(須田隆雄 記)
