空間と時間について、ぼくが掲げた説は、認識に関する重要な意味を持つことになる。感性の全体をたんなる仮象にしていると非難もあるが、まったく当たっていない。『純粋理性批判』を、丁寧に読めば解ることだが、認識に関する重要なこととして、数学がア・プリオリに提案するものを、実際の対象物に確実に適用することを保証するのが、ぼくが掲げたものであり、かつ唯一の手段なのだ… 連載 超訳プロレゴメナ 265 本編 44
第13節 補足3(承前)
しかし、あえて空間と時間について、ぼくが基本とするものと反対の概念を、ここで考えてみる(なぜなら、ぼくがその概念を受け入れることを、妨げるものが何もないからだ)。その概念とは、空間と時間を物自体に属するとすることなのだ。その結果は次に行きつくだろう。
主観にだけ属して確実で妥当であったものを、普遍的に妥当なものとしなければならなくなる。これは仮象なるものについても、放置しがたい誤謬としか言えない。
なぜこうなったのか?
空間と時間を物自体に属するとすることで、経験を産みだすはずの条件を捨てて概念を創り出そうとしてしまったからである。
だから空間と時間について、ぼくが掲げた説は、認識に関する重要な意味を持つことになる。
感性の全体をたんなる仮象にしていると非難もあるが、まったく当たっていない。『純粋理性批判』を、丁寧に読めば解ることだが、認識に関する重要なこととして、数学がア・プリオリに提案するものを、実際の対象物に確実に適用することを保証するのが、ぼくが掲げたものであり、かつ唯一の手段なのだ。
この唯一という言葉を、ぼくは強調する。なぜならば今までにここに書いてきたことだけでは、空間と時間に関するものが、ぼくたちの中にア・プリオリに存在することを理解できずに、ぼくの幻想と捉えられることも、あると考えられるからだ。繰り返しになってしまうが、理解しながら丁寧に読んでくれば、良いとは思うのだが…
それでも理解が不足するのは、物自体の概念を人間の能力だけは、幻想ではないかどうかを判断することが、完全に不可能だからなのだ。
だからぼくは、そんなものに拘泥なんかしていない。空間と時間が、感性がなす世界での単なる現象として把握することで、先に進むことを可能にしているのだ。
続いてここで言っていることを、感覚の表象を単なる仮象にするのでないということを改めて強調しておく。
ぼくが掲げた原理では、感覚の表象から現象が創られると言っている。だから上記のような誤解が生まれるのだろう、だが掲げた原理は超越論的な仮象を防ぐ唯一の手段なのだ。形而上学はこの仮象に、かねてより欺かれ続けて単なる表象である現象を物や事象にそれ自体と見なしてしまった。そのために石鹸の泡を捕まえるという子供じみた試みを続けてきたのだった。
こうして理性のアンチノミー(二律背反)なる注目すべき事態が出現じた。これについては、先で言及することになるはずだが、これだけは言っておくことにする。
次に示す確定的なことがなすただ一つの観察によって、除去されるものなのだ。
現象は、それが経験の中で用いられている限り、真実を生み出すが、それが限界を超えて超越的になったとたんに、仮象以外の何ものをも生み出しはしない。
