ぼくの観念論は、事象の感性的表象だけに関係していて、この表象に空間と時間が属しているのだ。この空間と時間について、すなわち一般のすべての現象についてぼくが示したのは、それらが単なる表象様式であって事象に属する規定ではないということである 連載 超訳プロレゴメナ 266 本編 45
第13節 補足3(承前)
こういうわけで感覚によって表象される物に現実性を認めはするが、そこにある限定を観る必要があると言わなければならない。その現実性とは感性は限定されていて現象以上のもの何かを表象することは、まったくない。これは自然を説明するめにぼくが考え出した幻想ではない。だからぼくが言うことを観念論とする非難にことに、ぼくが抗議するのも正当で明白なことだと言っていいだろう。
もしこれらについて不適格な発言をする者がいなければ、抗議さえ不要になるはずだ。ところがそういう発言をする者は少なからずいて、自分の考えに固執するだけでなく、一般的な意見と異なるものに、古い名前をつけたがる。そして他の意見の哲学的な精神を理解することもなく、自分の狂気を押し通すことで理論そのものを歪めてしまう。
ぼく自身の理論に先験的観念論の名前を付けているという事実は、それをデカルトの経験的観念論や、バークリの神秘的で妄想的な観念論と、混同してしまう権利をだれに与えないということなのだ。
デカルトにおいては、この課題を解く困難を体験した結果、物質的世界の存在を否定するかどうかは課題に向かう各人の各人の考え方に委ねられしまったものだった。その結果、存在そのものは解決されずに終わった。さらにバークリとそれに類したものは、ぼく批判で妄想として解消されるものなのだ。
ところがぼくのいわゆる観念論は事象の存在に関わるものでなく、初めから存在そのものを疑うこと事態を思いつかなかった。事象の存在を疑うことが、観念論といわれるものを構成しているといことをここで考えてみてほしい。
ぼくの観念論は、事象の感性的表象だけに関係していて、この表象に空間と時間が属しているのだ。この空間と時間について、すなわち一般のすべての現象についてぼくが示したのは、それらが単なる表象様式であって事象に属する規定ではないということである。
ぼくにとって超越的という言葉は、けっして人間の認識の事物への関係を示すのではなく、認識能力への関係を意味するだけである。これによって誤解を防ぐことを期待していた。だが、これ以上の誤解を招くことを避けるために、ぼくはこの名称を撤回して、批判的観念論と呼ぶことにしたい。
それでも現実の事象(現象でなくて)を、単なる表象に変えるという考え方が認め難い観念論だというのならば、それと反対の単なる表象を事象とする観念論には、どんな名前が与えられるのだろうか。妄想的と呼ばれることが合う先の観念論から区別して、夢想的観念論が合っているとぼくは考える。これら両者とも、普通には先験的と呼ばれているぼくの観念論、さらに適切な表現では批判的観念論いうべきもので確実に防御されるはずだ。
