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補足3の最後に、カント自身の観念論が語られています。この箇所は、観念論という言葉を考え直さなければならないような主張も観えます。ぼくたちじしんが観念論をどこまで咀嚼できているかも、問題とは思いますが… 連載 超訳プロレゴメナ 267 読書会編180

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 第26回目の読書会が、2019年3月23日(土)に、開催されました。今回は、Zoom使った5回目の読書会です。

 また、第13節の補足3の後半が今回の対象となります。この後半だけでもかなり長いものですが、それほど困難なく、ディスカッションできるのではないかと、考えています。それは、ここはいままで扱ってきた空間と時間にたいする考え方の、再復習のような個所も含んでいるからです。その意味では、また後になって、戻って読み返す要素が多いところなのかもれません。
 こんなことを書いても、この読書会に馴染んだきた人には当たり前すぎることかもしれませんね。カントのどの本をとっても一度読んで終わりにできるようなものは、まったくありませんからね。

 優れた本ならそれは、カントに限ることではりませんけどね。

 また補足3の最後に、カント自身の観念論が語られています。この箇所は、観念論という言葉を考え直さなければならないような主張も観えます。
 ぼくたちじしんが観念論をどこまで咀嚼できているかも、問題とは思いますが、そこには今回は深入りしないつもりです。それは、人間の信仰や宗教観の問題まで含めて考える必要があるものだからなのです。
 プロレゴメナも、かなり後半になると、そうした話題が登場してきます。その時点で観念論を、再び問えば十分だと思っています。

 もっともそこに到達するには、この読書会があと2年以上は、続いていなければなりませんけど…

栗林雄太:
 今日の対象の最初は、カントの確信をいったん否定した形をとっていますが、ぼくたちから観ると、その確信をさらに強調しているようにも観えてきますよね。

池田幸男:
 そうですね! ここを書いているときに第二版序文の「コペルニクス的転回」が浮んでいたんじゃやないかって、思えますからね!

 しかし、あえて空間と時間について、ぼくが基本とするものと反対の概念を、ここで考えてみる(なぜなら、ぼくがその概念を受け入れることを、妨げるものが何もないからだ)。その概念とは、空間と時間を物自体に属するとすることなのだ。その結果は次に行きつくだろう。
 主観にだけ属して確実で妥当であったものを、普遍的に妥当なものとしなければならなくなる。これは仮象なるものについても、放置しがたい誤謬としか言えない。
 なぜこうなったのか?
 空間と時間を物自体に属するとすることで、経験を産みだすはずの条件を捨てて概念を創り出そうとしてしまったからである。

第265回 本編 44

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